啐啄同時
香月 詠凪
この世界とあの世界
それは、突然だった。小学校に入学したてのわたしには到底理解できないことで、ただどうしようもない事なんだってことだけは分かった。
わたしはあの日、初めて人の死体をみた。
白い布を顔にあてられ、一ミリたりとも動かないその人はわたしにとって、凄く大切な人だった。
でも、目の前に横たわる人形みたいな人体はまるで知らない人のようでとても恐ろしかった。怖くて動けないわたしをみて、父が最後なんだから触っておきなさいとわたしの背中を押した。
でも、わたしは触れられなかった。大好きだったはずなのに、脳が痺れるように触れることを拒絶する。
結局、わたしが一度も触れることなくあの人は焼かれてしまった。納骨する時も兄とわたしは小学生だったので外で待たされた。
兄は泣いていた。
でも、わたしは泣かなかった。酷いやつだと思う。だって、わたしの方があの人とは仲が良かったから。あの人はいつもわたしの味方だった。父さんが怒った時も、母さんが理不尽に兄を庇っていた時も、兄にわたしがいじめられた時も、どんな時でも隣にいてくれた。そして、しわしわの大きな手で優しく頭を撫でてくれた。
もう二度とあの手には触れられない。
胸が熱くなった。苦しくて、顔が歪む。それでも涙は出てこない。わたしは酷いやつだ。
「裕生、これ母さんから半分こしてってもらったんだけど、僕これ苦手だからお前にやるよ」
いつの間にか泣き止んだ兄がジッパー付きの飴袋を渡してきた。
ハッカのキャンディー。
あの人が大好きだった飴だ。わたしがあの人の部屋に行くといつもこれをくれた。
わたしと兄はハッカとか、ミントみたいなスースーするものが苦手だった。でも、なぜかわたしはあの人がくれるこの飴だけは好きだった。
未開封の袋を破り一粒飴玉を口に含む。
しかし、強い清涼感に身体が拒絶反応を示し、飴玉を吐き出してしまった。
おかしい、今までなら普通に食べれていたのに。
あぁ、そうかと思い当たる。
あの人がくれていたから美味しかったんだ。
あの人が美味しいって言っていたから美味しく感じていたんだ。
わたしはこんなにも、あの人の事を好きだったんだ。
あの人が居なくなって三ヶ月が過ぎた頃。
騒がしかった葬儀なども一通り落ち着いて、あの人が亡くなる前のような生活サイクルに戻り始めていた。
長男だった父は色々と忙しかったようで毎日大変そうだった。それでも今は、以前のように仕事もせずに家に引きこもっている。生活費は、あの人が残してくれた財産を大いに活用しているようなことを言っていた。小学生のわたしにはよく分からなかった。
母は兄の教育ママに戻り、付きっきりで勉強やら何やらをしている。
わたしはと言うと、あの人がいた部屋にずっと一人でいた。
わたしはあの人が居なくなってから一度も泣いていない。
いや、正確に言うと兄と喧嘩して何回か泣いたけれど、あの人関連では泣いていない。
泣いていないのではない、泣けないのだ。
勿論、あの人のことを思うと胸が苦しくなって、顔とか身体が熱くなって感情は昂る。けれど涙は一向に姿を表してはくれなかった。
小学校であった嫌なこととか、兄の愚痴とかそういう事を全部あの人に聞いてもらっていたから、あの人がいない今、わたしはどう生きていけば良いのか分からくなっていた。
だから、わたしはずっとあの人を探している。それなのに、周りはあの人とわたしを置いてどんどんと変わってしまった。
あの人の部屋には物が一切なくなり、まるで新品の部屋のように改造された。
たった三ヶ月であの人の匂いが消え、無機質な空間がそこを支配し始めている。それが何故かとてつもなく恐ろしかった。
わたしもいつか、あの人のことを忘れてしまうのだろうか。
それが一番怖くて、嫌だった。
ずっと家族の中で孤独でもいいから、わたしは、わたしだけは貴方を忘れたくない。
畳の匂いが鼻を掠めた。唯一残ったあの人を思い出せる香りだ。
もっと近くに感じたくて直に床に転がる。大きな窓から暖かいオレンジ色の光がわたしを包んだ。あの人の手に撫でられているようで凄く心地よかった。
「裕生、ゆい」
懐かしい声がする。ずっと会いたくて、会いたくてたまらなかった人。
やっと、会えた。
「おじいちゃん...!」
「裕生」
なににも例えようのない優しい笑顔でわたしの名前を呼ぶ。わたしは走る。
「おじいちゃん、まって!」
肘をつき横に寝転がるような体制でわたしを見つめている。それなのにどんどんと遠ざかっていく。
「まって!」
まって、まって、まって、置いていかないで!一人にしないで、お願い、まって...
次第に背景が白に包まれていく。
あの人は遠ざかる。遠ざかる。
そして、わたしの世界は真っ白になった。
「裕生、裕生ってば」
顔が熱い。身体も熱い。
「んん...」
目を開けると母さんの顔がドアップで驚いた。
「どんなに呼んでも起きないから、心臓止まるかと思ったわよ!」
わたしの頭を撫でながら母さんは言った。目には涙が溜まっているように見えた。
「裕生なんで泣いてるの?」
え?泣いてるのは母さんでしょ。そう思ったけれど違った。涙はわたしから流れていた。
それは止まることなく流れ続ける。そんなわたしを母さんが抱きしめ、二人してわんわん泣いた。
この時、わたしは初めて母さんの温かさを知った。
「涅槃物?」
「そう、裕生が夢で見たのはそれかもね。ほら見てみて」
母に見せられたのはお釈迦様が肘をついて横たわる姿の絵で、それはわたしが夢で見たおじいちゃんの姿と瓜二つだった。
「なあに、それ?」
「お釈迦様が亡くなる時の姿よ」
勿論、小学生のわたしにはそれは理解出来ず、未だにこの体験の本当の理由は分からない。ただ、わたしはこの体験を一生忘れないだろう。
PS.私の愛する人たちへ、わたしは永遠にあなた達を忘れません。だから、もう大丈夫だよ。
啐啄同時 香月 詠凪 @SORA111
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