第4話 Kikuchi to Fireworks
四日目の夜のことだった。
「おう、わかったか? そこだ、今行く」と言ってオヤジは携帯を切った。しばらく聞いていない低い声だった。初対面で舐められないようにふっかけているのだ。
「もう着いたんだってよ、ローソンまで行ってくる」とオヤジはおれに言った。
「え、近くの人ですか?」
「東京からバイクだ」
「へーすごいですね。めちゃめちゃ、いかつい奴来そうですね」おれはおどけたが、内心否定してほしかった。
「おう、よくいるよ。車にボード積んで来た奴なんかはな。バイクだろうが、おかしかねえ。話した感じじゃ誰よりも使える。俺の勘は間違ったためしがねえんだ」
「下まで呼ばないんですか?」
「物事にはやり方ってもんがあんだよ」
オヤジが出て行った後、菊池が風呂場から戻ってきた。
「社長は新しい人呼びに行きました」
「もう来たんだ早いな」
菊池と二人きりになるのは初めてだった。菊池は浜で無口だったから、意思疎通を図っておこうと思った。菊池はトランクス一丁で隣のマットレスに座った。肩が熟れたトマトのように赤かった。
「好きな陸上選手とかいるんですか?」
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
菊池は陸上の話しを出し惜しんだ。それでも、おれがめげすに聞くと、仕方なく話し始めたが、案の定おれは陸上のことを何も知らず、何度も選手名と種目名を間違えた。菊池は正すのが面倒臭くなり、「だからこのオリンピックは期待している」と話を締めくくった。おれは慌てて「あっ、オリンピックだ」と声を上げてはみたものの、それ以上言うことがなかった。
菊池は自前のバスタオルをマットレスの上に広げ、その上に寝転がり、両手を頭の下にして天井を見上げた。おれもそうした。真上の木目が、ムンクの「叫び」に見えた。菊池の上は怒っていた。オヤジのマットの上は宇宙人のグレイに似ていた。
「そう言えば遅いですね」とおれ。
菊池は携帯に手を伸ばした、
「平気っしょ」
「もう三十分も経ってる」
「あんなー、いい大人に何かあるわけがねーだろ? こんな田舎でさ。社長にとっては知らない土地じゃないんだぜ」
「そうですね」
会話がなくなると部屋は無音になった。外でキリギリスが騒めき立てているような感じがした。
エムディーウォークマンに手を伸ばしかけた時、階段を上る音が聞えてきた。ドアが開く音と同時にオヤジの怒鳴り声が部屋に広がった、
「聞いてねえぞ! なもん!」
驚かそうたって身に覚えはないぞ、とおれは思った。多分菊池もそう思った。おれたちは直ちに背筋を正して玄関に目をやった。
デカい男が立っていた。厚い胸板を強調している七分丈のラグランシャツが、田舎臭さも同時に強調していた。
「今日からお世話になります。須藤レオです」と彼は柔らかい声で言った。しかし、部屋にはすぐに上がらず、自分の背中に向かって、
「自分で挨拶しなきゃいけないよ」と言った。ひそひそ話には部屋が小さすぎた。彼は再びこちらを向くと、
「マホナは恥ずかしがりやなんです。僕たち夫婦です。色々とご迷惑かけると思いますが、よろしくお願いいたします」と言って、深々とお辞儀をした。
「バッカじゃないの!」と背後に隠れていた金髪女が叫んだ。「そんなの出来るわけないじゃない!」
お辞儀を終えた彼の目は、緊張の為か瞳孔が開き、何も写していなかった。金髪女は断固として夫を睨み続けた。金髪女の顔は、ほんの一瞬見たところによると、不登校のヤンキーが、生活指導ですっぴんにされたみたいに苛立っていて幸がなかった。田舎臭い男と不良娘。二人はオヤジに促され風呂場に向かった。
「一緒にシャワーに入って良いんすか!」と菊池が反抗的な声でオヤジに言った。
菊池がそんな言い方をするなんて思いもよらなかったが、言っていることはわからなくはないと思った。しかし、
「夫婦なんだから当然だろ、それより女なんて厄介なことになっちまったぜ」とオヤジは軽く受け流し、それまで立て掛けてあった襖で、キッチンと和室を仕切り始めた。
「言ってくださいよ、俺やりますから」
菊池はすかさず立ち上がり、マットレス二枚を袋から出した。おれは出遅れた敗北感を自尊心に替えながら、寝転がってその様子を眺めた。こうして夫婦は部屋を得た。二つの部屋は計五枚のマットレスで、足の踏み場がなくなった。
カップルが戻ってくる前に、花火の音が聞こえてきた。
「どこですかね?」とおれはオヤジに言った。
「白浜だな」オヤジは煙草に火を付け、定位置に座った。おれは、尻に根が生える、と言う言葉を思い出した。東京で働く恋人は、そういった茶目っ気のある言葉をよく使う。
「えーみんなで行かないんですか?」とおれ。
「いいんだがよ、行ったって何もありゃしねぇぞ」
「菊池さん、一緒に行きましょう」
「社長行ってもいいっすか?」
「おめえもか、しょうがねえな」
オヤジは着ていたシカゴブルズのロゴが入った赤いハーフパンツのポケットから、鍵がじゃらじゃらついたキーホルダーを取り出し、なにやらいじくっていたが、終いに「めんどくせえ」と言って、菊池の足元に投げつけた。
浜までの道は大渋滞だった。後ろを振り返るとオヤジのワゴンを見つけた。「やっぱ、みんな行きたいんじゃん」。大分後からやってきたはずなのにたった二台後ろにつけている。
崖を曲がっていると花火が姿を現した。火花が二カ所? いや、一つは海の反射だ。足下に咲く二輪のたんぽぽのように物足りない。目と鼻の先なのに車は止まったままだ。「行ってきな、こっから俺は見てるから」と菊池に言われ、おれは浜に向かって駆けだした。その間に、一際大きな爆音がなり、辺りが暗くなった。
たどり着いた浜は、源光が一切なく、さっきまで多彩に染められていたのが嘘のように暗かった。露店も出ていなかった。幸いまだ人々の顔は上に向いていた。手探りの中、縫うようにして人が密集した所までたどり着き、中年の男に、「もう終わりですか」と尋ねた。男は「さあ」と言って立ち去った。それを合図にしたように、あっという間に人が掃けていき、明かりが届く範囲に群れる学生とカップルを残すだけになった。菊池も見つからなかった。夏の真ん中にやって来たはずなのに夏に逃げられているような虚しさに襲われた。
程なくして、いくつかの小グループが、手に花火を持ち、闇の中へ消えていった。おれは、あっち側には求める夏がある、そんな気がして焦った。菊池なんて待ってても仕方ない。花火をやっている同じ年頃のグループを見つけ出して仲間に入れてもらおう。
遠目で見ると、個人が持ち寄った花火の光は、打ち上げ花火の残像と浜の広さとで、極々小さく感じられた。それを行っている人の方は、性別や年頃も殆ど見分けが付かなかった。闇に隠れるようにして盗み見しながら浜を練り歩いた。しかし、どう考えても、気づかれずに忍び寄り、相手を把握することは不可能、むしろ、あちら側からはこっちが見えている可能性もある。火花をやっている集団を見つけては目より耳に神経を集中させた。どこかに男を求めるきゃぴきゃぴした女の声はないか。しかし、こうしている間にも、もし反対側から、自分と同じことをやっている不審者が出てきたら、もしくは、楽しんでいる最中の人間と間近にすれ違ったら、と想像するだけでもゾッとした。興奮が一歩毎に冷めていき、気まずさを乗せた天秤が逆転すると、大人しく出口に向かうしかなかった。頭をよぎるのは東京で働く恋人のことだった。ここで思い出を漁るのは女々しいから、今頃サキは満員電車に揺られているんだろうなと思うだけにとどめた。
「あーいた」と親しげな声に呼び止められた。「楽しめたか?」
「えっ、ああ」おれは菊池に驚いた。「ありがとうございます。社長たちは?」
「いないよ。なんで?」
「さっき車見たから」
「お前が見たのは別の車だったんだよ。楽しかったなら良かったな。さあもういいだろ、帰るぞ」
「一時間位待ってたんじゃないですか」おれは携帯を見た。「一時間半か」
「着くのに時間かかったし、そんなに待った気はしねえよ。それよりお前が帰れないと困るだろ」菊池はいつになく上機嫌だった。おれは菊池とは馬が合わない、そんな気がした。
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