第35話 正体

 裁判が終わると検非違使別当は政庁へと引き上げていった。いかにも不服であるという顔つきであるが、神意には従わねばならない。美嘉はといえば、片付けのために残留している。

 そして当の被告は、再び手枷をはめられて、銃を突きつけられてはいるものの、斬り殺させる危険が去ったことに安堵している様子である以上に、顔に自信が見られた。神仏は彼に味方したのだ。


 念彼観音力!

 

 我々が見た奇跡は、そうであったとしか言いようがない。

 彼は観世音菩薩の真言を唱えた。観音力が彼を救った。そう言うほかはない。

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五、すなわち観音経に次のような言葉がある。


或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊(あるいは圧政により 死刑を宣告され刑に処されようとしても 観世音菩薩の力を念じるならば その刀は折れてしまうだろう)


かの日蓮聖人も龍ノ口法難の際、まさに同じように斬られんとするとき観音力に助けられている。法華経は正しいということである。観世音菩薩は我々を救い給う。南無妙法蓮華経、南無大慈大悲観世音菩薩。


またも話がそれた。もとに戻そう。


 みどりさんは和田氏を睨みつけている。

「礼の一つくらいおっしゃったらどうなんですか」彼女は言った。

「この手枷を外してくれればね」和田氏は言う。実際その手枷は厄介なものであった。貼られた護符は、呪術的にもかれは手枷をはめられていることを示している。「念彼觀音力 釋然得解脱」という訳にはいかないのである。

「いったい僕が何をしたというんだい? 何が悪くて捕まるのかな? 神意は下っただろ?」

「全てにおいてです!」みどりさんは叫んだ「いいですか、貴方の命は一旦私預かりになっているに過ぎません。軽率な言動は謹んでください」

「おお怖い」

「そもそも、貴方はどうして内務省などにいるのですか。東京政府に加担しているのですか。本来の役目は、どうなったのですか!」

 そのとき我が妹が目を覚ました。彼女は卒倒してから木陰に移動させられ、そこでしばし横になっていた。彼女は周りを見回すと、すぐに私を見つけた。

「お兄様! いったいわたくしは何分ほどこうしておりましたか?」

「10分程度じゃないかな」私は言った。

「あの頭のおかしい裁判はどうなりましたか! 和田さんは!」

「ああ、彼なら無事だよ」私は彼を指さした「手も焼けてはいない」

「よかった……」彼女は安堵の涙を流したが、やはり彼がまだ鎖に繋がれているのを見るや、顔色を変えた「待ってください、これからこの方を、どうするつもりですか」

「何って、尋問するのです」みどりさんは答えた。「彼ははっきり言ってしまえば裏切り者です。その罪を問いたださねばなりません」

「裏切り者はあなた方でしょう!」千歌は噛み付くように言う。「天子様に歯向かっているのはどこの誰ですか。それに」今度は和田を指さした「この方がかような仕打ちを受けるいわれはありません。彼は善人です。このような仕打ち、天が許しても私が許しません。彼は命の恩人なのです」

 そしてあたりを見回した彼女は次に美嘉を睨みつける。

「貴女もです! よくも平然な顔でいられますね。よく躊躇なく焼けた鉄をあんなふうに、おぞましい。一体貴女には人の心というものが……」

 と、そこまで言ったとき、千歌はなにかに気づいたらしい。目を丸くした。「もしや貴女は……」

「そうや、斎部美嘉どす」美嘉は口元に笑みを浮かべて言った。

 千歌の口調がさらに激しくなる。「また貴女ですか! 一体貴女は! またお兄様を誑かしたのですか!」

「まあまあ千歌、そのへんで」私がなだめようとする手を、千歌は払い除けた。

「お兄様もお兄様で、こんな人らとつるんで。許されません!」

「千歌、これには理由があるんだ。順番に説明するから、今は黙っていてくれないか」

「なんの理由があるんですか。これは非理です!」

「千歌さん」その時和田氏が声をかけた。落ち着き払った声だった。「僕はこの通り大丈夫、だからひとまずは落ち着いて」

「しかし、鎖に繋がれている! 手枷もかけられて! あんな、大やけどをするかもしれない、いやするに違いない仕打ちを受けて、どうして平然といらっしゃるんですか!」

「それは、彼の正体を知っていて言ってはるんか?」美嘉が言う。

「正体? それは彼は私を以前助けてくれた……」

「そういう意味やあらへん。彼が、アレくらいのことならできる人やとは、知らんかったんか?」

「え?」

「逆に聞くけれども、いったい何処で彼と会うたんや?」

「それは……忘れもしません。2年前の初秋、私は奥吉野から紀伊山地を南下する山道を歩いていました。奥駈道です。あるとき、道に迷い、そして食料が尽きかけた私の前に彼は現れ、食料と水をくれ、近くの村落までの道を教えてくださったのです!」

「その時、どないななりをしてはった?」

「なんていいますか、こう、手には杖を持っていて、頭には小さな帽子を被っていました。服の前面には、しろいポンポンみたいなものがたくさんついた、そういう格好です」

 専門用語を使って言えば、おそらく頭には兜巾、手に錫杖を持ち、結袈裟を着ていたのだろう。つまり山伏、修験道の行者の格好である。

「行者はんなら、なんとかなるかもしれへん、そうは思わんかったんか? 火渡りや、白刃の上を歩くんに比べたら、焼けた鉄を掴むことくらい容易や、そうは考えんかったんか?」

「それは……」千歌は言葉をつまらせる。

「火傷を心配しはるいうことは、彼の力を侮っている。なんとも失礼な話やおまへんか、なあ」そして視線を今度は和田氏に投げかけた。

「どうでっしゃろ。和田はん、いや、熊野別当どの」

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