江ノ島 小さな恋ものがたり

岩屋の龍神さまに、ボクは一日限りの願い事をした。

コンテスト『あなたの街の物語』参加作品(2016年11月公開)

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神奈川県、湘南エリアのシンボルの一つである江の島を舞台にした小さな「ボク」の小さな恋物語。

片想いの彼女と一日だけ一緒に江の島を散策したいと、ボクは岩屋の洞窟に住まう龍神さまにお願いをした。

翌朝その願いが叶えられ、ボクは「僕」となって彼女の前に現れる。


ちょっと切なくて、ちょっとあったかいお話です。

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ボクには好きな人がいる。



江の島入口の青銅の鳥居をくぐった参道沿いにある、鎌倉時代から続く老舗旅館岩本楼の前に佇むボク。


そのボクに毎朝挨拶をしてくれる人。



名前も、住んでいる場所も知らない。


知っているのは、彼女がサムエル・コッキング苑にあるカフェで働いているということ。


そして、慈愛に満ちた眼差しの美しさと、「おはよう」という鈴音のような軽やかな声。



一度でいい。彼女と話をしてみたい。


ボクは切なる願いを叶えるべく、江の島の最奥、岩屋に住まう龍神さまにお願いしに行った。


照明がぼわんと灯る暗い洞窟を恐る恐る奥に進むと、石でできた小さな祠から龍神さまの声がした。



「汝、この儂に何か用か」


「お願いがあります。一度でいいから彼女と話をしながら江の島を歩いてみたいのです」


「汝の供物は…魚の死肉や骨、それに小鳥の雛に虫か。儂の口には少々合わぬが、汝の小さな体で必死に集めてきたことが窺い知れる。


よかろう。明日一日だけ汝の願いを叶えよう」



祠からにゅるっと首を出した龍神様は供物の九割を一口で呑み込み、残りの一割をいくらかの銭に変えてくれた。


明日の朝、ボクが目覚めたら願いが叶うという。


本当に明日は彼女と話せるだろうか。


寝床に戻ったボクは、こんもりとした江ノ島から突き出す展望灯台にかかる月を見ながらまどろんだ。



翌日、いつものように岩本楼の前に佇む僕。


朝の参道を土産物屋や飲食店の人たちが箒で清める光景を眺める。いつもよりだいぶ視界が高く、人のつむじが見えることが僕にはとても新鮮だった。



彼女はいつもより遅い時間にやってきた。


岩本楼の前に立つ僕と目が合い、視線を逸らしつつ僕の足元に目をやる。


ボクが見当たらないことを確認して通り過ぎようとする彼女に、思い切って声をかけた。



「あのっ!コッキング苑まで行くんですよね?…一緒に歩いてもいいですか?」



振り向いた彼女と再び目が合う。僕の瞳をじっと見つめて、それから彼女はにっこり微笑んだ。



「今日は仕事ではないんですけど、シーキャンドルに上ろうと思って。よかったらご一緒します?」



僕は喜びで喉を鳴らしながら、彼女の隣に駆け寄った。


参道の奥の石段を上り、江島神社の真っ赤な鳥居をくぐる。


左手にエスカー乗り場があり、龍神様からもらった銭で僕はチケットを二枚買った。



江の島で暮らしている僕だけど、エスカーに乗るのは初めてだ。


古めかしく長いエスカレーターを上ると、小振りながらも厳かな社殿が姿を現す。



通勤のときは神社を素通りしてしまうからと、彼女は辺津宮の前に置かれた大きな茅の輪を楽しそうにくぐり、お賽銭を投げて柏手を打つ。


僕は彼女の真似をして手を合わせ、祀られている漁業の神様にお願いをした。


(おいしい魚がいっぱい食べられますように!)



「この白龍池でお金を洗うと福がもたらされるんですって」


辺津宮の向かいにある小さな池の前でがま口財布から小銭を取り出し、彼女はしゃがみこんでちゃぷちゃぷと銭を水に浸す。


僕は水が嫌いなので、池の真ん中からこちらを睨む白龍様に向かって銭を投げた。


銭はチャリンと音を立てて、白龍様の賽銭入に吸い込まれた。



八坂神社の先には見晴らしの良いウッドデッキがある。無数の白い針のようなマストが突き出るヨットハーバーを眼下に眺めながら、僕達はそこでお互いのことを少しだけ話した。


僕は江の島に住んでいる虎之助と名乗った。


彼女はリカさんと言って、長谷から江ノ電で通勤しているそうだ。


「東京オリンピックでは、この江の島がセーリング会場になるんですって。


せっかくだから私も競技を見てみたいな」とリカさんが言う。


ふうん、と僕は相槌を打ちながら、冷たい潮風を受けて少し赤らむ彼女の頬を横目で見る。


彼女の隣を歩ける日が来るなんて。


できることなら毎日一緒に江の島を歩きたい、と欲が出てくる。



中津宮を通りつつエスカーを二度乗り継いで、サムエル・コッキング苑に着いた。


まず目につくのは極彩色の中華風東屋だ。緑が生い茂る中、背後に見える白くてモダンなシーキャンドルとのアンバランスさが印象的。


「毎日ここを通っているけれど、この騁碧亭はいつ見ても違和感あるのよね」とリカさんがくすりと笑った。


僕はその騁碧亭や英国人貿易商コッキング氏の温室遺構をじっと見つめた。


彼女が毎日見ている風景を今僕は必死に目に焼きつけている。


彼女が毎朝ここを通る時、岩本楼に佇む僕も同じ風景を辿れるように。



僕達は目的地であるシーキャンドルに上った。


エレベーターの扉が開くと、そう広くはない展望デッキからは浅縹色の穏やかな海と海岸線、鬱蒼とした鎌倉の森、西の方角には富士山が見える。



彼女はさっき僕がしていたような遠い目で、江の島からの眺めを焼きつけていた。



「実はね。私、昨日でカフェのバイトを辞めたんだ。


来月、結婚して都内へ引っ越すの」



突然彼女がつぶやいた言葉。


「そ、うなんだ」


急に胸を塞がれて、喉に貼り付いた僕の声がかすれる。


一日限りの願いだったことを思い出し、欲を出した自分を心の中で諌める。



俯いた僕の瞳を覗き込んだリカさんが、柔らかい微笑みで尋ねた。



「あなた…トラちゃん、でしょ?」



「え…」



「朝、岩本楼の前に立っていたことと、瞳の色でなんとなくわかった。


江の島へのお別れに、トラちゃんが付き合ってくれるんだって。


最後にトラちゃんと話せてよかった」



彼女はそう言うと、バッグから鈴のついた赤いリボンを取り出した。


「これ、今日トラちゃんに会えたら渡そうと思ってたの。私からのお餞別」



石段を下りて岩本楼まで戻ると、彼女は僕の首にさっきのリボンをきゅっと巻き付けた。



「きっとまた江の島に来るわね。


次はトラちゃんに腰越のしらす持ってくるから」



彼女は背伸びして僕の猫っ毛をそっと撫でると、弁天橋を渡っていった。






翌朝、僕は猫に戻っていた。


リカさんの「おはよう」の代わりに、首元の鈴がチリンと鳴った。




おわり

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