6-4 エレとニーオ、そしてアキ4
「ある企業の研究施設の、何もない小さな一室だったよ。
麻酔をかけられて動けないままの俺が寝かされた床の傍に、『祭壇』が設えられ、それが置かれた」
息を殺すジェイと不安そうに自分達の顔を見上げるサミーに、殊更に表情を消した顔をエレは向けた。
「赤ん坊の掌ほども大きさのある……たぶん、あれはダイヤモンドだったんだと思う。それを中心に様々な宝石をあしらった、豪奢なネックレスだった。
もっともその頃の俺は、見たこともないぐらい燦然と光輝くそれが、単なる装飾品だなんてとても思えなかったけれどね。
何が始まるのかもわからず、きらきら光るそれを、身動きひとつ出来ないまま見上げるしかなかった俺を残して……扉が閉められた」
「………」
「最初は、目の錯覚かと思った。
ネックレスが放つ光が───本当に、照明の反射なんかじゃなく、ネックレス自体が光ってたんだ───急に、鼓動を打つみたいに瞬き始めたんだ。
強い光の瞬きは、どんどん早くなっていって。……今にして思えば、あれは俺の鼓動に同調してたのかもしれないな。
そして突然、花が開くように、その光が爆発した」
「爆発?」
「ネックレスを中心に、光の矢が……細く張りつめた無数の糸のような光が噴き出して、動けない俺の全身を貫いたんだ。あれが物理的な物だったら、俺の姿はハリネズミみたいに見えたただろうな。
検査着を着ただけの全身から、開けたまま閉じられない目の中まで、光が突き刺さったのが自分でもわかったんだから」
ぞっとして、ジェイは身を震わせた。
「光は、そのまま俺の内に潜り込んで消えた。そして……浸食が始まった」
盛大に顔を引き攣らせたジェイに、エレは言いたくなさそうに、けれど仕方なさそうに言葉を継いだ。
「あの───一瞬、光に見えたモノが、ネックレスから脱け出したモスキートの軌跡だったんだろう。
……その後は……体中を、たくさんの小さな虫に食い荒らされているみたいだった。
麻酔が切れても、もう俺は、酷すぎる痛みに動くことなんて出来なくなってた」
「───」
「体中を、激痛と共に無数の小さな何かが蠢いているのが、わかるんだ。
その後、目が見えていたのはほんの僅かな間だったけど、実際、自分の皮膚の下に潜り込んで動き回っているモノの形も見えたしね」
我知らず、ジェイはサミーに抱えられていない方の腕で、固く自分を抱きしめていた。
背筋を震わせる寒気は、そんなことでは消え去ったりはしなかったけれど。
「体のあちこちから断続的に火花を弾くような痛みと、何だかわからない、気持ちの悪い小さなたくさんのモノが自分の中を食い千切りながら動き回る感覚だけで、俺はもう完全に許容量を超えてしまってた。
ただただ痛くて、苦しくて、怖くて。
他の何も目に入りはしなかったし、聞こえもしなかった。叫べていたのも、そんなに長いことじゃなかった。
……ただの子供が耐えられるような状況じゃなかったはずなんだよ。
でも、俺は狂うことも出来なかった。……脳の中にも、当然モスキートが入り込んでいたから。完全に意識を押さえられていたんだ」
それは、どんな地獄だろう。
生きながら、たくさんの獣や虫にたかられ食い荒らされるのと、どこが違うというのか。
内臓や筋肉どころか、血管や脳───目の奥、顎の裏、あるいは舌の中といった、自分でも把握出来ないような箇所すらをも蹂躙されて。なおそれを、意識に生々しく突きつけられながら、逃げることも出来ないなんて。
それが───
そんな残虐な責め苦が、まさに自分にも降りかかる寸前だったのだ。喉が干上がっていくのを、ジェイは感じずにはいられなかった。
「眠ることも出来ない。なのに、狂うことも出来ない。
体の中を這いまわる何かが怖くて、痛くて、心なんかあっという間に折れて泣き喚いても、すぐにそんな力も無くなってさ。
そんな状態が、たぶん数日続いた。……やがて、少しずつ体が壊れて、崩れ落ち始めたんだ」
「───っ」
「うん。……壊死みたいな感じかな。突然、ぼとっと腕や足がもげるんだ。
けれど、もちろん筋肉も血管も神経も、駄目になってから落ちるわけじゃない。
斬り落とされるのと大差はないから、血も噴き出る。
もっともすぐに止血はされるから、それで死ぬことはないけどね」
「手当て……されるの?」
「モスキートの所有者にとっては、己の望みが叶う前に死なれたら困るからね。ギリギリまで、サクリファイスを生かす必要がある。
もっとも、もう声も出ない子供の痛みなんて知ったこっちゃないから、血を止める程度がせいぜいだった」
血の気を失ったジェイの顔を眺めて、それでも諦めたようにエレは続けた。
「俺が知っている限り、主に十歳から十五、六歳ぐらいの子供がサクリファイスに選ばれていた。それより小さな子じゃ、望みを叶える前に耐え切れずに死んじゃうのかもしれないな。
次から次へと、数カ月の周期で使い物にならなくなって、子供は交換された。
数カ月は、暴行を受けながら、それでも皆生きていたんだ。
……アキが言ってた。おそらくモスキートは、サクリファイスを侵食しながら、その実体を……それから、痛み、恐怖、怒り、恨み、悲しみ、そうした感情や感覚を、霊的な免疫を、自らの内に食らって再生することで自分の物にしようとしてるんだろう、って。
力尽くで同化しようとして、子供を殺しては、懲りずに再び惨劇を繰り返しているんだろうって」
「………」
「食い尽くされて、それでもモスキートと同化することなく子供が死ぬ度に、所有者は生贄の対価として望みを叶えた。モスキートが望んでいるものの正体を知らないから、彼らにとっては、望みを叶えるための儀式でしかなかったんだろうな」
何かを振り払うように小さく首を振って、そして微かに、初めてエレの唇が笑みを刻んだ。
「俺は運がよかった。ニーオが気付いてくれたから」
「え……?」
「世界中に散らばったコルドゥーンは、もちろん様々な階級の人々を観察していた。
だから、モスキートを所持していそうな人間にも当たりを付けてはいるんだけど、常にそれらしい容疑者は複数挙げられる。
その中から、何年もの間、一瞬の波動だけを頼りにモスキートを探すって、なかなか上手くいくもんじゃないんだろうな。見落とし、見当違い、そんなことで観測出来ずに、どんどん犠牲者が増えるばかりだったんだと思う。
もっとも、コルドゥーンにとっては、サクリファイスになる子供の命なんてどうでもいいことだから、モスキートの存在が確定するまでは介入する気なんて、全然無かったんだろうけどね」
肩を竦めて、エレは目を細めた。
「でも、ニーオは違った。モスキートを捕獲することよりも、サクリファイスを救うことを何よりも願っていたから。
偶然、俺のいた国に入国したニーオは、『仕事』とは関係ないところで敵対企業に異常に不運が続く件の企業の存在に気が付いて。
『組織』には内緒で、ひとりで内偵を続けて……助けに来てくれた」
静かな、けれどどこか温かな声が、褐色の肌の少年の唇から零れる。
「もうその頃には俺は、腕も足も崩れ落ちていて……顔も半分溶けてた。本当に虫の息で、それでも俺は、死んでなかった。
ニーオは、もう人間の形なんかしていなかった俺を助け出して……自分の体を分けてくれたんだ」
どうやって、とは今さらジェイは聞かなかった。
それに、思い出していたのだ。
ジェイが、あのアパートメントのリビングで並んで座った彼らを見て、感じたあの違和感を。
肌も髪も、瞳の色も違う。
否応なく目を捉える印象の違いは、けれど傍にいる時間が長くなるにつれ、やがて見慣れたものになっていくだろう。そうして初めて、ふたりの面差しの造作そのものが奇妙に似通って見えることに、人は気付くことになるのだ。
たとえば、親子のように。
たとえば、兄弟のように。
あの違和感は、同じ血を継いだ者達特有の類似性を、おそらくは人種すら違うだろうこのふたりに見出してしまったからだったのだ。
「俺は、ニーオに救われた。命も、人としての尊厳も……心も」
優しい面差しが、やわらかく緩む。
「おまえを食おうとしたモスキートはこの身に封印したから、もうおまえを縛るものはない。おまえを追う者も排除した。戸籍もどうにでもしてやれる。家族の元に戻ることだって出来る。
おまえは自由だって、ニーオは言った。どこにでも行けるし、行っていいんだよって」
「……うん」
きっとニーオは、あの穏やかな口調でこの少年にもそう告げたのだろう。救うことが出来た子供を前に、彼が満足そうに微笑んだのが見えるようだった。
「でも俺は、あんたと一緒に行きたいって言ったんだ」
くすぐったそうに笑うエレの表情を見れば、その想像はあながち間違ってはいないのだろう。
「俺の家族だった人達は、俺を売ったから……そうしなければならなかったのはわかっているけど……もう戻るつもりはなかった。
戻れるとも思わなかったしね。
それに、この世界で、俺に生きていていいって言ってくれたのは、ニーオだけだから。
俺が本当に自由なのなら、あいつのためにそれを使いたい、少しでも手伝いがしたいって思ったんだ」
くすくす、と笑う声が零れる。
「ほんとに長い間、喧嘩が続いたよ。
やっと自由になったのに、何を考えているんだ、とか。
私がどんな人間なのか、本当のところを知っているわけでもないのに、思い込みで人生を棒に振るな、とか。
やっと安全に暮らしていけるのに、わざわざその生活を捨てる意味などないだろう、とか」
思わずジェイも笑ってしまった。
「ニーオも必死だったのね」
「うん。本当に俺のことを思って、怒ってくれた。
……でもさ。「俺がそうしたいんだ。俺の今、一番の願いがそれなんだ」って言って押し切った」
「よくニーオが折れたわね」
「俺の体の半分は、ニーオから貰ったものだったからね」
「?」
「俺を死なせないために、ニーオは自分の体の一部をくれた。たぶん危惧はしてたんだろうけど、咄嗟にそれしかないって決断したんだろうな。
……アキの、モスキートの力を孕んだ体だよ? 俺が生き延びたってことは、その力と同化したってことだ」
「あ……」
「ニーオのように、完全にモスキートと融合したわけじゃないけど、その力を、俺もまた受け入れることが出来たんだ。
ニーオっていう緩衝的な因子があったからなのか、それまでの俺がサクリファイスとして変化しかけていたからなのか。
どっちにしても、力を得た俺をコルドゥーンが放っておくわけがないだろう?」
楽しそうに、エレは笑った。
「最終的には、アキも加勢してくれて。とうとう折れたニーオに、許可を取り付けることが出来てさ。
それで……今までの人生を捨てる。だから、新しい名前が欲しいって、頼んでみたんだ」
「エレフセリア?」
「うん。ニーオがくれた。自由、って意味なんだって」
笑うように、細く長い息をエレは
楽しそうに……幸せそうに笑っていた表情が、ゆっくりと消えていく。青い瞳を伏せて、そして少年は言った。
「少しでもニーオの助けになりたい。それは本当だよ。
……けれど本当はもうひとつ、目的があって、俺はニーオの傍にいる」
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