07.危機感をおぼえよう
今日も今日とてふよふよと水に漂いながら光合成をしている。
時折すれ違う者に軽く挨拶を交わす瞬間を除けば、時間はただのんびりと過ぎて行くのである。やかましい友人とも遭遇しないし、このまま夕暮れ時の雨を迎えて一日が終わるだろう。
雨が小雨から本降りに突入した頃――
「そこの君」
ステファンは水面を打つ巨大な雨粒に翻弄されつつ、その呼びかけを聴いた。
波があまりにも激しい。呼びかけてきた相手を探し当てるまでに、丸一分はかかった。
「そこのStephanodiscus属の……確か君は、ステファンと名乗っていたかな」
「うん?」
呼びかけてきた者を改めて認識すると、それは自分とよく似た形の珪藻だった。よく似たどころか瓜二つである。
ステファンは数秒ほど、鏡で映し合わせたかのような美しい形状に見惚れた。
「ファノさん、久しぶりだね。何ヶ月ぶりだろ?」
「夏の連日の大雨に別の水たまりに移って以来だな」
彼らは親し気に挨拶を交わす。かつては同じ水たまりに棲んでいた仲間だ。
こちらのファノと名乗っている者は同じ珪藻Stephanodiscus属の個体ではあるが、ステファンとは遺伝子の直接的な繋がりが弱い。共通の先祖を探すには三十年以上は遡ることになる。
「帰って来てたんだね」
「一昨日くらいにね。それで、向こうに居た間に不穏な噂を聞いてね。そちらの耳にも入れておこうと思って」
「不穏な噂?」
「ああ、なんでも、この辺りを荒らしている人間が居ると」
「人間が……」
ステファンはその一言に強烈な危機感を覚えた。
人間は藻のコミュニティにとってややこしい存在なのである。水を飲みに来る虫、共生関係を築きうる植物、水たまりを踏んで通り過ぎる野生動物とはまるで性質が違う。
奴らは――
「採集、かい」
「そうだ」
「随分と時季外れだね。人間は夏期が一番厄介だと思ってたけど、秋はダイガクってヤツが始まってここには来なくなるはずでしょ」
ステファンたちが家とする水たまりが位置するのは、人間が所有する領地の中でも特殊なタイプだと理解している。
Biological station、つまり生物学の実験所なのである。それも大学付属のもので、毎年十週間続く夏期講習が行われている。その中には藻の生態を中心に据えた講義もあるため、度重なる生徒たちの雑な採集によって周辺の棲家は荒れに荒れまくる。
「いつもの連中ではなく別の機関の研究者が特別に許可を得て入ってきたらしい」
「どういう研究か、知ってる?」
「詳しくはわからない。ただ、何かの栄養剤を作りたいそうだ」
「うーん……? 栄養剤ねぇ」
「気をつけろと言ってもどうしようも無いかもしれないが、一応憶えて置いてくれ」
「わかったよ。ありがとう、ファノさん」
彼らは別れの挨拶を交わしてそれぞれの生活に戻る。
――と言っても移動手段が無いので、互いに顔を合わせなくなるまでには数分かかったが。
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