第8話 Bodyboard to Katazuke

 七月中で最も暑い日だった。

 二人は近づいてきて言った、

「レオがあなたと一緒にボディーボードをやりたいんだって」

「そうなの?」おれはレオに言った。

「ねーレオ」

「ボディーボードはやったことある?」とレオ。

「ない! ずっとやりたかったんだ!」

「僕が教えるよ」

「本当にできるの? やった」

 レオは、おれが何度かサーフィンをやりたいと言ったのを覚えていてくれた。サーフボードは浜から十五分歩いたサーフショップで借りることができる、レオ曰く、それはとんでもなく使えない板だという。

 レオは手にしている二枚のボディーボードのうち一枚をおれに手渡した。

「これ、どうしたの?」

「いいからいいから」

「ちょっと拝借したのよねー」とマホナは言って、クスクス笑いながら離れていった。

 レオとおれは、ボードをそれぞれの手に持って、いつも間近に見ていた海に入っていった。

 水は冷たかった。おれは上半身に波をかぶる度に、濁点のついた「あ」を吐いた。レオはお構いなしで前を行く。足に何かが触れたような気がして水面を見下ろすと海底に砂と同化した小魚たちがいた。彼らのカモフラージュは完璧だったが、透き通った水の中で、影までは隠せない。立ったまま左足で小魚を追い回そうとした、次の瞬間、なんでもない波にボディーボードを奪われて顔を引っ叩かれた。面喰っている間にボディーボードがうち上げられてしまった。慌てて取りに戻り、再びレオの背中を追った。

 レオは一部始終を見たのか見てないのか、その大きな背中はこっちを呼び寄せるようにゆっくり進んでいる。

「見てて」

 レオは、沖に向かってボードをお腹に付けて泳ぐんだ、波が来たら向かって一旦飛び込んで避ければいい、そうすれば押し戻されない、ということを言葉ではなく動きで教えてくれた。その後もレオを真似ながら遊んだ。

 徐々にこつを掴んだ。長く波に乗れた時の爽快感は他にない。周り人にも聞こえる声で「見たか」と叫びたくなる。しかし、振り返るともっと大きい波に乗っているレオがいる。大きい波が一度来るとそれの二番目か三番目に主役の波が登場する。早いうちにそれに気づいたが、そんなの待っていられずに、いつも一番目に乗ってしまうのだった。慣れてくると、より大きな波を求めて、より沖で待つようになる。すると今度はいつまでも欲望を満たしてくれる波は現れない。波はおれを通り越して、二、三m先で白いしぶきを上げ始める。思い通りにいかないスポーツだ、自然を相手にするとはそういうことらしい。

「右の肘でボードを沈めてみて」

 言われるがままやってみるとすぐに曲がれるようになった。レオは天邪鬼に物を教える要領があった。

「左には上手く曲がれないんだけどどうしたらいい?」

「左のフィンが欠けているからしかたないよ、変える? こっちも壊れてる」

「このままでお願いします。先生」

 それから、レオが同じ動きで二、三回たて続けに波に沈むのを見た。

「何かすごそう、どうやるの?」とおれ。

「回転して波に戻るやつ、ビデオで見たことない?」

「わかるよわかる、見たことある」

 次はどちらが先にその技を出来るかが勝負になった。


 夢中になって競った後、二人ともその技が出来ないまま飽きて、それぞれ適当に楽しむようになった。波を待ちながら自然との一体感に慣れてしまうと、次は女に目がいく。沖で波を待つ女を見つけた。彼女は、今まで見たことのない海水用のつば付き帽子を被り、タンクトップビキニを着ている。露出の少なさは、スポーツを楽しむ為だけに来ている、と訴えているが、男勝りに沖で波を待つ彼女はむしろ注目を浴びている。シャンプーハットのようなつばのせいで表情や年はわからない。わかるのは偶に浮かぶ引き締まったボディーラインだけ。おれは、頭の中で様々な会話を想定したが、掛ける言葉が見つからなかった。なすすべなく波に乗り、再び沖に戻ってくると帽子の女は消えていた。

 乳首がヒリヒリと痛い、板との摩擦のせいだ。浜辺に立ち上がり海を見渡した。水面がキラキラと光って眩しい。浅瀬は遊ぶのに夢中の人と人がぶつからないのが容易でないくらい混み合い、それぞれが生涯最高の笑顔を見せている。

「すぐ上手になるわね」

 振り向くとマホナが立っていた。

「レオの教え方が良いんだよ。マホナもやるの?」

「マホナ、サーフィン上手いのよ。始めは色んなところに連れて行ってくれた。でもすぐにいなくなっちゃう」

「レオ?」

「この前も急に稲毛海岸に行って二週間も連絡とれなかったのよ。ひどいでしょ」

「へぇ」

「ひどいって言って、心配して全く食べられなかったんだから」

「浮気してたわけじゃないんでしょ?」

「ああ見えてモテるのよ。ずっと隠れて連絡取っていた女がいたの、何回消しても連絡しているし」

「へぇ」

「ここに来るのだって何も聞いてなかったんだから。無理矢理乗せられて――」

 長く聞きたくなかった。海に目をやった。

「ねぇ、ねぇってば」とマホナは言った、「こっち見て、お願い」

 振り向くと、マホナは白いワンピースのスカートを両手で掴み、その手をすっと引き上げた。おれは、とっさに視線を海に戻した。

「マホナ、太ってない?」

「ない」

「お前ちゃんと見てから言えよ!」とマホナは叫んだ。

 早く止めさせるために一度しっかり見てやることにした。マホナのスカートを握った両手は頬まで持ち上げられ、麦わら帽子とスカートの間から目を覗かせていた。真っ白な肌に黄色い下着。込み合った浜でマホナのブラジャーから下が露わになっていた。

「この辺が太ってる」おれはマホナの肋骨を指差した。実際は痩せていた。ただ、小柄なわりに力強くてセクシーな肋骨を持っていた。それだけのことだった。

「そっか」小さな酔っぱらいは深刻な顔でスカートを戻した。

「バタイだったら完璧だった。コスモバルクってやつに近い。すごい可愛いんだ」

「何が可愛いって言ったの?」

「マホナバルク」

「もう、わかんないこと言わないで!」

 おれはレオが現れる前に海に戻った。

 夕方までボディーボードを楽しむと、夫妻はとっくに上がっていた。

おれはボディーボードを誰かに見られていないか気にしながら浜に置き捨てて、濡れた体でノッシノッシと斜面を上がった。夕方強まる潮風が体を一気に冷やした。ベッドに引っかけていたTシャツで体を拭き、そのままそれを着た。乾くまで少しの辛抱だった。

 片づけはいつも四時半に始まり、客の使っていないパラソルとベッドから回収する。午後の風は冷たく、二時をピークに客は減り始める。

 いつものように、片付けを始めようした矢先、突然、強い違和感に襲われた。目の前の、客が使った形にそのまま残ったパラソルとベッドが、物語を残して突然キャストが消えてしまったように見えるのだ。ベッド同士がやたら近かったり遠かったり、来たときと違う団体と交わっていたりする。男女のプライベートを覗いているようなエロスがあちらこちらに転がっている。彼らの夜を想像して興奮したが、同時に、最高の笑顔は浜でしか起こっていないことを悟った。全ての愛がここにある、ここはリビドーへの変換地点。できることなら、夏が終わるのを食い止めたい。いる人くる人皆のために。

 もし、ここにサキがいたら、出会った夏と全く同じだと思った。今すぐ彼女に電話して、ここに連れてくることができるなら、まだ間に合う、スゴロクの「振り出しに戻る」にみたいに楽しかった日々がまた始まる。しかし、もう一方でこう思う、今日のように楽しい日を繰り返し、過去を吸い過ぎたスポンジを思い切り絞りきれば、心が軽くなって本来の自分を見つけることができるのではないのか、そう望んで浜にやってきたのではないのか。

 最後の記憶の抵抗も波がさらって忘却の深海に沈んでいく。大事な記憶が大事でなくなったり消えてゆくのを待つことは、寂しさの中で最も寂しいことだ。例えば、痴呆で厄介扱いされていた老人が死んだ時に、家族が流すあの涙は一体どこから湧いてくるのだろう。どれほど分かり合った同士でも、お互いの記憶が塗り替わってからでは同じ世界に生きているとさえ言えやしない。

「しぬぅー」と背後でマホナの声がした。「もうだめ」

「もうすぐ終わりだよ」とおれは言って、平然を装い手を動かし始めた。

 浜の傾斜を上り下りしながら「momoko」と油性ペンで書かれたレンタル品だけを選んで拾い、畳んでプラスチックフェンスに並べていく。全部集まったら一列に並んで、フェンス越しに浜から歩道、歩道から軽トラの荷台へと受け渡す。(momokoについて何故そのサインにしたのかオヤジに聞いたが、「ずっとこれなんだ」と言って、教えてくれなかった。おれはかみさんの名前ではないかと睨んでいる)

 菊池とおれは、率先して動き、お互いに集めている物を交換したりして工夫した。レオとマホナは、その作業も一緒に馴れ合っていたが、片づけに関してだけ言えば、日に日に分かれて動くようになり、レオも、菊池とおれにとけ込んだ。マホナはいつもパラソル二、三本を両手で抱き抱えて頑張っているふうだった。オヤジはと言えば、軽トラが必要になるまで、陣地のベッドで横になり、そんなおれたちを見下ろしていた、又は、本当に寝ていた。オヤジは正午を過ぎても一人で商売を続け、そのせいで片づけの体力までは残っていなかったのだ。

 集めた用具を軽トラに乗せる時は、どの業者もだいたい同じ時間に撤収するため、自分達のトラックが来ると邪魔にならないよう速やかに積まなければならない。その際、道路に軽トラを停めていたからオヤジも違反を気にしていた。

 その日の夜、部屋を抜け出し、下のローソンの店長と会った。マリオの様な髭を生やした山崎店長は、「すごく助かる」と言った。おれは六日目にして当初の計画通り、二つ目の仕事を手に入れた。労働時間が約束と違うのだから、オヤジは文句を言えないだろうし、迷惑をかけるつもりはない。何せ、おれが一番売っている。部屋に帰ってオヤジに話すとすぐ了解してくれた。後で考えると、煮えくり返るほど、おれのことが憎かっただろう。それでも、オヤジは態度に出さなかった。勤務は夜勤で二日後が初出勤に決まった。

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