閉鎖病棟/開放病棟
り(PN)
1 無心
ぼおっとしていたら彼女が行ってしまう。それで誰かが来るのかと暫く待ったが、誰も来ない。だから、わたしがいなくなる。それ以外は普段と特に変わりがない。昼食後休憩時間の開放病棟には協調性のない野放図な声が溢れ、同時に騒がしいまでの沈黙が潜んでいる。
噴水や滑り台、鉄棒などの遊具がある広い中庭の正門入口側、一階に食堂が設えられた通称『土』と呼ばれる第四棟のちょうど反対側に建っているのが、工作室のある第一棟だ。こちらは『炎』と呼ばれている。その『炎』一階の施錠された工作室の前で心落ち着かずに行ったり来たりを繰り返しているのが山田さん。本名は知らないが医者と看護人/看護婦がそう呼んでいるから定着する。山田さんは細かい作業が得意な患者だ。今では木彫用板を与えると下絵もなしに行き成り彫刻刀で彫り始める。
が、山田さんが最初に行っていたのはベルト作りだ。なめし皮のベルト作りは幾つかある院内作業療法選択肢の一つで、木工や機械加工と違い、素人にも入りやすいので、殆どの入院患者がそれから始める。
もっとも職場の同僚を傷つけたなどの咎が理由で偶に入ってくる無骨系の患者さんは選ばない。担当医を無視し得意顔で、それまで自分が行ってきた手馴れ作業を開始するのだ。が、所詮誰一人にも関心を示されないので、すぐに怒る/しょんぼりする。その後の経過は人によって異なるが、大抵は皆痛みが異なる一塊の患者集団の中に埋没してしまう。
山田さんの場合、最初はバックル穴あけ用の尖った刃物を持つことを怖がり、担当の井指先生が頭を抱える。が、時間の制約を受けない単純作業に興味を惹かれると、やがて恐怖心が去ったようだ。わたしにはマネができない集中力で山田さんは同じ作業を繰り返す。皮に穴を開け、木目細かくサンドペーパーでコバを整え、指定された鋲を打つ、または螺子を締める。
表に出ている山田さんの顔は滅多なことでは笑わないが、その内面が時折宙を舞うように漂い出す。わたしにはその淡い緑色のたゆたいが山田さんの笑顔に見えるのだが、もちろん誰にも話したことはない。多くの人にそれが見えないことを、わたしはこれまでの短くもない人生で学んでいる。
もっともそんなわたしにしても、のべつ幕無し、それが見えるわけではない。原因と結果からなる科学の基礎、因果関係は人生の不思議で且つ非理性で、物理法則自体は万人に共通でもモノや人が集まれば、そこには当然偏りや区別が生じてくる。この世の中にはそれを扱う学問もあるらしいが、幸か不幸か、門外漢のわたしには知りようもない。
ベルト作りを含む作業療法時間は、ここ槐会橘精神医院では昼食に至るまでの午前中に設定されている。工作室内には旋盤やドリルなど扱いを誤ると危険な機器も設置されるため、作業終了後は施錠される。
山田さんが最初に作っていたのは版画の原版だ。が、今では彫刻または彫型画と彫画の中間的なものに変わっている、また、その技術も日々進歩している。細かく彫られた草花など、わたしには見ているだけで目に痛いが、山田さんには違うようだ。無心に板を彫る山田さんの心中など、多少文章が書けるだけのわたしにはわかりようもないが、想像ならば付かぬこともない。おそらく山田さんには彫るべき板の奥の形が見えているのだろう。月並み過ぎるが、そう思える。
そんな山田さんの手の動きはとても鈍い。時には素早いのかもしれないが、遠くから眺めるだけのわたしには見分けが付かない。上手く掘り進めているらしいときの表情はほぼ一定だが、ミスをした場合には微妙に歪む。井指先生には違いが見抜けないが、ミスには決定的なものあるらしく、その場合、山田さんは同じ板を掘り進めることができなくなる。井指先生が優しく/怖く説得しても山田さんの決意は変わりなく、無理強いすれば――大層珍しいことに――両手を振り回しながら暴れ出すので、最終的には井指先生が折れるしかない。それで新しい板を貰い、山田さんが初めから作業を遣り直す。が、その繰り返しをいつまでも続けているから山田さんには一枚の完成作品もない。それでも燃やされ残った何点かの製作途中作は、高い山の頂に聳える医院から程近い田舎の観光町の民芸品売場で売られている。わたしにとっては目に辛いだけの代物だが、好事家には受けるらしく、私立美術館に飾られた作品もあると聞く。山田さんその人にとって与り知らない失敗作だが、恩恵は入院費の足しになっているようだ。
そんな山田さんの面会人はとてもきれいなお婆さんで、もしかしたらお母さんなのかもしれないが、どちらにしても、わたしにはまったく無縁。お婆さん以外の面会人が医院に現れたのはわたしが知る限り唯一回で、小学校低学年らしい女の子が一人。山田さんに似ているかと問われれば、似ていないこともないとわたしは答えるだろう。一方、お婆さんの方は似ていない。そんな事実に何故かわたしは動揺してしまう。
橘精神医院の面会時間に突如現れた女の子は医院内に満ち溢れる幾つもの過剰な精神波に当てられ、終始引付を起こしたような表情を浮かべる。山田さんと対面したときも、それが変わらない。
「実の娘さんらしいけど、奥さん、どうして連れてきたのかしら」
「娘さんの方も決心して来てみたはいいけど、受け入れることができなかったようね」
体格の良い看護婦の尾瀬さんと背が高い三田村さんが漏らした会話を中庭噴水傍の白いベンチでわたしは静かに聞いている。
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