幕間 魔法使い

 ───冗談じゃない。


 血糊にぬめるナイフを、無意識のうちにシースに押し込んで、男は踵を返した。

 たった今、彼が手を下した……二十年にも渡る相棒であった、床に転がる相手を一顧だにせず、走り出す。

 よりにもよって彼らが詰めていたのは、本宮の左翼の端、それも二階の最も奥の『保管室』だ。誰よりも真っ先に───もちろん事ここに至っては、死にかけの、もはや異邦人のことなど、誰ひとり思い出しもしないだろうが───辿り着かねばならない奥の棟の一室までは、どんなに急いでも十五分はかかる。


 ───早すぎる!


 弛みひとつない深紅のカーペットに覆われた階段を、飛ぶように駆け降りながら、男は奥歯を軋ませた。

『聖櫃』である男と常に行動を共にしている少年が、今次の生贄サクリファイスである少女を連れ去って、同胞達の目から逃れたのは、今朝───夜明け前のことだ。

 まだ一日と経ってはいない。

 相手は、年端もいかない子供ふたり。

 おそらくは行動の主軸を担っていたであろう男を失って、混乱のまましばらくは身を潜めているだろうと……圧倒的に不利な状況を前に途方に暮れるしかない、無力化された駒に過ぎないだろうと、ひとまず放置していたというのに。


 手を打ってくるのが、早すぎる。

 切り込んでくる手際に、躊躇いが無さすぎる。


 S機関の捜索部隊……モスキートの欠片であるセンサーを身に付けた第二課の達が騒然と動き出した時、彼は、まさかと思ったのだ。

 生贄の少女の反応が、こんなにも早く現れるなど、予想外もいいところだったからだ。


 つまりは。

『聖櫃』の付属物───少なくとも『聖櫃』本人に比べれば、取るに足らないと見做されていた少年が、敵方である男達に有利なまま次の状況に移ることを看過するどころか、反撃に出たのだと。

 生贄を連行してきたキャシディ班の男達が、その足で『武器庫』に入っていくのを目撃した男は、嫌でも悟らざるを得なかったのである。


 橋梁からのゲートのみが唯一の進入口であるこのセイングラディード島において、『武器庫』が通常点検の時以外に開けられることは、まず無い。

 彼らが常に身に携える銃は、もとより論外ではあるが。

『武器庫』に格納されているのは、大規模な作戦行動時───対テロ作戦時や要人救出時など、言うなればの使用を想定した、機動性に重点を置く重火器類ばかりである。

 トゥームセラという国そのものを守る軍隊とは別に、特に王室を守護するための特殊部隊という顔をも併せ持つセオドア機関だからこその装備は、しかし入念なメンテナンスこそ繰り返されてはいるものの、実戦に使用されたことは、現在まで一度もなかった。

 もとより、未明の追跡劇がそうであったように、王家の有事に際した事案でない限り、S機関の作戦行動は本来秘密裏に遂行されるものなのだ。市街戦を想定したうえで格納されている重火器に、その出番があるはずもない。

 ましてや、生贄を確保した現在、その『武器庫』にキャシディ班の男達が入室する道理などあるはずもなかったのである。


 彼らが重火器を抱えて出てくるのを見届けるまでもなく、彼らかつての同僚達がすでに少年の傀儡に成り果てていると、男には明白だったのだ。


「───おい、おまえら何をしている?」

 男と共に『保管室』を出て彼らと遭遇した相棒が、無表情に『武器庫』の認証キーを打ち込むキャシディに声をあげる。

 その声に男は、刹那とはいえ己が呆然と自失していたことに気付いた。

 冷静に、反射的に状況を分析する『一族コルドゥーン』のとは別に、不意を突かれた男自身の意識がやっと動き出す。

 それは、衝撃にも似た痛切な認識に撃ち抜かれることと、ほぼ同義だった。


 己が後手に回っている、と。


「おい⁉」

 呼びかけに応じないどころか、膨れ上がっていく相棒の不審な気配にさえ全く無反応に、『武器庫』の扉を開けてキャシディが室内に踏み込んでいく。

 まるで押し込むようにそれに続く男達に、さすがに異常を感じたのだろう。相棒が、ポケットから緊急用インカムを掴み出す。


 ───冗談じゃない。


 考えるまでもなかった。

 今にも指令室に通信を入れようとする相棒に、足早に歩み寄るなり、男はナイフを抜き払う。

 そして、全く無防備に晒されているその背中を、躊躇いなく突き刺した。

 間髪入れず、その柄を握る手首を返す。

 肉を、内臓を貫いた刃が、生きた肉体を絡み付かせながら捩じられた。


 呻き声ひとつ、相棒はあげなかった。

 ただ押し込まれた凶器の勢いに反り返った背の上で、奇妙なほどゆっくりとその首が巡らされるのを、男は見た。

 愕然と見開かれた瞳。声もなく開かれた口。

 何が起こったのか理解出来ないまま、ただ、おそらくは灼熱にも似た激痛を自らに与えたその元凶を、反射的に振り返った。そんな見慣れた、死を目前にした者の姿を、男は感慨もなく見据える。

 インカムが転がり落ちた床に、二十年もの間、常に最も近くにいた相棒めくらましが崩れ落ちた。


 それを一瞥する必要さえ感じず、そして男は、事態が動き出す前にひとつでも多くの手を打つために駆け出したのである。

 指令部は、この島に駐屯する機関の人間達は、まだ誰も異変に気付いていない。

 混乱が起こる前に───無作為の邪魔者が溢れ、行動の自由が取れなくなる前に、『聖櫃』を確保し、この島を脱出する必要があった。


 少年の傀儡と化したキャシディ達が、『武器庫』から大量の火器───それは、グレネードランチャーを始めとした対建築物用のそれをも、もちろん含んでいるだろう───を持ち出すとすれば。

 それは陽動も兼ねた、の足止めのために他ならない。しかし、子供ふたりという圧倒的に不利な状況にある以上、足止めを足止めのままで済ませるとは思えなかった。

『聖櫃』と共に、あらゆる陣営コルドゥーンと渡り合ってきた少年だ。

『聖櫃』を取り戻すことを第一に考えるとするなら、足止めなどという対処で済ませるほど甘くはないだろう。

 だとすれば。

 傀儡達を操っての重火器の使用───足止めどころか、少年がS機関そのものの殲滅さえ視野に入れていたとしても、何ら不思議はない。


 ───冗談じゃない。


 それは、この二十年にも及ぶ男の野望が、根こそぎ断たれることを意味していたのだ。




奇跡モスキート』。

 それは長い間、彼ら『一族』にとっては秘蔵されていた文献でのみ、その名を知られた存在だった。

 我が身に宿る魔力を、如何にして自らの意志の下に即した能力として変成、構築させるか。太古の昔、多くの先人達がそのすべを求めて、求道の旅に出たと文献には記されている。

 ある者は、人里離れた深い森の奥へ。

 またある者は、獣すら近寄らぬ険しい山の頂へ。

 常に霧に覆われた湖。

 死の横たわる砂漠。

 あらゆる前人未到の秘境、聖域へと彼らは分け入り、世界と響き合う自らの異能の探求に、その身を捧げて命懸けの旅を続けていった、と。

 それは伝説などではなく、まさに記録として『一族』に残されたものだったのである。


 その中に。

 ごく稀に、と遭遇した者達がいたことが、明記されていた。

 荒野を彷徨うナザレの救世主の前に、悪魔が現れたように。

 まるでそうなることが必然であったかのように、余人の存在せぬ秘された地で、彼らはと対面した。その記録が、少なからぬ紙面を割いて記されていたのである。


 がどのような存在であり、彼らが如何なる秘術をもって、それをのか。

 しかし、それについては文献は何も語らない。


 死闘の果てに、隷属させたのか。

 己がと魔力の全てをかけて、その身に呑み込んだのか。

 あるいは契約という形での共存であったのか。


 ───ただ、を自らの支配下に置いた者達が、例外なく偉大な『大師父』として名を成したことだけが、今も揺るぎない事実として残るばかりなのだった。


 その影に、『奇跡』を御すること能わず、敗れた数多の骸があることを暗に示唆しながら。


 そして。

 文献は、その後の経緯れきしこそを最も重要なものとして、彼ら一族に伝えている。

 かつての『大師父』達のいずれもが、死の間際、持てる力の全てを振り絞って、己の一部とも言える生涯に亘って使役してきた『奇跡』を封印し、一族に残して逝ったことをだ。


 厳重にも厳重を重ね、『奇跡』を封印した『聖櫃』───『一族』の間ではそのものを意味する───を見た者はいない。『聖櫃』が秘匿された場所は、代々の師父のみに口伝され、『一族』の者であれど、その所在が不明だからである。

 それは『一族』であっても、並みの者には触れることさえ叶わぬ強い魔力に守られた代物であると、警告を兼ねた伝承として伝わるばかりだったのだ。


 ───それを手にすることさえ出来れば、己が能力ちからを極めることが出来ようと言うのに……!


 この世界に、人は増え過ぎた。

『奇跡』が聖域は失われ、あるいは、人々の生活するその陰に完全に埋没してしまった。

 いかな魔力を持つ『一族』といえど、『奇跡』と巡り合う機会など、もはや万に一つもない。

 ない、はずだった。


 しかし、男は……この現代に生を受けたコルドゥーン達は、慮外の幸運に恵まれることになったのである。

 男が生まれる二年ほど前に、複数の陣営コルドゥーン間で起こった闘争において、ある陣営の『聖櫃』が開放されたのだ。


 諸国が、それぞれ互いへの抑止力として核を保有するように。各陣営にもは別としても、それぞれに先人達の残した『奇跡』が保持、秘匿されている。

 それがどのような経緯で持ち出されたのかは不明だが、そのひとつの封印が解かれ、数多の『奇跡』が世界に散らばるという事態が起こったのだ。


 誰の支配下にも置かれていない『奇跡ちから』が、解き放たれる。

 それはいずれの陣営にとっても、千載一遇にも等しい、まさに奇跡のような僥倖であることに違いがなかった。


 即座に、世界のありとあらゆる場所へと、彼らの追跡が始まった。

 まさに、砂の山から一粒の砂を見つけ出すにも似た、困難な探索である。しかし、得るものの巨大さを思えば、どれほどにも彼らは執拗になれる。

 それはであると同時に、コルドゥーンであることのさがであるからだ。


 誰よりも己が頭抜けていることを自負し、またそれだけの結果を出すための努力を惜しまない……言い換えれば手段を選ばない。組織そのものに齎す以前に、己自身がその力を得ようとする、貪欲な魔力ちからの信奉者。

『奇跡』を手に入れるという野望に飛びつかずにはいられない───そもそも己こそがそれを持つに相応しいと確信している、そんな者達なのだから。


 四十年以上にも亘る探索は、今も熾烈を極めている。

 たった一瞬の、星の瞬きにも似た波動てがかりを求めて、ありとあらゆる陣営で、長い年月と大勢の人員が費やされているのだ。

 それでも、その程度で、『奇跡』を発見出来るのなら、それは稀に見る幸運と言えよう。


 そして、探索が始まって間もなく十年が経とうという頃、遂にここトゥームセラで波動を掴んだ男の陣営は、まさにその奇跡そのものという幸運を手にしたのだった。


 間髪を入れず『一族』は、あらゆる公的な記録を抹消し身許を改竄したひとりの同胞を、トゥームセラに送り込んだ。

 同時に、『奇跡』の痕跡を敵手ライバルの目から攪乱すべく、時にデコイを仕掛け、時に偽の情報を流した。それでも肉薄してくるような相手は、その都度、密かに排除し続けた。

 そうして際限のない暗闘を繰り返しながら、送り込んだ同胞がトゥームセラの手から『奇跡』を奪取するその時を、ひたすらに待ち続けたのである。


 男の前任者である同胞は、五年近い歳月をかけて政府機関の奥へと潜り込み、着実にを重ねて、やがてS機関に就任するに値する立場を手に入れた。

 ここまでに、さらに三年がかかっている。

 つまり彼は……『一族』は、八年という時間の果てに、ようやく『奇跡』の足元に辿り着いたのである。


 しかし───ついに同胞は、その捕獲を成し遂げることなく、退くことになった。


 定年を迎えたため、機関を退いたことになっているその彼と、入れ替わるように、男はトゥームセラにやって来た。そして、前任者の係累という触れ込みで、S機関に潜入したのである。


 ───やがて、十年以上もの間S機関という『奇跡』のに潜り込んでいながら、前任者が任務を果たせずに終わったその理由を、男もまた思い知らされることになったのだ。


 自負ばかりでなく事実として、『奇跡』の奪取を任せられる程に、若い頃から男は───おそらくは前任者も───『一族』の中でも指折りの実力者だった。

 その彼らをして、否、彼らだからこそその存在に近付くほどに、『奇跡』に挑むことがいかに無謀であるかを、本能的に理解してしまったのだ。

 例えるなら、血に飢え牙を剥く獣……それも、絶対的に彼我の力の差がある対手を前に、無手で対峙しているようなものだった。

 休眠し、クリスタルガラスの美しい器物の内に状態でさえ、『奇跡』の力は、油断すれば男の心臓を圧し潰しかねない程の圧力として感じられる程のものなのだ。

 ましてや生贄を貪る数カ月もの間、無作為に放たれる力の余波は、何も感じ取れない人間を思わず羨んでしまうほどに───男の心胆を寒からしめた。

 その波動に潜む狂おしい程にが、あまりにも激しいものであるのだから尚更だ。


 おそらくカテゴリーとしては、人間とはやはり違うだろう彼ら『一族』といえど、その意識りせい感情こころは、人間のそれに準ずるだろう。人間に限りなく近い、それでも全く違う存在。それが、彼らコルドゥーンなのである。

 翻って鑑みれば、『奇跡』───その正体も性質も、組成すら不明でありながら強大な力は、まったく別次元の存在なのだ。

 長い間、それに意志があるのかどうかすら同胞達の間では意見が分かれていたほどの、言うなれば架空のそれと紙一重の存在。『大師父』達の記録がなければ、実在に疑惑を持たれても不思議はないそれを……彼らの認識で計ること自体が無謀なのかもしれない。

 気候や地盤というこの世界のをすら、意のままに捻じ曲げる。天災さえ契約者の要求通りに簡単に起こしてみせたを、人間の尺度、あるいはコルドゥーンの尺度で計ることは確かに無意味だろう。


 しかし。

 全く理解出来ないはずのは、それでも確かにを持っている。

 そう、男は確信していた。


 何故なら、取り違える疑いすら持てぬ程に強烈なその気配に、二十年もの間、男はその身を晒し続けてきたからだ。

 強烈で単純な……否、単純であるからこそ恐ろしい、ただひとつの意志。


 ただひたすらに人を───捕食対象を渇望する、激しい、それは気配だった。


 S機関……『奇跡』のは、思いもしないだろう。生贄に向けられているその意志が、その実、周りを固めている自分達自身にさえ同等に向けられている、などと。

 生贄の子供を貪り食いながら、常に飢えた眼差しがこちらを見据えている。

 油断すれば、おそらく簡単に休眠場所から這い出し、襲い掛かってくるだろう血に飢えた化け物を、男は幻視せずにはいられなかった。


『奇跡』が、男を認識しているかどうかはわからないが……おそらくそれは、男の思い込みばかりではない。


 圧倒的なまでの力と、永遠に理解することが出来ないだろう激しい意志を併せ持つ、怪物。何らかのリアクションを取るではないが、確かに男を───おそらくは、前任者をも───見据えている対手を前にして彼に出来ることは、いつでも攻撃に転じる用意を怠らないまま、細心の注意を払い、その隙を伺うことだけだった。


 かつての『大師父』達が対峙した時も、これほどに攻撃的だったのか。そうであったなら、どうやってを下したのか。


 改めて先人達の偉業に畏怖を感じながら、まさに比喩ではなく、食うか食われるかという、密やかでいながら張り詰めた対峙を男は続けていたのである。


 容易く屈服させることが出来る存在ではない。

 それどころか、僅かな油断を見せただけで、こちらがことは明らかだ。


 それでも、だからと言って『奇跡』を手に入れることを諦めるわけにはいかなかった。


 それが『一族』の意向だからだ。

 他の陣営との勢力争い……生存競争に、一歩でも遅れを取らないための、それは必須条件なのだ。

 ましてや、それ以前に男はコルドゥーン───自らが生まれ持った魔力ちからを、そのまま持ち腐れにするようなとは無縁な、魔法使いである。

 目の前にその最大のがある以上、たとえ己が生死を賭けることになろうと、退くつもりなど毛頭ない。

 現に、それを成し遂げた者達がいるのだ。彼にそれが出来ないなど、許せることではなかった。


『一族』、そして何より男自身がだ。


 しかし、下手を打つことは男自身の死と、敵手である他の陣営が介入する余地を許すことを意味していた。

 現実にはS機関の一員として、数多の子供達を生贄に送り込む任務を無感動にこなしながら、水面下で、男は慎重に『奇跡』に対する攻撃の機会を虎視眈々と狙い続けていたのである。




 二十年にも亘る強い緊張感に縛られた膠着状態は、けれど、全く意外な展開を迎えることになった。


 世界中に散った『奇跡』とは別に、たったひとり『奇跡』と同化した男がいることは、コルドゥーンの間では有名な話だった。

 かつての『大師父』達の明確な記録がない以上、コルドゥーンではない、ただの人間に過ぎないその男の状況が、彼らのそれと同じものであるのかは、わからない。

 しかし現代で唯一、その男だけが個人で『奇跡』をことだけは、事実だった。

 しかも四十年もの間眠り続けていたという男───『奇跡』をその身に封印した彼もまた、コルドゥーンの間では『聖櫃』と呼ばれる───は、眠りから覚めるなり、瞬く間に、幾つもの『奇跡』を見つけ出し、捕獲しているというのだ。

 トゥームセラの『奇跡』を、『一族』でも最も優秀な男、そして前任者のふたりがかりで四十年以上をかけても、未だ捕獲出来ていないというのに、だ。

 おそらくは他の、幸運にも『奇跡』を発見出来た陣営も、似たようなものだろう。

 その一点のみでも、『聖櫃』の特異性と貴重性は群を抜いていた。


 目覚めて以降、騙されているのか、あるいは自らの意志なのかは不明だが、『聖櫃』は某陣営にその身を預けてはいる。

 だが、実のところ、彼はコルドゥーンとしての契約……血と肉とを交わすそれを、彼の庇護組織と結んではいない。それは調べるまでもない、周知の事実だ。

 相手はただの人間なのだから、当然の話だった。


 つまりは。

 現時点において、かの陣営に『聖櫃』を縛る力は無いのだ。

『聖櫃』の体内に封印された『奇跡』は、未だ

 どの陣営であれ、世界中に散った『奇跡』と同様、彼を奪い取り、己が勢力、己が武力と成すことは未だ可能なのである。


『聖櫃』の覚醒が確認されてから、男の陣営は───おそらくは、他の陣営と同様に───『奇跡』を探す任務を任されているグループの他に、『聖櫃』を追跡し捕獲する任務を負う者達を選出した。


 その生死は問わない。

 生きたまま『聖櫃』を捕獲し、更なる『奇跡』の蒐集に利用することがベストではあるが、現時点でも、彼は複数の『奇跡』をその身に封じている。

 下手にとしての『聖櫃』を捕らえ、後々、他の陣営に奪われる恐れがあるよりは、いっそ殺してしまった方がいいというのが、師父達の本質的な総意なのは想像が付く。

 必要なのは、『奇跡』を宿したその身柄だけなのだから、当然だ。殺した後に、正真正銘の『聖櫃』として、完全に『一族』のものにするのが最良策だと、男でさえそう思うのだから、師父達にしても推して知るべしだろう。


 以降、神出鬼没と言うに相応しいを追って、追跡者である同胞達は世界中を駆け巡り続けているのである。


 その『聖櫃』がこのトゥームセラに向かっている、と通告してきたのは、もちろん、彼らだった。

 正確には、彼らが張った罠によって『聖櫃』を引き摺り出すことに成功したという、説明を兼ねた事後報告である。

 前回の生贄と引き換えに発動した『奇跡』の力、その波動を、彼らがさせ、故意に目に付くように細工をしていたという事実を、この時になって初めて男は知らされた。


『聖櫃』もまた『奇跡』を追って動いているのであるなら、必ずそれに喰い付くはずだという狙いは的中し、『聖櫃』とそのである子供の動向を、初めて同胞達は掴むことに成功したのである。


 同胞達がS機関に詰めていた男に無断で、彼の管轄下にある『奇跡』の、欠片であれその力を利用したことについては、特に感慨はなかった。

 もとより単独行動が本領である魔法使いコルドゥーン同士だ。

 同じ任務を請け負う者同士であるならば、かろうじて連携を取るぐらいはするだろう。しかし、同じ陣営に属していようとそれ以外の者に、わざわざ断りを入れる義理も義務も感じるような者は、もとより存在しない。

 もちろん、男自身もそれは同じだ。

 同胞達が何をしようと、彼には関係が無かった。


 ただし、彼の任務を邪魔するような真似をするのなら……今回のように、漏れ出す力の余波ぐらいならともかく、こちらの任務の領域にあるものに介入しようというのなら、ただで済ますつもりはない。

 互いの領域を侵すことは、万死に値する。

 それが、コルドゥーンの不文律だからである。


 そしてその不文律ゆえに、今や状況は、男のコントロール下に収まっている。

同胞達が作戦に失敗して、取り逃がす羽目になった対象おとこ。意図せずこちらに転がり込んできた『聖櫃』は、今や彼ひとりだけの獲物となっていたのだ。


 拮抗し、膠着状態に陥った未明の闘争は、ほぼ同時に手を引いた両陣営の動きによって、終結した。

 完全に互いの魔力せんりょくが拮抗してしまった場合、そのバランスを崩そうと試みる側が敗北を喫するのは、常識だ。膠着状態からの無理な働きかけは、どうしたところで自軍に隙を作り出す。のまま動けない状態の、その何処かが微かにでも動いた瞬間、反射的とも言える攻撃がそこに集中するだろう。

 反撃に転じられればいい。

 しかし、もとより拮抗していたからこその膠着状態だ。一度不利に傾いたバランスを立て直すことは、不可能に近い。それは、そのまま自陣営の瓦解へと繋がりかねなかった。


 それを理解しているからこそ、どちらも下手に動くことが出来ないのだ。


 将棋ゲームであれば千人手として、永遠に終わりの来ない袋小路に陥ればそれで済むだろうが、魔法使いの闘争はどちらかが完全に滅するまで終わらない。それこそ、最後のひとりになるまで、だ。


 ───決死の覚悟を持って敵手あいてを滅ぼすのは、今ではない。


 それは、敵陣営も同様だったのだろう。

 あちらにしてみれば、『聖櫃』を奪われるような事態を阻止出来ればいいのであって、最終決戦に臨みたいわけではないだろうからだ。

 互いに睨み合い、警戒を緩めないまま、それでも同胞達が引く気配を見せたことで、同時に、あちらも速やかに矛先を収めたのだろう。

 戦場を目にしていないにも関わらず、それを男は確信していた。


 もちろん同胞達にしてみれば、S機関に潜伏している彼という伏せ札があるからこその、撤退だった。

 いかに同胞達が、本来の目的である『聖櫃』の捕獲に固執しようとも、壊滅の恐れを押してまでも強行したところで、『聖櫃』を獲得出来る確率が低いのであれば意味はない。

 ならば、男に漁夫の利を与えることになろうと、甘んじて受けるだけの割り切りを選んだだろうことは、明白だった。


 街の住人を人質に取るという手段をもって、ようやく『聖櫃』を叩きのめすことに成功したのだ。

 この機会を逃せば、おそらく次はない。

『一族』の切望する『奇跡』を、奪取出来ない。───自らに与えられた任務を、ことが出来ない。

 だからこその、割り切りだ。


 ───唯一、不審であることは。

 状況上は不自然なことではないが、敵陣営もまた、『聖櫃』を回収する素振りもなく速やかに撤退したことだった。

 確かに、互いに睨み合っている状況で『聖櫃』に近付こうものなら、さすがに同胞達も決死の攻撃を仕掛けざるを得なかっただろう。の火蓋が、切って落とされていたはずだった。

 最悪の事態を回避するためとはいえ、両陣営は、彼らの包囲網の中央に倒れている『聖櫃』に、どちらも接触しないまま戦場を立ち去ったのだ。


 追跡部隊ではないが『聖櫃』を回収する可能性が高いことぐらい、わかりきっているだろうに。


 それとも。

『一族』のもとに即座に彼が連行されることさえなければ、何らかの勝算があるとでもいうのだろうか。


 だとしたら、随分と馬鹿にされたものだ。

『一族』の下を離れ、ひとり密かに潜伏しているとはいえ───『奇跡』を相手に、睨み合う日々を続けているとはいえ、男は己の実力を過信も見縊りもしていない。

 同胞達が、男に後を任せて撤退出来る……それに応えるだけの実力は持ち合わせている。

 彼自身の矜持にかけても、『聖櫃』は捕獲する。


 そして、この万に一つの僥倖を無駄にするつもりはなかった。

 偶然とはいえ、彼の下に転がり込んできた『聖櫃』───この二十年、手を出すことさえ出来なかったこの国の『奇跡』を遥かに凌駕する、まさに奇跡にも等しい『聖櫃えもの』を、何としてでも手に入れる。

 そうして、初めて男は新たなる境地に降り立つことが出来るだろう。

 かつての『大師父』達と同じように、自らの神髄を極め、強大な力をその身に纏う特異な存在となって。───彼自身の姿を手に入れるのだ。

 それこそが、人生を賭けて男が目指してきた目的りそうなのだから。


 そして、隠蔽と調査の目的で出動したS機関の一員として、男は未明のへと向かったのである。


 複数の魔力が激突した爆発的なその波動は、セイングラディード島に詰めていた男にさえ叩きつけられるほどのものだった。だから、戦場となった高層住宅街の惨状を目にしても、さほど驚きを感じはしなかった。

 それよりも。


 目の前に運び込まれてきた男こそが、彼にとっては衝撃だったのだ。


 二十代後半にしか見えない……彼から見れば、まだ青年の域にある男は、まさに死にかけていた。

 抉られた腹部から噴出したであろう血で全身を染め、土埃と数え切れない傷に彩られた肌は対照的に青白い。四肢は有り得ない方向に折れ、頭部が無事であることが、いっそ不自然な程だった。

 今にも止まるのでは、と思わせる虫の息に、微かに体が揺れている。もはや痙攣を起こす段階をも過ぎていることは明白だった。


 魔力の欠片も、『奇跡』の力の波動も、何もない。

 ただの、死にかけた、人間だった。


 証拠隠滅と生贄の行方を知る手掛かりとするためと称して、『聖櫃』を回収することを指示され───もちろん、機関の上層部の人間でもない彼にそれを命じられたことなど、既に全く覚えてはいない───現場の男達が確保してきた人間は、この青年だけだった。


 未明の戦闘だ。

 人質とされていた住民は、全て建物の中にいた。また、大々的な集団戦であるなら尚更、コルドゥーンは戦死者、負傷者を残さない。───完全に始末する。

 生死の別に係わらず、この戦場跡に残されている者がいるとすれば、それは『聖櫃』である男だけなのは、自明の理だ。


 それでも、男は一瞬の動揺を隠せなかった。

 あらゆる陣営が血眼になって探している『聖櫃』だ。どれほどにを滲ませているかと、身構えていたというのに。


 もちろん、人違いなどではない。

 どう見ても、あからさまに攻撃対象とされた……集中的な魔力による損傷によってズタズタにされた肉体だ。何より、この状態で生きているという異常を鑑みれば、この青年がただの人間であるはずがない。


 目の前の瀕死の青年こそが、他ならぬ『聖櫃』なのだと、認めざるを得なかった。

 認識を呑み込んでしまいさえすれば、本能的に、頭は情報を浚い出す。


 目が覚めて以来、この青年がになったことはなかった。彼が常に、己が自由意志のままに動いているというのは、良く知られている。

 現代に甦った『奇跡』の話だ。完全に情報をシャットアウトすることは難しい。水面下で絡まるあらゆる利害によって、情報はそれなりにリークされるからだ。

 いずれにせよ、この青年は何らかの方法で『奇跡』をその体内に抑え込んでいるのだろう。それが、どのようなものであるのかは不明だが、死にかけ、意識不明の現在でさえ、未だその箍が外れてはいない。

 、その体内に封じられている『奇跡』は、今なお青年の代わりに表層に現れることもなく、その力の片鱗さえ滲ませることがない。


 この状態のままなら。

 セイングラディード島に連行しても、この国の『奇跡あるじ』に恐れはない。

 そして何よりも、今ならば然したる抵抗を受けずに、男がこの青年の中の『奇跡』を手に入れることが出来るはずだ。


 即座に判断を下すと、男は、死にかけている青年を怪しまれないよう医療機械に繋いで、セイングラディード島に連れ帰ったのである。

 ひとまず青年を離宮の一室に監禁し、機関の人間達に余計な疑惑を持たれぬよう、何食わぬ顔で通常業務に就く。島中の監視の目をどうにかやり過ごしさえすれば、この閉鎖された場所で、男の邪魔をする者はない。

 この青年にための算段を早急に立てるつもりだった。


 は、男が二十年にも渡って窺い続けてきた千載一遇の機会チャンスなのだ。何者にであれ、今、足を引っ張られるわけにはいかない。

 上手くすれば、青年の中の『奇跡』を使って、長年の対峙者きせきをも手に入れられるだろう。

 やっと掴んだ好機を前に、男は高揚する自らを懸命に冷静な表情の下に押し込んでいたのである。


 ───早すぎる!


 あれから、まだ半日だ。

 それなのに、事態は男の予測を大きくたがえて動き出してしまった。


 修行時代に鍛えた足腰は、決して若いとは言い難い男を、年齢に見合わぬ俊敏さで走らせた。全力で本宮を駆け抜ける彼を、偶然出くわした男達が驚いて見送るのが、視界の隅に映る。

 何も感じない人間に、今は構ってなどいられなかった。


『礼拝堂』の方向から、異端の力が沸き上がる気配が伝わってくる。

『奇跡』が生贄の少女を捉えたのだ。

 ならば。

 少年が───おそらく、すでにこの島に侵入していることを男は確信していた───動き出す……!


 ───早すぎる!


 中庭へと出る本宮の出入り口を飛び出した瞬間だった。

 背後で突然、複数の銃が乱射される、豪雨のような銃声が響いた。

 間髪を入れず、爆発音が轟く。

 突き上げるような揺れが、男の足を掬う。

 転倒せずに済んだのは、偏に予測していたからだ。


 少年の傀儡と化したキャシディ班の男達が、足止めと称したS機関の人間達の虐殺を始めたのだ、と。


 飛び出してきた本宮から、絶え間ない銃声と爆発音、倒壊する建物の重い振動が迫って来る。それに紛れるように、尋常ならざる状況に陥った人間特有の声も、不協和音となって耳に届く。

 跳ねるように揺れる大地に足を取られそうになりながら、男は、あっという間に噴き出した戦場の殺戮の響きに、振り向くことなく中庭を疾走した。

 焦げ臭い煙が、大気の中に混じり込んでいる。

 勃発した戦闘に伴う混乱が未だここまで届かないとはいえ、急がねばならなかった。


 生贄の少女と、おそらくは共にいるだろう少年が、『奇跡』の手から逃れることは難しいだろう。

 だが傀儡共が、彼の邪魔をしに来る可能性は高い。

 青年を、封印された『奇跡』を、早急に手に入れて───この島を脱出しなければならない。


 競技場並みに広い幾何学模様に整えられた植え込みを回り込み、幾つもの回廊を駆け抜ける。

 度重なる強い振動に、回廊の柱が軋みをあげる。

 支えられた天井から、パラパラと早くも砕け落ち始めた欠片が降ってくる。


 息を弾ませ、その下を駆けてきた男の足が、突然止まった。

 それは───本能的な体の反応だった。事実、男は己が何故足を止めたのか、一瞬理解出来なかったのだ。

 体の勝手な反応に思わずつんのめった男は、そして、初めて前方の異常に気が付いた。


 回廊の先、離宮の壁に体を預けるようにしながら、こちらに進んでくる者がいる。

 もはや服の体裁すら保っていない赤く染まったシャツの残骸を纏い、申し訳程度に拭われた傷だらけの胸を晒している。そのところどころに巻かれた包帯の白さとよく似た、血の気の失せた全身は、まさに幽鬼のようだ。

 生きた屍。

 そうと称するのが最も相応しい、けれど男が足を止めたのは、その姿ゆえではなかった。


 宵闇が灰青色に大気を染め始めている時間だった。

 けれど、もちろんセイングラディード島に唯一威容を構える広大な宮殿に、灯りが点らないはずはない。古風な宮殿は、しかし、最新式の照明によって白く眩い光に照らし出されている。それは、回廊および離宮に至っても同じことだ。


 その、あらゆる事物の輪郭を明確に描き出す白い光の下で、ずるり、ずるり、と壁に凭れかかりながら歩を進めてくるのは……間違いなく、『聖櫃』である青年だった。

 死にかけた、ただの人間であったはずの───。


 知らず息を呑んだ男の全身が、硬直する。

 屍が動く程度、コルドゥーンである男にとっては、どうということではない。

 凄惨な暴力の末に惨たらしく破壊された人間の姿とて、今さら心を動かすようなものではない。

 男が戦慄したのは、大柄な青年の存在そのものだった。


 歪んでいた。

 青年の周りだけ、が歪んでいたのだ。

 青年の周りを、否、青年自身を昏い闇が縁取っていた。それが、男のコルドゥーンである目だからこそ見えるのか、ただの人間にも見えるものかは、わからない。揺らぐ紅炎プロミネンスのように、のたうつ蛇の群れのように、無数の闇の穂末が揺らぎ、靡き、蠢いていた。

 照明の白い光も、宵闇の灰青色の空気も、何もかもがそれに触れたところから吸い込まれ、暗い闇に喰われていく。

 ずるり、ずるり、と青年が歩む度、世界が喰われ、欠けて歪んでいく。

 ───青年が身を凭れかけさせている、離宮の壁さえも。

 彼が歩み去るのに一拍遅れて、砂塵に帰していく。

 大地こそ青年の足を支えてはいるが、その内で何かが渦巻いているのが、男には嫌というほど感じられた。


 二十年に亘って相対してきた『奇跡』のような、攻撃的な……衝撃を伴って襲い掛かってくるような力ではない。

 しかし、それにも増して恐ろしい何かを感じさせる力の波動だった。


 ただの、死にかけの人間など、とんでもなかった。

 これは───触れてはならないものだ。


 戦慄する男の前で、ふと、青年が顔をあげた。

「───!!」

 総毛だった。

 を滲ませた端正な顔の中で、ふたつの燐光が燃えている。


 おそらくは、防衛本能だった。

 危険な、正体も定かではない化け物を遠ざけずにはいられない、反射的な反応。

 攻撃のための、魔力ちから


 凶器まりょく抜いたけんげんした瞬間。

 ───そして、男の意識は永遠の闇に呑まれたのだった。

 



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