STAGE4

YUMEZ(ゆめぜっと)

…………すた…………すた…………すた…………すた…………


 微睡みの中だった、秒針のような正確なリズムが刻まれるのだと理解していた、それは時計から放たれる空気を弾くような乾いた音ではなくて、緩んでいる古い蛇口からこぼれ落ちる水滴の鳴るような湿りとくぐもりが含まれていた。

 やがてだんだんと想念が霧のように漂い生まれ始めて、しだいに映像へと滑走していった。

 薄闇の情景。暗い雫が上方に溜まっている、自らの重さのせいで揺らぎ、空中に浮かんでいるのが奇妙だった、そして抱えきれなくなって暗い塊が崩壊してひと雫を真下へと落下させていった。水平線まで広がった重液の海のおもてに垂れこめると波紋が重々しく描かれ伝っていく。湖のような静けさの海で、波紋を生むまで波音ひとつなく平に鎮まっていた。

…………すた……………………すた……………………すた……………………

 想念の映像に引き込まれたせいであろうか、正確であるはずのリズムが緩やかに引き伸ばされているとわかる、拡張意識の仕業だろうか…………

 暗い雫は延々と落下運動を繰り返す。落ちる、と同時におなじ大きさの雫が生まれていて、また、落ちて。

 聴覚と視覚を行き来しながら、リズムは弛緩と収縮を弄ぶように曖昧だった。


 暗い甘美に留まっていれば永遠に可能かもしれなかった、しかし、肉体は微睡みを破ろうと本能しているらしかった、ようやく、無限ほどに広がった想念の映像をふさいだ殻が、肉体として感覚をわずかに戻していき、それから『私』という認識が干し肉のような甘美さで吸い上げられていくのが直観できた。瞼には重液のたゆたいが張りついて苦労した、

…………すた…………すた…………すた…………すた…………

 映像を失った私の聴覚には正確なリズムが訪れていて現実世界を占領したようだった、代わりに瞼の向こう側からは鋭く眩さが私の視覚を突き刺していた。微睡みを破るのは、もうすぐだろう。


 目を開く、思いの外の暗がりだった、水滴の鳴りの正体はすぐにわかった。病室、薄く照らされた部屋の向こうの廊下から届いた照明だけがしっかりとした眩さだった。枕に収まる私の顔のちょうど正面であるにしても、覚醒に知覚した激しい眩さの理由になるには足らない気がした。右手に見切れているのは点滴の器具だ、おそらく私は入院しているらしい、しかしそれまでの顛末を、微睡みのせいであろうか、その内奥に広がった深い眠りの感覚のほうが未だに現実的で、きっと長らく眠りこんでいたのだろう、と決めつけた。

 まだ首は重い。体躯はさらに鉛のようでとても動かせないだろう。限られた視野、こんな暗い部屋に置き去りにされている私の境遇はいったい何だろう。正確に刻まれる点滴の鳴りに耳を貸して、ただ想念に、さっきまでの幻想とはほど遠いひたすら現実的な想念に意識を絡めるだけにしていた。

 少しずつ、記憶が遠い場所に、生まれ始めて、やがてしだいに近づいて来る。始めはノイズのような不明瞭な塊が意識をチクチクと刺激するだけだったが、辛抱づよく待ちつづけていれば、鮮明な記憶がまっすぐな流体となりあたかも突風のような暴力でいきなり襲うので、ドキッとせざると得ないほどで。曖昧さや確かさが潮のように満ち引きを繰り返していくことで、一度の覚醒では得られなかった自らの境遇への行方が、だんだんと重ね塗られていく、そうしてしっかりと記憶へ収まっていくのが実感されていく。

 それは、記憶喪失からの脱却という安堵をもたらしてくれたが、反面、今の私の芳しくない境遇を鉄槌のように叩きつけられるような、快くない皮肉な現実の味わいをもたらすので、胸に苦い液が広がるような寂しい心地に陥ってしまうのだった。

 ようやくひと通りの道筋を整理することができた。長い時間が過ぎたような気がするが、まだ、誰ひとりこの部屋には訪れる様子もなければ、体躯の鉛もほどけてはいないようだ、それとも、拡張意識はまだ続いていて、一瞬の想起を一定時間の実感として錯誤しているだけなのだろうか。いずれにしても、私には、ここに至るまでのエピソードが、二つ並んで思い出されていた。整理が進むにつれて、自らの憐れな境遇にも、少しく距離を保つことができて、仕方ないにしろ受けとめるまでには至ったようである。

 一旦区画されたはずの記憶の物語。しかし凪いだ空気は突然嵐へと変わってしまう。それほどに、意識の日常では抱えきれない非日常に私はいるのであって、そんな大きな凶暴に歯向かおうとするのは馬鹿であり危険でしかないのだ。達観、とまではいかないものの、私は、去来しつづける記憶の物語の映像の数々に、あきらめ、身をまかせ、意識をともに流していこうと決めていた。

 ふたたび、意識は、意識とは遠い場所へと、引き離されていくようである…………

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