ボカロ曲のある日常〜聖夜に天使が落ちるまで〜

サヨナキドリ

あなたの名前は

 ああ、こんなことになるなんて

 せっかくたくさん練習したのにな

 それでもいまは、ただ届くことだけを祈って走りながら声を振り絞る

『最後の1秒まで前を向け!!』


 **


「なんで俺は、またこんなところに…」

 苦虫を噛み潰し、CDショップに背を向けた。週末のショッピングモール。ざわめきのなか客たちはぎりぎりぶつかり合わずに歩いている。俺は来週分の食料の買い出しに来たんだ。目的の店はここじゃない。スーパーになっている一角に足を向けたそのとき


 ——0と1が交差する地点

 間違いだらけの コミュニケーション


 口ずさむ声が聞こえた。40mP『トリノコシティ』。その声があまりに澄んでたから、本能的に振り返る。声の主は女の子で、この人ごみの中では埋もれてしまいそうで、今すれ違ったら消えてしまいそうで

「まって!」

 ぶつかる肩にも構わずに、大股三歩で距離を詰めて、少女の肩に手を掛ける。瞬間、飛び上がるようにして少女は歌うのをやめ、触れている手からもわかるほどに身体をこわばらせた。その震えに一瞬で我に帰る。

(ヤバい!何してんだ俺!)

 反射で声をかけてしまったが、ナンパなんてしたこともない。いっそのこと走って逃げて行ってくれないかとさえ思ったが、その子はゆっくりと振り返った。


 ――ごめんなさい ぶつかりましたか


 怯えきった目で少女は言った。いや、そう歌った。ありふれた言葉は旋律を伴い、少女の唇から流れ出た。そうか歌なら…


 ——あなたの名前は 何ですか? 10文字以内で


「教えて?」

『トリノコシティ』の続きを、俺は引き取った。ああ、二小節目の頭の音が三分の一音外れてしまった。これだから歌うのは苦手なんだ。そんな歌でも意味はあったみたいだ。彼女の怯えの表情は、驚きにとって代わられた。口が小さく開いて、返答がメロディと一緒に流れ出す。


 ——クリス 柊 クリス

 ——クリス! とてもいい名前だ クリスの声は とてもキレイだね


 体に染み付いたコード進行から、なるべくポップなものを選んだ。アドリブだ。街中で突然歌い出すなんて、はたから見たらまるきり道化師だが、俺もそう思う。きっと、クリスもそう思って、口を手で押さえてクスクス笑ってくれた。よし!畳み掛けよう!


 ——今日はクリスはなにしに来たの? 君のこともっとしりた


 後ろから両肩に手を置かれ、今度は俺が飛び上がる番だった。


 ——アケミ!


 クリスの声。俺がぎこちない動きで振り返ると、アケミと呼ばれた女性の顔があった。20代半ばだろうか。美人で、クリスに少し似ていた。


 ——クリス ひとりで行ってしまうなんて 心配してたのよ


 アケミがクリスをとがめる歌。クリスが気まずそうに目を伏せる。


 問:人生初のナンパを敢行していたときに、母親が現れた主人公の心境を50文字以内で答えよ


「じ、じゃあ俺はこのあたりで……」

 逃げようとしたら、両肩の手に力が込められた。

「そう言わずに。ねえ、お茶でもどう?」


 **


「耳が聴こえない?」

 ショッピングモールの一角にある喫茶店。4人がけの席でアケミ、クリスの向かいに座り、アケミからの意外な言葉を聞いた。

「そう。難聴。いや、失語症のほうが適切なのかもしれない。とにかくクリスには他人の“言葉”が聞こえていない。」

 アケミがカフェラテを一口飲む。釣られて俺もコーヒーのカップに口をつける。

「体の障害ではないの。耳の器官も、神経も、どれだけ精密な検査をしても問題は見つからないのだけど」

「ならどうして」

「母親からの虐待による心の傷」

 さっきから、不意打ちのような言葉ばかりだ。

「待ってください。アケミさんって、クリスのお母さんじゃないんですか」

「クリスは私の姪。この子の母親はマリヤ、私の妹よ。」

 アケミ伯母さんという言葉がちらついたが、茶化せるような話題ではなかった。少しだけ後悔の滲む声で、アケミさんは先を続けた。

「私は、今は休業しているけど、児童福祉司なの。それが身内で虐待なんて、医者の不養生もいいところじゃない。叱り飛ばして、引き剥がすみたいに引き取ったの」

 こんな話がされているのも聞こえていないのだろうか。当のクリスは無邪気にハニートーストと格闘していた。はぐれてしまったことを不問にされただけでなく憧れのメニュー(ひとりで食べるには少し多い)を食べられてご満悦と言ったところか。

「マリヤは、離婚して、母子家庭になったのを一人で全部なんとかしようとして、追い詰められて、とうとうクリスに『あなたがいなければ私は苦しまずにすんだのに』なんて言葉を」

 そんなクリスの様子からは想像できない闇を、アケミさんは語る。彼女の中でも整理ができていないのか、話し方が少しぎこちない。

「元は仲が良かっただけにショックも大きかったみたい。それ以来、クリスは他人の言葉を受け付けなくなった。傷つくくらいなら、聞こえなくていいと判断してしまったのかもしれない

 ……何より救いがないのは、クリスが聞こえなくなったことに、マリヤは半年気付かずに、気づいてさえ2カ月放置していたということ」

 でも

「俺とは話ができたじゃないですか」

 そう、前提からおかしいのだ。俺は別に筆談も手話も使わずに、クリスに声を掛けたのだから。

「そう。そこなんだけど、本当に『話を』した?」

「えっ……あ」

 含みのある言い方に、気づいた。そうだ。

「……歌なら、聞こえるんですか?」

「そう。何故なのかは、わからない。わからないのだけど」

 言葉を拒んだ少女。歌だけ受け入れる少女。

「……そんなこと、俺が聞いても良かったんですか」

「確かに初対面の相手に言うことじゃなかったかもしれない。でも、もっと初対面の相手に言うことじゃないことを言おうとしているから」

 アケミさんは一瞬見えた自嘲をすぐに隠して、真剣な眼差しでこちらをまっすぐ見て言った。

「この子のために力を貸して欲しいの」

 なんでとか、どうして俺がとか疑問はいくらでもあったのだろうけど、ひとつも言葉にならなかった。それらの疑問をせき止めてしまうくらい、俺は嬉しかった、みたいだ。アケミさんは続ける。

「クリスがあんなにすぐに笑顔を見せた相手なんてあなたが初めてだもの。どうしてあんなアドリブができたの?音楽が好きなの?」

「嫌いです」

 この返答は失敗だった。口をついて出た答えにアケミさんは少し驚きを見せた。当然だろう、不自然にも程がある。

「いや、まあ、そのあれですね。なんというか音痴なので歌はそんなに得意ではないとかそういう意味です」

 しどろもどろになりながら、なんとか取り繕う。ここで切ってしまえば、クリスとはもう会えないだろう。あの歌声を、もう聞けないだろう。

「そうなの?じゃあ音楽があなたを好きなのね」

 そんな内心を知ってか知らずか、アケミさんは深くは聞かなかった。

「改めてお願いするわ。クリスの心の傷が癒えるように、力を貸してくれないかしら」

「俺にできることであればなんでもしますよ」

 クリスがハニートーストを食べ終えるのを待って(俺も少し手伝った)アケミさんたちは立ち去った。当然のように俺の分まで会計を済ませて。ふたりが去った俺の前に、冷めた一杯のブラックコーヒーが残った。

 余談だが、俺はブラックが飲めない。


 **


「とは言ったもののなにができるか」

 机に突っ伏してつぶやく。結局あの日食材を買い忘れ、白いごはんだけの朝食と弁当になってしまった。放課後まで体力が良くもったものだ。

「内藤!今日こそ話を聞いてもらうわよ!」

 その机に両手を突きながらクラスメイトの常盤ときわが声をあげた。サイドテールが揺れる。胸は大して揺れない。大声と机ドンのダブルパンチで俺の視界は揺れていた。

「聞いているが聞く気がないだけだ。軽音楽部が部員数が足りなくて廃部になりそうなことも、それで俺を勧誘してることも聞いたが、俺には何の関係もないだろ」

 耳鳴りする耳を押さえながら可能な限り冷淡に返答したが、常盤は食い下がった。近い

「そう言わないで。ボーカルでいいから!センターでスポットライト浴びれるんだよ」

 構わず荷物をまとめてスクールバッグを肩にかついだ。

「吐き気がするな。音楽は嫌いなんだ」

 これは本心だ。

「じゃあなんでそんなヘッドホンを」

「単なるファッションだよ。……まさかそれで俺を狙ってたのか?とにかく、他を当たってくれ」

 そう言って教室を出る。振り返ってはいないから、常盤がどんな顔をしているのかはわからなかった。

 カレールゥ、ひき肉、玉ねぎ、にんじんその他を買って家に帰る。高校は自転車で無理なく通える距離にある。反面、スーパーに行くのは少し遠回りになるのだけど仕方がない。帰り着いたところで少しいつもと違うことが起きていることに気がつく。自転車を停めて、荷物は一旦カゴに置いたままで。


 ——ようこそ おかえりなさい


 そう歌いながら、アパート1階3LDK、我が城の扉を開くと、玄関前で待っていたクリスは満足げに入っていった。後ろ手でドアを閉めながら電気をつける。明るくなったところで廊下とリビングを隔てていたドアを開け、椅子に座って手に持っているボストンバッグを置くように身振りでクリスに伝えた。しっかり伝わったことを確認して、一度ドアを閉める。ポケットからスマホを出す。最高速で打鍵して問題の番号に発信する。

「どういうことだアンタ!」

「ああ、良かった。無事に着いたみたいね」

 電話の先にはアケミ。これだけの剣幕に対してこの反応は、分かってやっているな?ともかく、最大の疑問をぶつける。

「いやスマホの番号とアドレスは教えたけど住所まで教えてはなかっただろ!」

「同僚に聞いた」

「職権濫用にも程がある!」

「支援が必要な青少年の情報を共有するのも重要な業務のひとつよ」

 白々しく答えるアケミに二の句が継げず俺は歯ぎしりした。

「ちぃっ!で、どうしろと。明らかに泊まりの荷物で来てるけど」

 あの中身が詰まっていそうなボストンバッグはそういうことだろう。

「しばらく預かってもらえないかしら。きっと良い影響があると思うの」

「俺が17歳、クリスが14歳ですよね?」

 クリスはああ見えて、学校に行っていれば中学2年生なのだ。アケミによるとあの難聴に加えて退行の症状があるらしい。実際はじめて会った日は、発達が遅れた体も相まって、中学生だとは俺も思わなかった。

「そうね。やっぱり歳が近いと心も開きやすいんじゃないかしら」

「思春期!ふたりきり!ひとつ屋根の下!」

「過ちが起きるかもしれないって?自己申告してくれてるあたり心配はないと思うけど……抜かりはないわ」

 意味がわからず一呼吸の間が空いた。

「避妊具は一箱持たせたから!当分はそれで足りるはずよ!」

「張っ倒すぞ!!!!………切りやがったぁ」

 狭い廊下に俺の絶叫が反響する。八つ当たりにスマホを投げてやろうかと思ったが、俺だけが痛い目を見そうなので踏みとどまった。

「くそ!初見ではもうちょっとマトモそうに見えたのに……」

 なんにせよ、ここで荒れていても仕方ない。リビングに戻ると、あれだけの大声を出したにも関わらずクリスが平然と、むしろどこか楽しげに鼻歌を歌っていた。

(本当に聞こえていないんだな……)

 今更ながらに実感しつつ俺はクリスの正面に回って視界に入った。


 ——これで君は満足できるの?パラジクロロベンゼン


 オワタP『パラジクロロベンゼン』。適切とは言えない選曲かもしれないが、ともかくクリスの意思が確認できる歌が欲しかった。もしアケミが無理強いしてのことなら、対応を考えなければいけない。クリスはちょっと考えて、


 ——ダイジョウブ、ダイジョウブ


 それだけ歌ってにんまりと笑った。

「KEI『ピエロ』。名曲だけどそこだけ使うもんか?普通」

 呆れの混ざった暖かいため息が自然と口から漏れた。ともあれ、クリスもそういうなら仕方がないだろう。

「ちょっと待っててくれな。夕飯を作るから」

 エプロンを着ける。キーマカレーを作って3日持たせる予定だったが、ハンバーグに変更しよう。ささやかだけどご馳走を作ろう。これからはじまる二人暮らしのために


 **


「内藤!」

「相変わらずしつこいな。そろそろ諦めたらどうだ」

 ひと月の間これを続けていたわけだから、随分と根気のあるやつだと思うが、努力の方向性を間違えているだろう。と、教室がにわかに騒がしくなった。校門が見える窓にひとだかりができている。

「ほら、なにか面白いことが起きてるみたいだぞ。俺なんかに構ってないで……」

「誰だろあの子?誰かの妹?」

「あ、センセが話かけに行った。」

「でも、ちょっと様子が変?」

 口々に言うクラスメイトの言葉がどこか引っかかる。が、いつも通り夕食をどうしようか考えながら鞄を取り上げる。突如、歌声が響く


 ——自分だけどこか 取り残された 色のない世界 夢に見た世界

 傷んだ果実を 捨てることすら 1人じゃ出来ない 傍にいてほしくて


 たっぷり10秒の静寂。そして、カバンを捨て2秒で走り出した俺。

「なんでクリス来てんだ!?」

 過去最高速で校門まで駆けつけると、泣き出しそうなクリスと持て余した先生がいた。どこか犬のおまわりさんを連想する光景だった。

「すいません。このこ僕の妹です」

 酸素の足りない頭で適当を言った。正確な説明はややこしいし、そもそも俺も今の事態をよく把握していない。

「そうか、じゃあ、あとは任せた」

 それでも先生には充分な説明だったらしく、安堵の溜息をついて去っていった。改めてクリスに向き直ると、クリスはたじろいだ様子を見せた。いつかと同じくらい怯えたその目に、のどまで出かかった「なんで?」の言葉を飲み込む。トリノコシティは、『究極の寂しがり屋の歌。』だ。それが答えだろう。

 意を決するとか、そういう間もなく息を大きく吸い込んだ。


 ——世界で 1番おひめさま 分かっているから お前は俺の嫁


『アナザー:ワールドイズマイン』ryoの『ワールドイズマイン』。その、あにまによる替え歌。クリスぽっかーんとしてるけど、フルコーラスで演ってやんよ。こういうのは勢いが大事だ。


 ——世界で俺だけのおひめさま ちゃんと見てるから どこかへ行くなんてないさ


 クリスにとって、あの部屋にひとりで留守番させていたことがどれだけ負担だったのか分からない。何か手を考えないと。それこそ、俺も休学してもいいかもしれない。そんなことを考えながら、歌は佳境に向かう。


 ——惹かれるだろ?


 歌い終わると脳内で鳴り響いていた伴奏は後奏も残さずぴたりと止み、周囲の音が戻ってきた。自分の中の冷静な部分が恥ずかしさに悲鳴を上げるので、力技でねじ伏せる。

「ブラボー!ブラボー!」

 そんな努力も背後から近づいてきた拍手と賞賛の声に吹き飛ばされた。

「ガチで恥ずかしいんで拍手は勘弁してください。星先生」

「いや本当に素晴らしい。君の熱い思いが伝わって来たよ」

「や め て く れ ま せ ん か マジで!」

 星先生は音楽教師で吹奏楽部の顧問だ。芝居掛かった言動が特徴の中年男性である。

「いやしかし、熱意には熱意をもって返さなければなるまいよ」

 そういうと星先生は大きく胸を反らせて息を吸い込み


 ——ヒイラギ君 きみを歓迎しよう 明日からは セイヤと一緒に来るといい


 よく通るバリトンボイスでそう歌い上げた。

「え?」

 ぽかん。

「君のクラスに席をひとつふやして、そこに柊くんが来られるようにしようと言っているのだ。授業は些か退屈だろうが、それでも一緒にいられる時間が長いほうがいいだろう」

 願ってもいなかった、考えてもいなかったことだった。渡りに舟だ、本当に。でもしかし

「先生!私もその子と話してもいいですか!」

 常盤の声で思考が中断する

「ああ、だが……」

 星先生の言葉の続きをまたずに常盤はずいと前に出て、担いだエレキギターを前に回した。当然アンプには繋がってないが、まあとりあえず音はでる。


 ——一緒にけいおんしませんか! きっとすっごくとっても楽しいよ!


 マズイ!クリスの目が光った!興味を持ってしまっている。


 ——ダメ

 ——やりたい!

 ——ダメ

 ——やりたい!


 押し問答

「はぁ、こんなことになるなんて……」

 ため息をつく。クリスと一緒にいた時間はそう長くないが、クリスに頑固なところがあることには気づいていた。こうなるとテコでも動かない。


 ——「言い出すと聞かない。まるで子供だ」なんて


 せめてもの負け惜しみにLast Note.『オサナナブルー』を。クリスはちょっと考えて


 ——パンツ穿けるもん パンツ穿けるもん パンツ穿けるもんね

 穿いたらもうコドモだもん ちょっとくらい見逃してね


 思い切りそう歌って、いたずらっぽく笑った。ちょむP『パンツ脱げるもん!』

「わかったから俺の社会的信用にクリティカルヒットする選曲をやめてくれ!!」

 完敗である。

「じゃあふたりとも一緒に来て!メンバーに紹介したいから!」

 常盤がクリスの手を引いていく。

「……先生、なんで止めてくれなかったんですか。先生だけは知ってるじゃないですか」

 星先生を力なくなじる。

「すまない。君のためになると思ったんだ」

 その物言いに絶望さえ感じる。

「勘違いしないでくれ、別に元に戻れというのではないんだよ。それは君が決めたことなんだから。ただ、無理に忘れようとするのは逆効果だよ。ひとは、忘れようとしていることは忘れられないんだ。去年一年間、君は見ているだけで辛かった。だから、目の端にちらりとうつるくらいのところで、少しずつ離れていけばいいんだよ」

 そう言った先生の声と眼差しは優しかった。ずっと考えてくれてはいたのだなとは思う。

「わかりました。でも、いつからアケミおばさんとグルだったんですか?」

 俺は先生の前で、クリスを『柊』とは呼んでいない。

「いや〜職員会議通すの大変だったなぁ〜」

 ……それくらい前からということか。

「規則とか校則とかルールとか大丈夫なんですか?」

「覚えておき給え。大人とは自由なものなのだよ」

「俺の知ってる大人と違う!だいぶ!」

「それは観測範囲の問題というやつだ。さあ、油を売ってないで早く行ってあげなさい。君はかなり常盤君を待たせたのだろう?」


 **


「ケンゾー!ジョー!大収穫だよ!」

 常盤は歓声を上げながらドアを入って行った。入って行った?

「なんで屋上なんだ?」

「仕方ないでしょ。音楽室も視聴覚室も吹奏楽部やら合唱部やら、古典ギター部やらマンドリン部に持っていかれちゃうんだから。」

「うちの軽音楽部はマンドリン部より地位が低いのか……」

 それにしても、フェンスもないしかなり危険な気がする。無意識にクリスの肩に手をかけて引き寄せる。

「でもそれも今日まで!逆転劇はここから始まり、この寒い屋上とおさらばする日は近い!」

 飛び上がらんばかりにはしゃぐ常盤。

「……で、モミモミそっちの二人は?新入部員?」

 その常盤にベースを持った男がまっとうな疑問を投げかけた。モミモミ?

「モミモミいうな!」

 常盤のことだったらしい。

「……えっと、2-Dの内藤聖也です。クリスの保護者として入部しましたが、歌も歌えないし楽器も一切できません」

 ややこしくなりそうだったので、とりあえず自分から自己紹介する。さっきのベースマンは胡散臭そうにこっちを見ていた。もうひとり、ドラムは何を考えているのかわからない。かなりごつい男だ。常盤は(またまたぁ〜)という目で見るのをやめろ。

「こっちはクリス。まだ中学生なんで入部はできませんが、本人が乗り気なので連れて来ました。」

「クリスはね、すっっごい綺麗な声で歌うの!」

 そこには同意しよう。

「はぁ、つまり数合わせと数にならないボーカルってこと?」

 ベースマンがバッサリと切ってしまったが、要はそういうことだろう。

「じゃあ今度はこっちから。私は常盤モミ。軽音楽部の部長でこのバンド『ラウンズ』のリーダー、ギターだよ。で、こっちが東方賢三。副部長でベース担当」

「ケンゾーっす。いや〜幼馴染のモミモミがご迷惑おかけしたみたいで。ただ、結局入部するんならもうちょい早かったほうがアリガタかったカナーなんつって」

 ベースマンは軽く頭を下げてそう言った。軽めの男子だ。

「モミモミいうな!こっちは羊飼仗。ジョーって呼んでる。見ての通りドラムス担当」

 ジョーは、ゆっくりと会釈した。……それだけ。

「……無口なの」

 これで部員全員の紹介が終わりだ。短い。

「何か質問は?」

「軽音楽部はどんな活動をしてるんだ?」

 それが一番重要なことだろう。

「季節ごとにライブと、あと隔月で演奏動画をアップしてる。普段はその練習かな」

「え、それはすげぇ」

 常盤は一瞬目を丸くして、それから柔らかく笑いながら言った。

「なんか意外。内藤がウチのことを褒めるなんて」

「なんだそりゃ。お前の中で俺はどんなイメージ……」

 思い起こされるここ数ヶ月の自分の言動。かなり不作法でぶっきらぼうだった。

「とにかく、俺はいいもんはちゃんと評価する。コンスタントに動画作ってアップできるのはすごい」

 振り払うようにそう言った。ストレートな褒め言葉に常盤は頭をかいた。

「じゃあ、まずは私たちの演奏を聞いて貰おうか!クリスもいっしょに」

 そういって常盤は何かのイントロを一節弾き、問い掛けるようにクリスを見た。なんの曲なのかどうにも思い出せないが、クリスは了解したようだった。マイクは無いがバンドの中央に立つ。俺は立てかけてあったパイプ椅子を出して座る。

 ジョーがスティックでテンポを取る。演奏が始まる。クリスが短いブレスの後歌いだしたとき、その曲を思い出した。そして、なぜ思い出せなかったか理解した。

『ホーリーナイトP』というボカロPをご存知だろうか。筆が早いことで有名なPだった。いくつか殿堂入りした曲もあるのだが、ここ2年弱活動していない。これは、彼の代表作といえる曲だった。

 膝が震える。肩に力が入る。嫌な汗がでる。

(耐えろ……耐えろ!)

 クリスは飛び跳ねるように歌っていた。時折モミとも目を合わせて。クリスは幸せそうだった。バンドは幸せそうだった。ああ、駄目だ顔を上げていられない。演奏が、演奏が終わるまで。

 そして常盤のギターが最後の一音を響かせた。ドサリ。俺は屋上に倒れた。涙だとかよだれだとか、およそ顔から出せる汁をすべて垂れ流しながら。

「内藤!」

「なんだ!?」

 ——セイヤ!

 暗くなっていく視界。意識をなくすその前に、星先生を1発殴ることを決意した。


 **


「ごめんなさい。音楽が嫌いとは聞いていたのに。まさかこんなに深刻だなんて……」

 西日の射す保健室。気を失った俺は3人がかりで運び込まれて、ベッドで寝ていた。

「なんで謝るのさ。いい演奏だったよ、ありがとう。」

 男子ふたりは先に帰ったので、保健室に残っているのは世界の終わりみたいな顔した常盤と、沈み込んだクリスと俺だけだ。

「倒れたのは単なる貧血だって先生も言ってただろ?常盤もクリスも悪くない」

 誰かが悪いとするなら、それは俺しかいない。

「さあ、帰ろうクリス」

 少し考えて


 ——かえろう?


 4文字で歌にするのはなかなか難しい。

「保健室も閉まるし、常盤も今日は帰ろう」

 かばんを担ぐ。ちょっとふらっとしそうになる足元を踏みしめる。赤く照らされた校舎に、嫌味みたいに吹奏楽部の練習が響いていた。


 **


 先に手をつなぐことを求めたのは俺の方だった。迷子になって、見つけてもらったあとの子供のように、クリスの小さい手に俺はすがりついていた。

「クリス、今日は静かだね」

 いつもなら5分と黙っていることはないのに。自転車で無理なく通えるとはいえ、徒歩で帰るにはそれなりの時間がかかる。その間ずっとうつむきがちで黙っているなんて、クリスらしくなかった。なにかクリスが歌うのを促せる曲は……


 ——君の声を聞かせて 澱む心を……


 ゆよゆっぺ『Leia』。でも、少し違う気がして歌を止めた。そこに至ってようやく、なんでクリスが歌わないのか気がついた。

「まさか気に病んでるのか?俺が音楽を嫌いだって。さっきの屋上で気絶したみたいに、歌で俺が苦しむんじゃないかって?」

 今までずっと、俺を歌で苦しめていたんじゃないかって?

 ため息。やれやれ、俺はなにをやってるんだか。クリスに心配されるとか、逆だろうに。クリスの前に回り込む。片膝ついて目を合わせる。


 ——『大丈夫 大丈夫 痛くも痒くもないんだよ 君が笑ってくれるなら』


 KEI『ピエロ』。通行の邪魔かもしれないが、もとよりさほど人もいない。

「俺は多分、クリスの歌声を聴くために生まれてきたんだ。だから、歌って?」

 この言葉はクリスには届かない。立ち上がって、手はつないだままで改めて帰り道を始める。クリスがぽつりぽつりと歌い出す。家に帰り着くまでに、ゆうゆ『深海少女』を一番だけ。


 **


「常盤、酷いじゃないか。釣った魚にはエサをやらないのか?」

 一夜明けて、先生の約束どおりに俺の席の隣にはクリスの席があった。親戚の子で今は俺が面倒を見ている、という雑な説明で納得してくれたクラスメイトはかなり人間ができている。クリスは授業中は寝ていたけれど、それなりに楽しんでいたようだった。……なにが楽しいのか理解に苦しむけど。

 さておき、今は常盤である。あれほどしつこかった常盤が、今日になってこそこそと部活に行こうとしていたので呼び止めたのだった。

「内藤……私が言うのもなんだけど、ホントに無理しなくて大丈夫だから。……ヒドイ顔してるよ?」

 指摘されて頭をかく。確かにそれはそうだ。目は真っ赤に腫れ上がってるし、多分血色も悪いだろう。

「大丈夫大丈ぶ……でもないか。確かに目も辛いし、ヒドイ寝不足だ。でもそんなことよりこれだよ」

 がさごそとかばんの中を探り、フラットファイルに入った紙束を取り出した。目の前の常盤に渡す。

「これは……バンドスコア?買ったの?自腹で」

「や、買ったわけじゃないから財布の心配はしなくていい」

「……書いたの?自分で」

「どうだろ、書けているかな?」

 常盤が楽譜をめくる。

「歌い出しは……」

 そう言って、手本に歌ってみようとするけれど、寝不足が祟ったか少し音が外れてしまって苦笑いだ。常盤の手が止まる

「……どう?」

「……すごい。すごい!すごい!!!!……大好き」

 楽譜を抱き締めるのは力加減が難しかろうに。常盤の声は多分となりの教室まで響いているのでこちらには複数の視線が注がれている。

「これ、次回の動画に使ってもらえないだろうか?ボーカルはクリスで」

「うん任せて!」

 さて、そろそろ視線が痛くなってきた。クリス、モミ、屋上に撤退しようじゃないか。


 **


 モミたちは2週間で撮影できるまでに仕上げてくれた。だから、今日撮影したこの動画は編集期間を考えても12月に入る前には動画をアップできるはずだ。

「モミ、勝手なことを言うようだけど、この動画のデータ、俺に任せてくれないか?」

 データを一緒に確認していたモミにそう尋ねる。音楽室の長机。クリスはジョーが刻むビートに合わせて、食べ物のなまえを歌う遊びをしている。

「そりゃもちろん構わないけど、どうして?」

 なるべく曖昧な返答を

「再生数を増やすために、やりたいことがある。悪いようにはしないよ」

「うん!いいんじゃない?えっとね、これが投稿に使ってる『ラウンズ』のアカウントのidとパスだよ」

「待った。それは俺たちがずっと育ててきたアカウントじゃん。そんな簡単にこいつに……」

「内藤ももうこのバンドのメンバーだよ。」

 渋る賢三に、ピシャリとモミは言い切った。

「助かる」

 データの纏まったUSBをPCから安全に取り外す。

「……本当に再生数が増えるんだろうな」

「まあ、多分。そうだな……ひと月で1万再生行かなかったら焼き肉を奢ってやるよ」

 冗談めかした物言いに賢三の眉間のシワは更に深くなる。1万といえば、この部がアップした動画で一番再生されたものの累計くらいだ。大口を叩くなという賢三の表情が妥当だが、モミは信じてくれたようだった。

「よし、じゃあ任せた!」

「本気だかんな?まじで奢らせるぞ?」

「おう。任せとけ」

 そして午後9時、自宅のPC前。最低限の編集とエンコードを終え、あとはこのクリック一回でアップできる。ためらいとか、不安とかがないかと言われれば、それは間違いなくある。だが、やるしかないだろうよ。

「頼んだ」

 さあ、賽は投げられた。あとは結果を待つだけだ。


 **


 再び保健室のベッドである。

「あの、あのだな」

 隣のベッドに横になるモミは拗ねたように顔を背けて取り付く島もないようだ。外から走る足音。

「ゔぉい!!!内藤テメェ!!」

 保健室の扉が勢いよく開き、賢三が掴みかからんばかりに怒鳴り込んできた。突然のフレームインにクリスが小さく飛び上がった。

「ほらぁ!絶対こうなると思ったんだ!情報が錯綜さくそうしてる!」

 顔を背けたままのモミだが、少しくらい申し訳なさそうな顔をしていてくれ。

「おまえ、女に手を上げておいて……」

「逆だよ」

 ボルテージが下がらない賢三にモミが冷や水をかけた。

「逆?」

 賢三は何を言っているのかわからない顔だ。賢三に遅れてジョーも保健室についた。

「セイヤが私を殴って気絶させたんじゃなくて、私がセイヤを殴って気絶したってこと」


 **


 ワンインチパンチをご存知だろうか?寸勁とも呼ばれる中国武術の技で、かのブルース・リーの得意技だ。通常のパンチというものは、腕を大きく引いて、前に出す間に拳を加速させるが、ワンインチパンチはその名の通り、相手から1インチ、3センチ足らずの距離から拳を繰り出し相手を吹き飛ばす。それはそれとして

「内藤!!!」

 校門を入った瞬間、モミの怒号が響き胸ぐらを掴まれた。アンブッシュか。

「何が起きてるのか説明して」

 その目に燃える怒りにたじろぎそうになる。咄嗟のことにクリスは凍りついている。

「再生数は?」

「最後に見たときには5万ちょっとだった……」

 的を少し外した返答に気勢が削がれてモミは反射的に答えた。

「え!それはすげぇ」

 その数字は、俺が予想したよりも大幅に多かった。

「そんなことより!」

 そんなこととはなんだ。大事なことだろう。

「どうして内藤が書いて、私たちが歌った動画が、ホーリーナイトPのアカウントから!ホーリーナイトPの新曲として公開されてるの!!!」

 もっともな疑問だ。俺はバツが悪そうに頭をかいた。

「そりゃ、まあ。俺がホーリーナイトPだから?」

 一瞬の沈黙。視界と世界が吹き飛んだ。背中を打ち付ける衝撃と、遅れてみぞおちに深い痛み。つまり、モミは胸ぐらを掴んだ状態からノーモーションで俺を殴り飛ばした。見事なワンインチパンチだった。

 バタン。

「おい!女子が倒れたぞ!」

 遠巻きに見ていた生徒から声が挙がる。いや、俺は女子じゃない……と、首だけ動かしてそちらを見ると、誰かが言った通りにモミが倒れていた。

「いや、なんで……?」

 そう呟いて俺は力尽きた。


 **


「なるほど。わからないけど分かった。」

 バカバカしいといえばあまりにバカバカしい顛末を聞いて、賢三はそれなりに冷静になったようだ。

「つまりおまえは、自分のネームバリューを俺たちが再生数を伸ばせるように使ってやった気でいるんだな?」

 賢三の言葉がじわりじわりと締め上げる。

「俺たちがあんだけ練習して仕上げた演奏は、有名ボカロPさまのお情けに頼らなければ再生されないようなしょぼいものだったってことか?」

「そんなことはない!」

 そうだ。それは間違いない。あれは俺が聞いた歌の中で最高のものだった。

「でもあんたがやったことはそういうことだろうよ」

 モミはまだ顔を背けている。クリスには聞こえていない。

「……そうだな。本当に申し訳ない。ただ、俺は『俺たちの』動画の再生数を伸ばすために最善のことをしようと思ったんだ。そこだけは信じて欲しい」

「でも俺は怒ってるし、モミも怒ってる。なら、やることはひとつだろ

 ……1発殴られろ。でもって焼肉おごれ」

「ふたつじゃん!!」

 勢いあまって突っ込んでしまった。

「いいだろ、もう殴られてるんだから実質ひとつだ。……食べ放題とそうじゃないのどっちがいいかな?」

「じゃないの。やたら高い肉注文してやる。」

「モミ!お前さっき俺殴ったじゃん!」

「それとこれとは話が別だよ」

「5万!5万再生超えたよね!約束が違うだろ!」

「そりゃ超えなかったら焼肉が2回になるだけだろ。それとこれも話が別だ」

 じりじりと包囲網が狭まってくる。

「分かった。分かったよ。出来るだけ常識的な範囲にしてくれ。それで許してくれ」

「え、いやだ」

「モミモミ、そのくらいにしといてやれ。一番好きなボカロPなんだろう?」

 ……

「えぇええぇえ!」

 ジョーが喋った!!

「ジョーなんで今余計なこと言うの!!?」

 モミは上半身を跳ね上げ、やっとこっちを向いた。その顔は真っ赤だ。

「そもそも『ラウンズ』というバンド名だって、ホーリーナイト、聖騎士、円卓の騎士という連想でつけた名前だっただろう」

「やめてちょっと待って!」

 モミが絶叫する。『ホーリーナイト』は聖騎士じゃなくて聖也→聖夜ということなんだけど。

「どうする?サインする?」

「うっさい!あとでして!」

 あとでするのか……

「不意打ちにも程があるでしょう!どうにかこうにか部に引き入れた奴がホーリーナイトPなんて!漫画か!」

 保健室には似つかわしくない大声でモミが荒れる。

「だいたい……」

「セイヤ、サインなら他にも……」

 ジョーがモミの言葉を遮り、後ろ手でドアを引いた。ドアの外にいた女の子がビクンと固まる。クリスほどではないが小さな女の子だ。前髪を切りそろえたショートで、眼鏡をかけている。リボンを見ると1年生のようだ。その手には、五線ノートと油性マーカー。

「……サイン?」

「あ、あのあのホーリーナイトPが動画でうちの高校の軽音楽部で!それで今保健室にいるって聞いたんですが……」

 やたら早口である。

「うん、俺だね。それで?サイン?」

「は、はい!!」

 幅跳びめいてベッドの横まで。

「うん。その前に、君のサインが欲しいかな」

 モミに目配せする。さあ、入部届けを。

 その後、実はホーリーナイトPにはサインがまだなかったことを告白した。さんざん絞られてから、みんなで新しいサインを作った。


 **


 これはあの日の話。

 家に帰り着いてから、繋いでいた手を離した。貧血の名残がまだ少し残っている。夕食は肉じゃがを作ることにした。リビングではクリスが、時折思い出したように帰り道で歌っていた『深海少女』を歌っていた。

「ねえ、クリス。さっき歌ってた歌さ、作ったの俺なんだ」

 煮物であれば、クリスに背中を向けていても不審ではない。

「俺、ボカロPやっててさ、結構人気だったんだよ。作った曲がCDに入ったりしてさ。結構収入になったりして。で、中学を卒業するとき、父親に『高校に行くのをやめてボカロPとして食べていきたい』って言ったんだよ。ブチギレられた。文字通り蹴り出された。リビングの窓突き破ってさ。」

 もう料理は出来上がっていい頃だ。

「さすがにお隣さんあたりに通報された。警察署と、児童相談所から人がきた。そのときに俺は、虐待だと騒ぎ立てた。母さんも、父親も何も反論しなかった。とは言え、この歳になって施設に入るわけにもいかない。すぐ出て行くことになるからね。で、一人暮らしをすることになった。ボカロPとしての収入で、それができるはずだった。一人暮らしが始まった。もう自由に書けるはずだった。書けなかった。一文字も。音符ひとつも。」

 誰にも聞かれたくなかった。でも、誰かに聞いて欲しかった。そして、それにクリスは最適だった。おれは天性の弱虫だ。

「書かなきゃいけないのに、書かなきゃ食べていけないのに。思えば思うほど書けなくなった。だんだん、音楽が聴けなくなった。音楽がキライになった」

 平静を装え。肩を震わせるな。クリスにはわからない

「俺は、音楽が嫌いだ」

 肩に、温かい感触。

「クリス……?」

 クリスは、爪先立ちで俺の肩を後ろから抱いて、息を吸う音が聞こえて。


 ——「大丈夫、大丈夫 上手く笑えなくていいんだよ

 もう二度と嘘を吐けないように

 大丈夫、大丈夫 堪えたりしなくていいんだよ

 私も一緒に泣いてあげる」


「……なんで、きこえてないはずなのに、なんで」

 膝から崩れうずくまる。クリスにも俺の頭を抱ける。涙は、温かい。

 ひとしきり泣いて、クリスは眠りについて。俺にはやることがある。

 クローゼットを開けると、そこには服なんてなくて、一番収入があったときに買い揃えた、およそDTMに必要なものがすべてしまいこまれていた。


 **


「耳が、聞こえている?」

 いつかの喫茶店で、いつかのように座ったアケミさんがそう聞き返した。

 アケミさんとは毎月こうして会って、クリスの生活費をもらっていた。もともと俺の夢を応援してくれていた母さんの仕送りと、ささやかな著作権料で生活していた俺の食事が、クリスとふたり分になって、そのうえで使える肉が鶏肉から牛肉になるくらいの額だった。仕事として捉えれば、それは少なすぎる金額だったが、どうしてそれだけの額に抑えていたのか、その気遣いがわからないほど俺も子供ではないつもりだ。

 今月は、報告することが多かった。向こうの思惑通り学校でも一緒に過ごすことになったこと。軽音楽部に入部したこと。動画を上げて勧誘をしたこと。結果として新たに3人入部したこと。

「そうなんですよ。断片的に耳が聞こえてるようにしか見えないことがよくあるんです」

 真っ先に思い浮かぶのはあの日のことだけれど、それ以降にも、例えば後輩の呼びかけに応えるような、そんなことがよくあったのだった。

「まあ、不思議はないわね。もともと心因性の難聴なのだし。……あなたを頼って本当に良かったのね」

 その言葉は、誇らしかったか。

「そうなると、もうすぐクリスを引き取らなくちゃいけないわね」

 続いた言葉が頭を凍らせたから、わからない。

「え?」

「クリスの心の傷がふさがったら、少しずつもとの日常に戻っていかなくちゃいけないでしょう?この先どうなるか分からなくても、来年は中学3年生になっていないといけない年齢なわけだし」

 そうだった。あまりにも当たり前すぎて忘れていたけれど、クリスとの関係は期間限定だ。

「あなたにも、ずいぶん無理をさせてしまったわね。本当にありがとう」

 アケミさんは、やはり俺の分まで会計を済ませて帰って行った。ひとりでしばらく座り込んでから、俺は言った。

「すみません。ハニートーストください」


 ☆☆


『セイヤの様子がおかしい?』

 目の前に座ったモミが、スマホの画面で聞き返した。アドリブがいつでも簡単にできるわけではないから、筆談は普通に便利なコミュニケーションツールだ。

「確かに」(きょうもぶかつにきてないけど、おかしいというほどのことかな?)

 モミが呟く。大半のことばは聞き取れなかった。

『心配ないと思うよ』

 スマホ上の返信は、そう言っていた。

 でも、その日の帰り道。誰もいないはずの第1音楽室からセイヤが出てくるのを、クリスは見てしまったのだ。

 **

「よし!」

 12月24日。ケーキも、ちらし寿司も、フライパンで作ったローストビーフも、そしてハンバーグも全部冷蔵庫に詰め込んだ。そこに、スマホの着信音が響く。

「お疲れ〜」

「お疲れ。新曲も。」

 電話の主はモミだった。それにしても、さっき上げたばっかりの新曲を見ているなんて、目ざといな。

 いつかのような頻度で作曲ができるようになったわけではないけれど、少しずつ調子は戻ってきているようだった。

「で、どう感想は?」

「うーんちょっと退屈。うそうそ。最高だったよ」

 遠慮してるのかしてないのか分からない感想に苦笑いしてしまった。今日の曲は素直なクリスマスソングだからしょうがないのかもしれない。

「新曲もいいけど、今日はクリスマスイブでしょ?確かセイヤ、クリスと2人暮らしじゃなかった?ふたりだけだとクリスマス寂しくはない?今、学校にいるから、なんなら軽音部を呼んでパーティでもしようかなと思うんだけど、どう?」

 提案が急ですこしたじろぐ。

「ありがとう。でも、大丈夫。……実は、クリスが今日誕生日なんだ」

「だったらなおさら」

「今日は、ふたりだけでお祝いしたいんだ。お願い」

 電話の先が一呼吸黙る。

「さては何かサプライズを用意してるな?」

 鋭い。

「サプライズを準備するのはいいけど、クリス心配してたよ?セイヤが自分のこと避けてるんじゃないかって」

 予想外の情報に軽く焦る。

「ちゃんとフォローしておきなよ?」

「当然だ!」

 ここで焦っても意味はないのだけれど何故か食い気味で返事をしてしまった。

「それにしても、改めて考えるとクリスの存在って大きいね。セイヤがうちの部に入ってくれたのもクリスのおかげだし。」

「そうだな。クリスがいなければ、ホーリーナイトPは二度と新曲を書かなかったかもしれない。」

「そうそう。だから……早く新曲書け」

「アップしたばっか!さっき!」

「ファンがどれだけ待たされてきたと思ってるの。まだ!まだ!足りない!よ」

 うう、耳がいたい。

「とにかく、私たちにとってもクリスは大切なんだから、ちゃんと祝わせてよね。明日は学校でパーティだから!」

 そう言って電話は終わった。さて、クリスももうすぐ帰ってくると思うんだけど。


 ☆☆


「クリスがいなければ」


 **


 おかしい。もう日も落ちたというのにクリスが帰って来ない。カバンは玄関の辺りにあったから、一度帰って来たのだとは思うけど。

 妙な胸騒ぎがして、俺はアケミさんに電話をかけた。

「もしもし?アケミさん。クリスがそっちに行ってませんか?」

 電話に出たアケミさんは、どうやらひとりのようだった。

「クリス?いえ、来てないわよ。どうかしたの?」

「いえ、結構遅くなったのに帰ってこないからそっちに行ってないかななんて思いまして」

 アケミさんのところでないなら、どこにいるのだろう?

「ねえ。もしかしてなんだけど、例えどんな状況でも『クリスがいなければ』とは言ってないわよね?」

 アケミさんの声。

「そんな!……あ」

 さっきの電話

「あ、じゃない!バカ!!!!」

 突然の大声に耳が壊れそうになる。

「だって!文脈ってもんがある!」

 俺も負けじと叫び返す。いや、これはほとんど悲鳴だった。

「そんなこと関係ない!いい?クリスは長い時間かけて、あなたを信じて心を開いて、断片的にでも言葉が聞き取れるようになった。そうして開いた心が、あの時と同じ形に傷つけられたら……」

 アケミさんが考える最悪の想定がわかって、血の気が引いた。軽く眼前暗黒感さえ覚える。

「そんな不条理な!!!」

「泣き言いってないで心当たりを探して!!あなたに任せるんじゃなかったなんて、情けないこと言わせないで!絶対、クリスと一緒に新年を迎えるんだから!!」

 電話が切れた直後。モミからの着信音が響く。

「セイヤ!!!!」


 ☆☆


 何が間違っていたのか、どこから間違っていたのか。何度も考えた自問自答をまた繰り返す。結論はでている。最初からだ。ここにいること自体が間違いだったのだ。今度こそうまくいくと思った。うまくやれていると思った。運命みたいにセイヤと出会って、ここでなら生きていけると思った。

 全て勘違いだった。

「クリスがいなければ」

 ああ、私はまたやってしまったのだ。私は、いつも、いるだけで一番大切な人を苦しめる。

 でも、もう終わりにしよう。

 私がいない朝は今よりずっと素晴らしい。

 怖くはない。悲しくもない。私がいなくなったあと、私の大切な人が笑顔で暮らせていればそれでいい。

 そうして、屋上のへりに立つ。

 ふと、最期にひとつだけ、歌を歌いたいなと思った。きっとそれは、私がこの世界を愛した証拠だから。


 ——0と1が交差する地点

 間違いだらけの コミュニケーション

 アナタの名前は 何ですか?

 10文字以内で 答エヨ


 **


 過去最高速の通学路。校門を突っ切ってそのままグラウンドへ。地面に足を取られて倒れた自転車を乗り捨て、なお走る。いる。確かに。屋上に。

「セイヤ!」

「モミ!救急車、いや消防車、レスキューは!」

「もう呼んだ!でも……」

 そうだ。どれだけ消防が優秀でも、通報から到着までは5分程度かかる。それに対してクリスは、あと半歩進むだけで……


 ——0と1が交差する地点

 間違いだらけの コミュニケーション

 アナタの名前は 何ですか?

 10文字以内で 答エヨ


 歌声が、響く。

 こんな状況でも、クリスの歌声は澄んでいた。

 白鳥の歌とでもいうべきこれが、できるだけ長く続くように、祈った。


 ☆☆


 ——過去と未来が 交差する地点

 行く宛を失った 現在地

 ワタシはどうして 生きているの?

 100文字以内で 教えて


 あれ?一番と二番の歌詞を混同するなんて。まあ、いいか。


 ——過去最高速の 夜が明ける

 バランス取ることも できないまま


 屋上のへりでステップを踏む。ちょっとふらっとしそうになる終末感を楽しむように


 ——自分だけどこか 取り残された

 音のない世界 造られた世界

 傷んだ果実を 捨てるだけなら

 2人もいらない 1人でできるから


 もういいだろう

 さよなら、お元気で。

 世界から、全ての色と音が消えた。

 **

 一番が歌い終わったところで、クリスは歌うのをやめた。そして足を

「嘘だろお前。それだけで満足なのかよ。まだ二番もあるじゃないか。まだ前半が終わったばっかじゃないか」

 そんなこと、許せるわけない。

 可能な限り大きく息を吸い込む

「Blessing for your birthday Blessing for your everyday!!最後の1秒まで前を向け!!」

『Blessing』halyosy。それはもはや歌の体をなしていない叫びだった。

「止まった……?」

 それでも届いたのか、何かの間違いなのか、クリスの足は止まった。


 ☆☆


 何かが、聞こえなかった気がした。もう何も聞こえないのだから不思議はないのだけど、それでも今聞き漏らした何かはとても大事なことのように思えて、足を引いて耳を澄ませてしまった。


 **


 とにかく歌を続けるしかない。


 ——ゼロからイチを生むのは容易くない事

 肝心な物は見えないし触れない事

 不幸とは幸せだと気づけない事

 毎日が誕生日で命日な事


 あ、肺の息を吐き尽くしてしまった。歌が止まる。呼吸を試みるも、急激すぎる膨張に耐え切れず、痙攣を起こしてしまう。ダメ……


 ——Oh … stand up take action 泥沼を掻き分けて

 Oh… stand up take action 蓮の花は咲く


 誰だ?今歌ってくれているのは?アケミさんに似ているけど、別の人のようだ。


 ——ほらここに手を重ねてみて

 温もりが伝わってくるでしょ?

 それが命の証


 今歌ってるのはモミだ。

「走って!セイヤ!」


 ——Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 例え綺麗事だって構わない

 Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 この世に産まれてくれてありがとう


 ああ、こんなことになるなんて

 せっかくたくさん練習したのにな

 それでもいまは、ただ届くことだけを祈って走りながら声を振り絞る

『最後の1秒まで前を向け!!』


 ——よく食べて よく眠って よく遊んで

 よく喋って よく喧嘩して ごく普通な毎日を


 校舎まであと少し。


 ——泣けなくても 笑えなくても 歌えなくても 何もなくても

 愛せなくても 愛されなくても それでも生きて欲しい


 玄関を、階段をスニーカーのまま駆け上がる。

 ——Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 例え明日世界が滅んでも

 Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 最後の1秒まで前を向け


 踊り場で転んで体を壁に打ち付ける。それでも、どこかから聞こえるサイレンの音にかき消されないように、声を張り上げる。


 ——If you’er alive あの子が振り向くかも

 If you’re alive 宝くじ当たるかも

 If you’re alive 再び始まるかも

 生き抜くためなら


 あと少し


 ——棒に振れ 水を差せ 煙に捲け 油を売れ 現を抜かせ


 屋上の扉が見える


 ——そして 来週も 来月も 来年も 来世も


 扉が開いた。クリスが振り返る。その姿は小さくて、少しでも目を離したら消えてしまいそうで。大股三歩で距離を詰め、力加減なく抱き締めた。


 ——一緒に祝おう


「うぉ!?」

 勢いが殺し切れず、体重が前に。


 全ての音が消える。




 世界がひっくり返る。






 ぼふん。救命マットは深く、包容力のある音を立てた


 ——Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 例え綺麗事だって構わない

 Blessings for your birthday

 Blessings for your everyday

 ここに集た奇跡にありがとう

 Hip hip hooray これから先も

 Hip hip hooray 君に幸あれ

 Hip hip hooray これから先も

 Hip hip hooray 君に幸あれ

 Hip hip hooray


 みんなが歌っていた。モミもアケミもケンゾーもジョーも、マリヤも駆けつけたレスキュー隊員も。

「私、ここに、いても、いいの?」

 クリスが、言った。

「当たり前だよ。俺がクリスにいて欲しいんだから。

 ……自己紹介がまだだったね。俺の名前は内藤聖也。はじめまして、そして……お誕生日おめでとう!クリス!」

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ボカロ曲のある日常〜聖夜に天使が落ちるまで〜 サヨナキドリ @sayonaki

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