06.世界に想いを馳せよう

「ぼんじゅーる! こもんさばー? さば・びえーん? じぇまぺーる、ゆどらいなー」


 その朝、妙な振動が水たまりを伝って届いた。まだ陽が昇って間もない時刻のことである。


「あんしゃんてぇ。じぇすいー、あめりけーん」


 気だるげに、ステファンは騒音の中心である友人の姿を求めた。16の細胞で成される緑藻の群体は、朝日を浴びて素敵なエメラルド色に輝いている。


「ちょっと、ユドくんたち。朝からうるさいよ」

「ステファン! いる・ふぇい・ぼー」

「いやいや。何言ってんのかわかんないって」

「うむ、仏語の練習だ。Il fait beauは多分、いいお天気ですね的な何かだぞ!」


 なんでも、ユドくんたちは数日前からご近所の緑藻にフランス語を教えてもらっているらしい。そういえば最近あまり見かけていない気がするのは、それで忙しかったからなのだろうか。


「どうして急にフランス語なの。どっか行きたいの?」


 ステファンはゆったりと水にたゆたいながら問いかけた。このご時世、英語だけ解していれば十分どこでも行けるだろうに。彼らが世迷言を吐くのはいつものことだが、今度はどんな異国に夢を見ているのやら。


「この間、ヒューロン湖の話になっただろう?」

「そうだね」


 ――ゆらゆら、ゆらゆら。

 せっかくの晴天だ。ステファンは話を聞きながらも光合成に励んだ。


「もし、もしもだ。我々もヒューロンに旅をしてみたとする。向こう岸はカナダではないか」

「むしろ湖の中に国境があるんじゃなかったっけ」

「そうであろう! ならば仏語の練習をせねばならない! さあ、ステファンも!」


 急にユドくんたちがぐっと近くに来たので、ステファンは吃驚した。


「近い近い! 鞭毛で動けるからっていきなり接近しないでよ!」

「……おぉう、すまない」

「っていうか待って。飛躍しすぎてる。君たちの主張は前提がめちゃくちゃだよ」

「うん? そうか?」


 緑色の群体はぶるぶると震えている。明らかにステファンの言わんとしていることを理解していない。


「まず、国境付近まで旅に出るとは決まってない。大冒険すぎる」

「そうだな」

「たとえ君たちが旅に出るとしても、ぼくが一緒に行くとも決まってない」

「そ、そうだな」

「最後に………… カナダは英語通じるよ!」


 フランス語メインなのはケベック州のみのはずである。どちらにせよ大抵の標識には英・仏の両方が記されており、学校でも両方教えられているので、フランス語を知らないからって困ることはない 、というくらいに人間たちの間では両言語が浸透している。


「む。そうだったか? 我々はてっきり」

「誤認だね」


 ステファンは再び光合成に集中する。しばらくの間ユドくんたちは黙り込んでいたが、やがてまたパッと喋り出す。


「しかし、仏語は難しいな。 動詞活用体系がややこしすぎる。主語によって大幅に違うのだからな。言葉の中だけとはいえ、我々は個であるべきか群であるべきか。個は群を成すからこそ存在意義があり……そもそも我々は、他の者を含めての複数である時と、我々のみである場合とで一人称を使い分けるのが困難だ。常では『We』であり『Us』であるが、君を含めると――……」



「ちょっ、やめて。頭痛い。朝からこんな哲学的な話はいいよ。普通に北極の太陽とかオーロラとかに想いを馳せようよ」

「北極の太陽もいいが、まだ見ぬ辺境の地に栄える親戚も想像してみたいな!」

「おお、いいね。北の風に晒される珪藻か、どんなだろう」


 何気ない談笑は続いた。


 ――結局彼らがカナダに行き着く日は来るのか、来ないのか――それはまだ誰にもわからない。






**光合成をする生物として藻に昼夜の感覚はあるはずですが、我らにとっての睡眠に該当するような活動休止までしているかどうかはちょっと私には謎です。あと彼らのコミュニケーションは分泌物による信号伝達が主であるかと思われます。これは、微生物が魂(言語)で語り合える架空の地球を舞台にしたファンタジーです。

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