遠き寧日

水樹小夜

遠き寧日

今宵は、そう遠くない未来の話でも語ろうか。





 人々は疲れていた。

 学業、就労、家事、部活、恋愛、人間関係。とにかく疲れやすい時分だった。

 それから不眠の時代だった。人口の半分は入眠困難型不眠症で、四分の一は中途覚醒型不眠症。ほとんどのひとが電子機器によって自律神経を狂わされていた。

 

 皆、疲弊していた。


 ある日、全国統計で小学生の遅刻率が五十パーセントを超えた。

 貧しい世の中、たいていの家庭は双方残業百時間超えの就労者。夕食は深夜が当たり前で、そのせいで就寝も遅い時間だった。到底、朝起きられるはずもない。

 新聞を様々な評論が飛び交った。テレビでは目元に大きな隈を作った専門家が「いいことではありませんね」と欠伸交じりのコメントをした。


 尋常ではないと悟った政府は、急いである政策を推し進めた。

 曰く、「学校や会社の始業を遅らせる」と。

 異例の早さで可決されたそれは、浸透こそ早かったものの効果は薄かった。始業を二時間遅らせた企業は、その分定時も遅らされることになった。学校や店も同じだった。

 いたちごっこのように、人々の時間はずれていった。九時始業だった学校は、十一時に、十三時に、十五時に、十七時に。同時に、終業時間もずれていった。十五時だったものが、十七時に、十九時に、二十一時に、二十三時に。


 人々の疲労は解決されなかった。

 世界は何百年もかけて、夜へと暗転していった。














 随分と時間が経って、社会が完全に暗闇に閉じ込められたころ。

 とある建物の、とある部屋の一角で、拍手が沸き起こった。


「おめでとうございます、実験成功です。おめでとうございます」


 輪の中心にいる少年は何が起こっているかわからないようだった。

 救いを求めるように白衣を引っ張ると、老獪な先生が聴診器で彼の心臓をまさぐった。


「異常はないようだな。きみ、現在の年月日を言えるかね」

「2031年9月7日でしょう?」


 周囲からくすくす笑いが漏れた。先生も思わず笑って、少年の頭を優しく叩いた。

 彼は不思議そうにたくさんの顔を見上げた。


「いまは混乱しているかもしれないが、そのうち鮮明になるだろう。きみはね、コールドスリープの実験に参加したんだよ」

「コールドスリープ……」

「そう、単純な言葉を使えば、一度冷凍した肉体を、元の状態に解凍する実験だ。驚くなかれ、君は1078年の時を超えた」


 少年はぽうっとした頭で記憶の蓋をこじ開けようとしていた。すっかり黄ばんだ紙片の上で自分の署名が踊っていた。ミミズののたくったような字だった。


「ふむ、こうして無事目覚めたのだから、これからのことを考えなくてはね」

「戸籍は作り直した方がいいでしょうね。そもそも残ってないでしょうし」

「しかしこの実験自体が非合法だからね。まかり通るかどうか」

「先の大戦で行政も混乱しましたし、これに乗じない手はないでしょう」

「彼の外見年齢では幼すぎませんか? 戦争終結時に生まれた子でも三十にはなっているはず」

「だがずっと研究室で預かるわけには……」


 彼は少しずつ思い出し始めていた。疲れていたこと、眠たかったこと、身体が重かったこと、もうどうでもいいやと思っていたこと。世界にうんざりしていたこと。

 少年が昔生きていた世界は、既に黄昏だった。小さな、でも大事な歯車が少しずつ欠けていくような先の見えない世界。滅びの只中であれば必死にもがいていただろうが、始まりというのは残酷である。冷静だから、わかる。この衰亡は止められない。

深くて重い無常観が働いて、凋落する世界が嫌になって、飛び出してしまおうと考えたんだっけ。ひとりで? ふたりで? ——思い出せない。


「心配しなくていいよ」


 皆と同じように白衣に身を包んだ若い男が、少年に話しかけた。


「この研究所の人はいろいろな機関にパイプを持ってるからね。あちこちねじこむのはお手のものさ。もし居場所ができなかったら僕のうちに来るといい。僕を含めて六人でシェアハウスしてるんだ。全員男でむさくるしいから、きみが嫌じゃなければ、なんだけどね」


 青年の肌は透き通るように白かった。少年も負けず劣らず白かったが、コールドスリープ後なら当たり前と思われた。少年は男をじっと見つめた。


「僕の顔になにかついてる?」

「ご兄弟、なんですか?」

「え?」

「シェアハウスしてるひと」


 ああ、と青年は得心して浅い首肯を繰り返した。いや、と続ける。


「学生時代の友だちだったり、会社で知り合った人だったり、バラバラだよ。きみは知らないだろうけど、この国も少し前まで長い長い戦争をしていてね。政府から金持ちから下町のおばちゃんまでみーんな悲鳴を上げてるんだ。僕はほら、変な実験に参加して、変なお金もらってるから。だから古ぼけた建物買って、知り合いに格安で貸してる」


 彼はベッドの端に腰かけて、奇妙に乾いた笑声を発した。


「実験体のきみに言うのもなんだけどね、本当に意味のない実験だよ、これは! 社会貢献からは程遠い。金が増えるわけでも、飢えを凌げるわけでもない。でもねえ、このラボは自分勝手の巣窟だからね。やりたいことしかしないのさ」


 部屋の隅では、まだ論議が続いていた。起き抜けの彼には、彼らの輪郭が歪んだり、壁に溶けたりして見えた。近くの声は明瞭に聞こえるのに、遠くの声は潮騒のようだった。


「きみは、どうしてこの時代に目覚めたんだろうね? いや確かに、僕らの技術が安全な解凍にやっと追いついたというのが正答なんだろうけど。僕はどうにもきみがこの時代を選んでやってきたように思えて仕方がないんだよ」


 どうしてだろうねと笑って、欠伸をした。ようく目を凝らしてみれば、目をこすったりうつらうつらと身体を揺らす人が多い。深夜なのだろうかと訝しんだ。


「そういえば、きみが住んでいた頃はまだ昼に社会が回っていたんだろう? 思い出したら教えてよ。まったく想像がつかないんだ。公的な記録は残っていなくてね、全て焼き払われてしまったから。――大戦で、僕らは多くのものを失った。命や、誇り、何かを慈しむ心も。それだけじゃない。芸術品や歴史的建造物や、大量の文献……。でも特に継承されなかったものは、なんだと思う?」

「……わからない」

「一般教養や、常識さ。少なくとも僕はそう思ってる。みんなどこか狂ってるんだ。変形してしまって、戻らない。歪なことにも気づかないで暮らしてる」


 ふと男はこちらを見た。


「きみは僕らの歪曲を直しに来たのかもね?」


 悪い冗談だと口の中で呟いた。目覚めるんじゃなかったと、あの時代に埋もれておくべきだったと強く思った。でも、それも男がカーテンを開けるまでだった。

 少年はうまく動かない身体をめいっぱい動かして、外を見ようとした。男がその様子に気付き、ベッドに小さな角度をつけてくれる。ずっと平面にお行儀良く並んでいた内臓が無理矢理動かされたせいで気持ちが悪かった。さあっと顔面から血が引いて、貧血を起こした。それでも見たかった。千年後の世界。

 灰色で埋め尽くされた工業国だろうか? 天に届きそうな高層ビルの立ち並ぶ、閉塞空間だろうか? 少年は軽い期待を込めて身を乗り出した。

 少年は驚いた。そこは、想像したような最新鋭システムの立ち並ぶ技術王国ではなかった。

 むしろどこまでも逆を行っていた。

 窓の外は、一面の緑だった。


「ここも百年前は戦場だったそうだよ。どうにか退けたらしいけど。僕たち、完全に夜に引きこもるようになっちゃったからね、整備も進まなくて。のびのびあるがまま、って感じだろう?」


 少年は完全に目を奪われていた。もはや彼の生きた時代は欠片も存在していなかった。いっそすがすがしいまでの後退。発展とは真逆を突き進んだ世界。

 頼んで、窓を開けてもらった。朝なのだろう。柔らかい光とともに暖かい風が吹き込んできた。それは、彼の知る春に似ていた。


「きみは、眩しくないんだね。僕なんかはとてもとても……。でも、不思議だよね。たまにね、残業が日没までかかって、夜をまるまる寝て過ごすことがあるんだけど……朝、起きるとすごく身体が軽いんだ。これも太陽のおかげなのかな。ねえきみ、何か知らない?」


 少年はうつむいた。一見男の質問に対する答えを練っているように見えたが、そうではなかった。彼は感慨を覚えて震えていた。この世界に教えるべきことが多すぎる。荷が重い。どうして人間は忘れてしまうのか。公園の木漏れ日も雨上がりの虹も立ち昇る入道雲も、この時代の人間が思う何よりも大切なことだったのに。

 男は眉尻を下げて笑った。千年前に生まれた真っ白な少年は、男が出会ってきた誰よりも人間らしい気がした。


「じゃ、僕はこのへんで失礼するね。気が向いたらいつでも話しかけてよ。そのボタンを押せば大抵は僕に繋がるからさ」


 すでに他の面々は部屋を退出していた。男は頭をかきながら欠伸をして、ゆっくりと去っていった。

 少年はひとりぼっちになってしまった。


(あのとき、僕が生きていた時代に僕が何かしていれば、世界は荒廃の道を辿らなかったのだろうか。いや、そうは思えない。全く思えない。

 だからといって全く責任がないなどと、どうして言い切れようか。方法がわからなかった、できなかったと後で言い募ることはできる。だが本当に何もできなかったのだろうか? 努力せず、しかも知ろうともしなかった人間がなぜそのように言い切れるだろう。

 いや、もはや既往は咎めまい。いまは先を考えよう。僕にできることをしよう)


 それが自分に出来る精一杯の贖罪であると、彼にはわかっていたのだ。

 自身の肉体が、目覚める前から。


 窓辺で鳥が鳴いていた。

 それは、自分の前いた時代と同じ姿かたちをしていたから、少年は少し安心して息を吐いて、俯いた。




 彼の流したひとしずくが、過ぎ去った世界へ手向けられた音がした。

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遠き寧日 水樹小夜 @sayo_mzky7

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