第22話 神山

 旭美幌あさひみほろ二十三歳は嘆いていた。

 東大を出た。国家一種に合格した。内務省に採用された。どう考えても栄達コースである。だがなんだ、どうして神山などという四国の山奥にある消費者庁の支所に送られねばならぬのだ。職員はわずか二十人ばかりの支部である。しかも直属の上司は変人で仕事をしない。

 彼女は両手で頭を抱えて机に突っ伏していた。仕事をほとんどしないのはまだいい。しかし、勝手にいなくなるのはやめてほしい。昨日の昼から上司である和田は失踪している。彼はどこに行ったのか。心配するのは彼ではなく、自分自身の増える職務である。自分で言うのもなんだがそれなりに頭もよく、顔もよく、胸もある。だがそれだけ天賦の才があっても、配属先がこんな上司にさえ恵まれぬ職場であれば天をも恨むものである。彼女は眼鏡を直しつつひとりごちた。

まあ嘆いても始まらない。彼女は机に向かって仕事を再開する。パソコンでエクセルに数値を全角で打ち込んでいく。検算のための電卓を取り出すために引き出しをあさっていると、突如として周囲が騒がしくなった。

 彼女は顔を上げた。そして我が目を疑った。

事務所の入口には彼女の上司である和田が立っていた。服は昨日の昼に出ていったときのままだ。まだ三十歳にはならぬ彼は、高身長に夏でもスーツを纏っている。だが明らかに異様なのは、彼が全身びしょ濡れであることであった。

 旭美幌が絶句していると、先に口を開いたのは和田の方だった。

「いや、留守中は迷惑かけたね」

「迷惑かけたね、じゃないでしょう!」旭は叫んだ「一体どこへ行っていたんですか、その間にどれだけの仕事が……」

「まあまあ」和田は言う「それより、僕あての連絡はあったかな?」

「ありました」旭は腹立たしげに答える「非通知で、相手は名乗りませんでした。今いないと伝えると、承知した、あとでまたかけると」

「ふーん、そうかい、やはりね」何かを納得したように彼は言う「相手は確かに『承知した、あとでまたかける』と言ったわけだね」

「そうですが、それがなにか」

「ときに、美幌くん、二階の金庫は誰も開けていないだろうね」

「えっ」彼女は虚をつかれたような声を出した「あの金庫ですか? あれは、暗証番号は和田さんしか知らないのでは」

「ああ、それならいいよ」そう言うと彼は事務所の二階に上がろうとする。

「ま、待ってください!」

「なにかな?」呼び止めた旭の方を振り向く。

「濡れたまま二階に上がられても困ります。せめてタオルを使ってください」

 そう言うと彼女は、事務所の橋の給湯スペースからいくつかタオルを取り出し渡した。貰い物らしく、農協のロゴマークがはいっていた。

「ああ、これはすまないね」彼はそれで頭を拭くと、やはりズボンの裾から水を滴らせながら階段を登った。呆れたような、そして悲鳴とも取れる声を上げながら、旭はその後を追った。


 消費者庁神山オフィスは、徳島県名西郡神山町に存在する。神山町は四国山地の東端にあり、徳島市の南西、那賀町の東北に位置する。平成末期に消費者庁移転のため建てられた試験用の庁舎は平屋であったが、御代が変わり、消費者庁が内務省の傘下に収まると、一旦凍結されかけていた消費者庁移転案は再稼働され、本格な新たな庁舎が建てられた。前回のプレハブ小屋とはうって変わり、鉄筋コンクリート三階建ての庁舎である。ゆくゆくは消費者庁の全機能を移転すると時の首相は言っていたが、まだ一部機能、「イノベーション創造課」だのいう横文字の実態不明な部署のみが移転してきているだけであった。

 そしてその二階に倉庫があった。川の氾濫を警戒してサーバーや倉庫は二階以上に作られていた。そしてその倉庫の奥に、電子キー式の小さな金庫が床に置かれている。

 和田はしゃがみこんで十桁からなる暗証番号を入力した。Eを押すと解錠される。中にあったのは、小さな封筒であった。中が透けて見えないタイプである。

「なんですか、それ」タオルを抱えてきた旭が聞く。

「指令だよ」彼は言った。確かに封筒には『第二指令 指示あるまで開封禁』とある。いわゆる秘密指令書の類であろう。

「それ、開けるんですか」旭はおずおずと聞いた。

「もちろんだよ」

「でも、開封禁って」

「ああ、さっきのが符号だよ」「『承知した、あとでまたかける』ってのが。普通承知したなんて言うかい?」

 確かにあまり使わない。了解した、のほうが自然だろう。

「でもなんですか符号って。スパイ映画じゃあるまいに」

「これでも僕らは内務省職員だよ。内務省ならそれくらいあってもいいんじゃないかな」そう言いながら彼は封筒を開封した。中からは小さな紙切れが一枚出てきた。それを読んだかれはため息をついた。

「やれやれ」彼は紙をポケットにねじ込むと頭を振る「お上はまともな代案を考えつかなかったらしい。結局は武力頼みか。もっとスマートな手があるだろうに」

「どういう意味ですか?」旭は聞いた。

「おいおい話すよ。手伝いもいることだろうし」彼は立ち上がった「僕は今から着替えてくるから、美幌くんもはやく準備していてくれたまえ」

 旭はキョトンとした。「準備って、なんですか?」

「いまから阿南に出かける。阿南に展開中の、陸上自衛隊第十四旅団と合流する」

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