故郷について
“故郷”といって、それで何を指示しているのか。
一般には生まれや生育した土地、街を故郷と称する。
異郷は故郷の対義ないし否定形。土地、街といった共通項を基底に出生、生育の場ではない場所を指す。故郷以外。
私たちは物事を切り分けること(分別)によって認識を得る。
故郷も異郷との対比によってそれといえるようになる。
異郷で故郷を思うこと、あるいは故郷で異郷を望むこと。
分別には、多少の差はあれ幻想を含まないものはない。
現実と認識主体の欲望(願望)のあいだで物事の切り分け(輪郭線)は作動する。
輪郭線はあらかじめ用意されている。それは幾重にも重なっている。重なっていて、だからそのままでは白紙のようなもので、なにでもない。
可能なすべての切り分け方はすでに用意されてあるが、これを欲望によって選びとる。
ひとつの輪郭線(概念)が発色し、それ以外を褪色する。
ただし、これは主体の認識の上で起こることで、対象は変質しない。
“認識の上で起こる”ということの意味は、主体の意図によって自在に概念が選ばれるという意味ではない。選択は意図が形成される以前に為される。これを為す主体は“私”ではなく、肉体であり対象である。
前者が欲望し後者はそれに応答する関係のうちに、概念は選択されまた捨象される。
これを分別という。
対象は変質しないが、全く正確に対象を認識し尽くすことはできない(尽くした先にはただ白紙があって、認識を失う)ゆえに、欲望のための理想的なイメージが対象に侵入する。
この侵入をすなわち幻想という。
故郷にあって異郷を夢む、あるいは、異郷にあって故郷を夢む。
夢むとき対象は、むしろ幻想が吸着するための、核のような役割をのみ担って、そのほとんどを幻想によって包まれてしまう。
故郷に嫌気がさして異郷を夢むその異郷も、異郷に不和合して故郷を夢むその故郷も幻想にほかならない。
幻想はしかし、無用で捨て去られるべきものと思ってはいけない。
私たちはなににしても、幸福のために動く。
その行動がたとえ自傷や自殺のたぐいであっても、不遇から逃れるための手段であれば、幸福を望んだすえの(幸福に至る)行動にほかならない。ゆえに行為は総じて幸福追求といえる。
幻想だと看破してみせ相手を現実へと説き伏せた極北には、それこそ生の棄権が待機している(実際にはそれほどまでに徹底していう人はいない(たぶん)が)。
事実と幻想を分離する。それは事実の闡明のためというより、幻想(欲望)の詳細を知るためだ。
つまり重要なのは現実や事実といった、究極的には到達できないものへと還元することではなく、私を動かす(未知の)欲望の正体を究明することだ。
この言説には逆立を感じるかもしれない。でも逆立していたのはどちらだったのか。
異郷に出て、挫折のなかで望郷が生じる。上記した通り、望まれた故郷は幻想であり、存在しない、一度もそんな事態のあったことのないユートピアである。
帰郷によって故郷に帰ることはできない。故郷とは、また憧れの眼差しを向けられた異郷とは、欲望された環境にほかならない。故郷はすなわち欲望や肉体(欲望)が高密に接続できるとされた環境のことだ。土地ではない(第2,第3,……第nの故郷という呼称があるのもそのためだ)。
帰郷してみれば、山川の形は見知ったそれではない。かつて在郷していた人間関係はどこにもない。どこにも一度としてあったことのない理想郷は、幻想としてだけあって、しかしこれは失望だけが残るのでもない。
この幻想を鑑賞する者は風流人にでもなるかし、実現しようとする者はことあるごと現実を変容させる政治家かなにかになるかする。
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