第1日 8月3日
第1話 剣山
四国剣山は標高一九五五メートル、アルプス以西の西日本では二番目の高さを誇る山である。なだらかな山頂を吹き抜ける涼しげな風はクマザサを揺らし、流れる雲の向こうには、剣山の双子の弟とも称されるジロウギュウがそびえていた。太陽は夏の日差しを照り付けるが、下界とは違い空気は心地よい。
かの年の八月三日、わたしはその頂上に立っていた。正確には、頂上そばの木道に、であるが。
剣山の山頂周囲には木道が張り巡らされている。そして山頂には一等三角点があり、しめ縄がまかれていた。木道のいたるところにベンチが置かれており、座って食事をとったり休憩したりできるようになっている。その他広場もあり、昼食をとっている人も多かった。時間は十二時をすこし過ぎたころである。
登山者の多くは家族連れや数名からなるパーティーである。登山口からリフトで一時間とかからず登頂できる山であるから、老若男女が連れ立って登ってくる。むしろ、私のような単独行が珍しい。
さて、私自身も空腹を覚えていた。周囲を見れば多くの席はそういったパーティーにより占められていた。一つだけ、山頂からやや下ったところにある電波塔付近に、空いているベンチがあった。少しばかり山頂からは距離があったが、私はそこへ移動して腰を下ろした。ザックを下ろし、まず水を飲んでから、コンビニのおにぎりをほおばった。
食事をとりながら今さっき自分が登ってきた方向を見た。山頂ヒュッテと、その隣の岩を御神体とした神社があり、その隙間から登山道が延びている。道は途中で枝分かれして、一方は先ほどまでいた頂上へ、もう一本はこちらへと延びている。
その時、普通の登山者に交じって、やや異質な格好の影が登ってくるのが見えた。
白装束であった。菅傘を被り、金剛杖をついている。首には
珍しい、と私は思った。むろん徳島県内ではお遍路さんはそう珍しくはない。だが剣山で遍路を見るとは思わなかった。まず四国の巡礼道は剣山を通っていないし、むしろ剣山を避けているように思われるからだ。だから、ルートからわざわざ逸脱したこの山を経由するのは、それだけでたいへん珍しいのである。
そしてその影は山頂方向ではなく、こちらへとやってきた。そして再び驚いた。それは、若い女性であった。歳は私と変わらぬくらい、つまり二十歳前後であろうと思われた。背中にはザックを背負い、さらに布で巻かれた、細長いなにかを左脇に抱えている。
ベンチのところまでやってきた彼女は、わたしにこう尋ねた。抑揚の少ない声であった。「ここ、座ってもよいですか?」
私はもちろんですよ、と頷いた。彼女は礼を言うと、まず細長い何か―長さは1メートルほどで、中身は木箱か―をまずベンチの上に下ろした。貴重なものを扱うように、丁寧に、である。それから自身のザックを下ろして、腰をかけると、菅傘を外した。頭にかぶっているバンダナをとると、黒いショートカットの髪が姿をあらわした。やはり年齢は予想通りで間違いなさそうだった。美人というほどではないが、顔立ちは整っている。やや心拍数が上がるのが分かった。
彼女はザックからタッパーを取り出し、その中のおにぎりを食べ始めた。三個ほど食べると、今度はスマートフォンを取り出した。その画面を眺めたとたん、彼女は眉間にしわを寄せた。
「弱りましたね…」彼女はつぶやいた。
ここで全く関係ない他人の言葉として、彼女のつぶやきを無視していれば、この後あのような面倒な事件に巻き込まれることはなかった。冷静になって考えて、遍路装束で剣山に上ってくる女の悩み事が一般的なレベルのものであるわけがない。しかしその時の私にそんなことを知る由もない。それに横でそれなりに綺麗な若い女性が困っているのだ。一般的な男性なら、声をかけるだろう。
「何か困ったことでもあるんですか?」
彼女はまず言葉では答えず、西の空を指さした。目を凝らしてみると、黒い雲が垂れ込めているのが見えた。それを私が確認したと思われる間をあけて、彼女は言った。
「あと一時間足らずで、あの雲はこちらへやってきます。強い雨が降りそうです」
「それは困った、ジロウギュウまで縦走しようと思っていたのに」私は返す「いますぐ下山した方がよさそうですね」
彼女は、はあ、とため息をついて首を左右に振った。
「それが確かにベストなのですが、そうもいかないのです。それでは私の任務が果たせません」それから、彼女は、例の布で包まれた物体に目を落とした。「これを届けなくては」
「届けるって、どこまで行くつもりなんですか?」
今度は彼女はジロウギュウの方を指さした。「あの向こうです」
彼女の話はこうだった。彼女はジロウギュウを超え、剣山系の南へと抜ける。そこで彼女が大事そうに抱えている風呂敷包みの細長い物体を渡すのだという。スーパー林道を通って迎えが来る手はずになっているらしい。
明らかに無茶であった。
雨がひとたび降り出せば、その雨足は強くなるだろう。南剣の登山道は、私が登ってきた見ノ越からの道と比べてほとんど整備されていない。ぬかるんだその道を余計な荷物を抱えて下るのは、どう考えても得策ではない。
その現実を彼女もよくわかっているようだった。それゆえなお彼女は頭を抱えていた。
「今晩、いえ、遅くとも明日朝にはこれは
「丹生谷」
平成の大合併で消えた村の一つであった。県南を流れる那賀川の上流に位置し、林業で栄えた山村である。十年以上前に隣村と合併してから、その名は地図から消えたが、まだその地域をその名で呼ぶ人はいる。なぜなら、昔から旧丹生谷村だけではなく、那賀川上流域を指す名前であったからだ。
そしてそこは、県内でも有数の秘境であった。県下最大のダムや多くの滝、温泉もあり、観光名所にも事欠かない。一度訪れる価値はある。幸い明日も予定はない。
それを考えたとき、自然と言葉が出ていた。その言葉を口にした後、自分も驚いていた。
「よろしければ送っていきましょうか?」
彼女はうつむいていた顔を上げ、目を見開いて私の顔を見据えた。驚いている顔であった。一瞬間をおいて彼女は首を横に振った「いえいえ、そんなわけには…」そう言ってから彼女は再び考え込んだ。「いや、そうしないと間に合わない…」そして再び顔を上げると、こんどは申し訳なさそうに言った。「本当に申し訳ないのですが、言葉に甘えてもいいですか?」
私は首を縦に振った。「お節介かもしれませんが、お接待の一つと思ってください」
私は荷物をまとめると、立ち上がった。彼女も荷物を再びまとめ、菅傘を被ると、ザックを背負い、そして金剛杖を右手に、細長い包みを左脇に抱えた。私はその包みを抱えるのを手伝おうと思ったが、これは大事なものなのでと固辞された。かわりに金剛杖を持つことになった。
そして両手で木箱の包みを抱えた彼女を先導するように、私は山を下って行った。
その時は丹生谷にある天然温泉のことや、翌日雨が上がっていれば増水で勢いを増した滝を見に行くこと、それから宿をどうしようかなどと考えていた。そういえば、車に女性を乗せるのも初めてだったかもしれないな。
全く呑気なものである。このとき丹生谷では、世にも奇妙で摩訶不思議な物語が展開されつつあるとは、この時私は夢にも思っていなかったのだった。
リフトを経由して駐車場に着いた頃には、あたりは雲が立ち込めていた。車に乗り込むと、ぽつぽつと雨が降り始めた。駐車場を出た車は、国道とは名ばかりの一車線の山道を、二時間余りの距離にある山村へと走り始めた。
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