5-3 追撃3

 本来の用途を失ったとはいえ、遮蔽物として、セダンは十分にその役目を果たしていた。

 その陰に身を潜めながら発砲してくる男達に対して、しかし、ニーオには身を隠す何物も存在しはしない。

 くるり、とその左手が翻った。

 ライフルが円を描くように、空を切る。

 人の目では捉えられない高速の弾丸が、鋭い金属音と共に払い除けられた。


 発射音。

 弾丸が大気を裂く風切り音。

 着弾音。


 ほぼ同時としか思えない三重に連なる殺傷音が、豪雨のように迸る。

 人の目では捉えられず、人の身では捌けないはずのその弾雨を、まさに超人的な素早い動きで、ニーオは防いでいく。

 その手数も尋常ではないが、金属製とはいえ、撃ち出される鉛弾を受けて、なおその銃身が持ちこたえていることが異常だった。あまつさえ弾き返すなど、物理法則から見て有り得るはずがない。


 もちろん、そんな冷静なことをジェイが考えていられるはずはなかった。

 だが。

 もしも、眼前の戦闘を直視するだけの意志の力があったなら……最もニーオの傍にいるジェイは、その光景にさらなる異常な───微かな違和感とも言うべき感覚を見出していたかもしれない。

 スクリューのようにニーオが閃かせるライフルを中心に、微かに大気が揺らいでいたことを───直接銃身に当たっているわけでもないのに、弾き返されている数多の銃弾があることを、あるいはジェイは気付いたかもしれなかった。


 しかし実際には、ジェイはただひたすら身を固くして、ニーオの脚の後で蹲り、悲鳴を噛み殺すだけで精一杯だったのである。

 想定外どころではない状況に理性を失っているらしい男達の銃弾は、蹲るジェイのすぐ傍らさえ掠めて、地を抉る。

 ニーオが少しでも動けば、その弾丸はジェイやサミーをも撃ち抜きかねない。


 ───ニーオは、一歩も動かない。

 動けないのだ。


 サミーに覆いかぶさり、必死に己の腕で口を塞いでいながら閃いたその事実に、ジェイは思わず顔を上げた。

 数十ヶ所から放たれる弾丸だ。全てを捌き切れるものではない。

 掠めた弾丸が、ニーオの頬や肩を抉って、血を飛び散らせていた。衝撃に僅かに体を揺るがせることはあっても、男はその場に踏み留まり続ける。

 悲鳴染みた短く鋭い息を上げるのはジェイばかりで、ニーオは自らの負傷に全く動じることなく、ライフルを翻して防御に徹している。


 ニーオは。

 その体を盾にして、ジェイとサミーを守っているのだ。

 言葉通り、まさに命を懸けて、自分達を守っている。

 ───勝手なことをして、彼らをこんな危険な状況に陥らせた自分を。

 彼らを信じなかった、自分を。


 銃撃戦は、それでも三十秒と続いたわけではなかったのだろう。ジェイの中では、途轍もなく長く感じられた悪夢の時間は、突如、黒いセダンの壁を呑み込んだ煙幕によって終止符が打たれたのである。


 唐突に、銃声が止む。

 はっ、と見やったジェイの視界に、路上に倒れて未だもぞもぞと蠢く血塗れの男達が見える。すでに武器を握る腕もなく、脚すらそれぞれ少なくとも一本は失った男達は、それでもこちらに這い寄ろうとでもするかのように、もがいている。

 あまりにも異様な光景は、まるでゾンビ映画の一場面のようで、もはや現実味を失っていた。

 人間を、人間と思えなくなっている自分に半ば呆然としていたジェイは、その向こうから駆け戻ってくるエレの姿を捉えた。

 低く疾走しながら少年は、煙の向こうに消えたセダンや追手の男達に、さらに発煙弾らしい鉄の缶を投げつけている。

 屋外である以上、その効果は長くは続かないだろうが、発煙弾が煙を吐き出し続けている間は、男達の視界を遮ることが出来そうだった。


 エレは、もはや脅威とは成り得ない地に伏した男達の傍らを駆け抜け、三人の元に辿り着く。

 煙幕を張ることで敵の視界を塞ぐ前に、ニーオが追手側の『足』となるセダンを予め潰したように。

 最もジェイ達に肉薄していた男達をまず無力化するために走ったエレもまた、当然のことながら傷だらけだった。大きな怪我こそないようだったが、あちこちから血が滲み、褐色の肌を染めている。


「ジェイ! サミー! 無事!?」

 それでも少年は何よりも真っ先に、自分達に気遣わし気な視線を向けてきたのだ。


 ジェイは、口を開いた。

 けれど……どうしても、言葉は出て来なかった。

 こんなに傷だらけなのに。

 きっと本当なら、彼らが負う必要なんてなかった怪我なのに。


 言葉もなくエレを見上げるジェイが上体を起こしたことで、腕の力が緩んだからだろう。サミーが身を捩って、同じようにエレを見上げる。

 その顔が、ふえ、と歪んだ。

「エーエェ……、イーオォ……」

 ジェイの腕の中で身を固くしていた小さな弟も、銃声や悲鳴が交錯する異常な雰囲気に募らせていた恐怖を、今まで必死に我慢していたのだろう。

 泣きながら伸ばされた小さな手に、エレが膝を折る。その手を握って、笑いかけた。

「ごめんなあ。遅くなって」


 ジェイは、一瞬、息を止めた。

 彼が謝るような事じゃない。

 本当なら、おそらく自分達を守ろうと用意していただろうあの部屋に、自分達が大人しく隠れていれば───少なくとも彼らは不必要に命を危険に晒さなくてもよかったのだ。

 自分のせいだ。自分の……。


 言葉は、出ない。

 けれど、腕の中で泣きじゃくるサミーにつられるように、ジェイの目からも止めようもなく涙が溢れた。

 慌てて、腕で目を擦る。


 自分は。サミーのように泣いていい立場じゃない。

 彼らに要らぬ怪我をさせた自分が、泣いていいわけがない……。


 ぽん、と頭に手が置かれる。驚いて、ジェイは腕を引き降ろした。

 目の前に、ジェイの髪を掻き混ぜて笑う、エレの優しい顔があった。

「さあ。逃げるよ、ジェイ」

 まだ滲む視界に差し伸べられた褐色の手に、ジェイは慌てて掴まった。未だ気を緩められるような状況ではないことを、思い出したのだ。


 立ち込める煙をむやみに突破したところで狙い撃ちにされる恐れがあると、警戒をしているのだろう。

 煙幕の向こうで追手の男達は息を潜め、それでも改めて態勢を立て直しているような気配がある。

 速やかにこの場を離脱する必要があった。少なくとも、これ以上ニーオやエレの足手纏いになるわけにはいかなかった。


 立ち上がったジェイの髪を、今度は大きな掌が掻き混ぜる。

 首を巡らせると、未だ煙幕に呑まれた追手側へ油断なく拳銃を向けながら、ニーオが片手でジェイの頭に触れていた。

 ちらり、と向けられた眼差しは、やはり優しいものだった。


 怒って、いいのに。

 怒って当然なのに。


 傷だらけで、それでもジェイを許すように優しい目を向けてくれる彼らに、伝えたい謝罪の言葉は、今も喉の奥に詰まっている。

 言葉で謝ったぐらいでは到底自分を許せない気がして、取り出すことなど出来ないそれに、ジェイは目元を歪めた。

「大丈夫だから」

 再び泣きそうになったジェイにそう言ったのは、この場を逃げ切ってみせるから安心して、という意味だったのか。

 それとも、自責に押し潰されそうになっているジェイの気持ちを、わかっているから、という意味だったのか。

 そう言って、ジェイの手を取って笑いかけてから。

「行くよ」

 エレは走り出した。

 追手を警戒して、銃を構えたまま半ば後退るかたちでニーオがそれに続く。ふたりに前後を守られるような状態で、ジェイも唇を引き結んで、サミーを抱え直して走り出した。


 薄れていく煙幕の向こうで、走り出す彼らの足音に気付いたのだろうか。背後で気配が殺気立つのを、ジェイは感じる。

 男達の叫び交わす声が響く。車の扉が乱暴に閉じられる音が聞こえた。


 煙が流れ去るまで、どれくらいなのか。

 ジェイとサミーというハンデを抱えたふたりにとって、ここまで追手と接近した後の逃走は、厳しいものなのではないのか。


 込み上げるジェイの不安を余所に、エレは躊躇いなく夜の街を走り抜ける。

 再開発で造り直された住宅街の道路は、片道二車線のそれが規則正しく交差している。一区画分を走り抜け、次の十字路へ入ろうとした瞬間、少年は大きなTシャツの裾を翻して腰から何かを抜き出した。

 ジェイの手を握ったまま、もう一方の手で抜き出したそれを、走りながら無造作にニーオに投げ渡す。

 そして、十字路を右に曲がった。

 彼らに続いて右折しながら、ニーオが投げ渡されたそれ───発煙弾の缶を、背後へと投擲する。

 続いてもうひとつ缶を取り出したエレが、走りながらそれを足元に転がした。

 交差点を挟んだ左右の道路で、同時に煙が充満し始める。咄嗟にどちらへ曲がったか判断がつかないように細工をした男と少年は、素早く周囲に目を走らせた。


「サミー」

 囁いて、エレが両手を伸ばす。

 ニーオが拳銃を腰に差す。

 確かに、ジェイの足に合わせたスピードで走るよりも、昨日のように自分達をそれぞれに抱えた彼らが全力で走る方が、ずっと速い。

「隣の地区に、もうひとつセーフ・ハウスがある。そこまで逃げ切るよ」

 小さなエレの声にしっかりと頷いたジェイに、ニーオが言葉を継ぐ。

「彼らの車の全てを潰すことは出来なかった。後方の二台ほどが、角度的に、タイヤもエンジンもこちらの射程を外れていたのでな。その二台に回り込まれると厄介だ。セーフ・ハウスまで迂回して、車ではこちらを追えない『裏道』を使う。君達には、少し辛い道行になるだろうが……」

「うん。大丈夫」ジェイは、真っ直ぐにニーオを見上げた。「お願いします」

 ニーオが小さく笑う。

 サミーを受け取ろうと、エレが一歩を踏み出した。


 その瞬間。

 はっ、とニーオとエレが上空を仰ぎ見た。

 反射的にその視線を追ったジェイは、四方を囲む高層住宅に───不自然なまでに沈黙を続ける、闇に沈んだ建築物のそこここに、淡い光を見た。


 屋上。

 整然と並ぶベランダの、不規則な幾つかの手摺りの上。

 外階段。


 それが人であることに、一拍の空白を経てジェイは気が付いた。

 まるで宗教画の天使を見ているようだった。その身の内側から光を発しているかのように、淡い光に包まれた人の姿が、闇に聳え立つ高層住宅のあちこちに───彼らを囲うように立っている。

 男も女もいる。老いた者も子供さえもが、光を纏って彼らを睥睨している。

 だが、それは天使などではない。

 剣呑な気配を纏う彼らがそんなものではないと、ジェイにすらわかる。

 そして初めて遭遇しながらも、思い当たる存在は、ただひとつだった。


 魔法使いコルドゥーン


「───出し抜かれたか……!」

 呻くなり、ニーオが子供達を振り返った。

「エレ! ふたりを連れて逃げろ!」

 立ち竦んでいたエレが、びくり、と跳ねた。

「ニーオ……!」

 その青い瞳に、隠し切れない恐慌が浮かぶのを、ジェイは見た。

「早く!」

 叫ぶなり、ニーオが身を翻す。煙の充満している後方へ、彼らの退路とは反対の方向へと駆け出す。


 だが、遅かった。

 如何に彼が並外れた脚力を持っていたとしても、すでに包囲は完了している。

 ジェイの視界の隅に映る人型の光が、その輝きを増したのだ。

 稲妻が大地を突き刺す、あの鋭く恐ろしい音が、耳を聾する。

 逸らすことも出来なかった瞳は、四方から闇を貫く稲妻が螺旋を描きながら、瞬時に一点へと駆け降りるのを見た。


 狙いすました光の切っ先が、ニーオに襲い掛かるのを。


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