少年

 スキャンは一時間ほどかかったようだ、眠りこんでいたらしい。突然扉の開く大仰な軋みに起こされてしまった。なにか厭な感じがする、なんだろう、そうだ、臭いだ、機械に射された油の臭いであろうか、否、この匂いには覚えがある、そう、あの日の厭な記憶が蘇る、あの日の事故、これはあの、工場の製造ラインに降りた記憶だ、あそこの部屋いっぱいに立ちこめた匂いだ。どうして。

 スキャンから外側へと運ばれていく。眩い診察室の光が射しこんでくる。

「ああ、目を覚まされたのですね」

 御所浦医師はなぜかしら心配そうな表情だった。

「もしかして、悪いのでしょうか」

「いえ、まあ結果はあとです」

「そうですか」

 そうにしてはなぜかしら表情が固い、なにかあったのだろうか。

「大丈夫ですか、お体は」

「えっ、なにがです」

 医師は私を上から下から眺めていた、いったいなにが。

 つられて自分自身の身体を見つめてハッとする、作業着、油の匂いを含んだ、スキャンに立ちこめていた正体はこれだった、しかし、どうして、私は作業着など着ていなかった、もちろん私服だった、あの日事故があり、しかし報酬は振り込まれて、家族と暮らし、一年後、この病院へと呼び出されて。

「先生、私は事故を起こしましたよね」

「ええ」

 どういうことだどういうことだどういうことだ、もしかして記憶がこんがらがってしまったのか、もしかして事故が起こったのが今日今さっきのことで運ばれスキャンを終えるまでの間に私は一年間の実感をもった夢を見ていたのだろうか、そうであるなら、私は。

「あなたは一年ほど前に事故を」

「えっ」

 どうなっているんだ。ますますわからない、じゃあ家族と過ごした一年間の記憶はほんとう。

「先生、私はこの格好でこの病院へ」

「ええ」

「油の匂いの染みついたこんな格好で」

「そうです」

「すいません、まったく記憶になくて」

「ええ、よくあることです。瀬下さん、あなたは訪れた時とても具合が悪そうでしたから」

「具合が。いえ、まったく覚えていなくて」

「それはそうでしょう、極度の体調不良。記憶に障害をきたしてしまったのですから」

「そんなことって」

「ええ、よくあることです」

 なんだって。いくらなんでも、こんな所に作業着で訪れたのであれば、さすがに記憶しているだろう。どういうことなんだよ。

「ちょっと理解に苦しみます」

「まあ、少しゆっくりされてください、無理を言って悪かったです、善は急げとは言ったものの」

「あ!」

「突然どうされましたかな」

「善は急げ、確かにそうおっしゃってましたよ」

「ははははは、すみません、口癖なのですよ」

「はぁ」

 よくわからない、しかし医師の言うように、少し休んだら記憶が整理されてくるのかもしれない、まあ仕方ない、そうすることにしよう。

「まあ先は長いです。とりあえず病院で寝間着を貸出していますので、それを着てくださいな。ただ、瀬下さん、あなたはとても大柄ですので。すみませんがちょっと小さいかもわかりませんよ」

「はあ。でもありがとうございます」

「ええ、いいんです、あなたは当分入院しなければなりませんよ、少なくも結果が出るまでは」

「悪いんでしょうか」

「それは後ほど、まあ二三日はみていただかなくては」

「そうですか」

「心配いりませんよ、ちゃんとベッドはある」

 御所浦医師は薄メガネ越しに笑顔をみせた。


 案内された部屋は個室だった。とりあえず食事は出るらしくどうにかやり過ごすことはできる。疲労がある、シャワー室もあるようだから後で借りることにする。とりあえず着替えてこの厭な匂いを取り除かなければ、その前にシャワーを借りたほうがいいだろうか、洗濯は頼んでもいいのだろうか。汚れた格好でベッドに入るのも癪であるから、サイドに据えられた椅子に腰掛けて色々と考えていた。ここから斜かいになるが、ベッドの正面に入口があり、ぼーっと眺めていた。

 時々通路を人が通っている。何気なくそれを見つめたりしている。

 何もしないで時間はつらつらと流れていく、色んなことが思い起こされて少し辛いな、と思ってしまう。これではいけない、はやくシャワーを借りて汚れを落とさなければ、この部屋に染みついてしまっては敵わない。

 立ち上がった瞬間に部屋を横切るものがあり、不覚にも背筋が凍るような気分に陥った。

 異様な光景だった、あの工場の作業着、しかも、それを着ているのは、明らかに、背格好の小さな、少年のように思われてならなかった。

 不気味さを抱えながらも、本能的に私はその少年らしき影を追おうと足を踏みだした。部屋を出た途端、やはりその風貌が見切れた、意外に素早い、もう角まで達して曲がってしまっていた、私は病院であるにもかかわらず彼を突き止めようと小走りで彼を追う、角を曲がると信じられないことに、小走りの私よりも素早い足取りであったのだろうか、向こうの角をすでに曲がる体勢になり、そして曲がっていた。一瞬だけ背中がそれから横顔が見えた。相貌を記憶するまでの時間には見舞われず、私はもう一度その角まで今度は大股で走り向かった。しかし、信じられないことに少年の姿は、もうそこにはなかった。私は角で中腰になってしばらく息を切らせた。

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