#16 決着 灰の日に落ちるともしび
聖堂か、あるいは伽藍にも似た壮麗なる黒金の一室。
その星空を思わせる壁面の割れ砕けた大孔より、
彼自身の形骸はすでに人のそれではなく、さりとて以前のようなメタルゴーレムの姿でもなかった。
地球における生物学や遺伝子工学の技術を貪欲に吸収し、有機と無機をひとつの身に内包し融合させた混沌の機装魔獣。それが今の王の姿である。彼は
「……亡びの
相対していた勇者たちも、皆一様に満身創痍であった。
賢王は獣の身の中心、すでにその一つの潰された三眼を力なく彼らに向け、巨体ゆえの低く霞がかったような声で語りかける。ヴァイオリンよりもコントラバスの方が低い音を出すように、体躯を維持する心肺機能の拡大と、それに伴う声帯の肥大化によって音声の周波数が低下しているのだ。
「民草の救いの手を折りて……この神無き世に貴様はなんとする……?」
「貴様は神ではない」
倒れ伏すものを見下ろし、全身を己と敵の血に濡らした勇者は、毅然として言い放った。
「貴様は神ではない、グリン。皆同様に
この俺と同じ、独善的な愚者に過ぎない。故に独善と独善がぶつかり合い、運の向いた方が残った。それが全て。全てだ」
その言葉に、力失った獣はどこか救いを得たように表情を歪めて、嗤う。
「これもまた……さだめか」
仰ぎ見る先。砕けた夢の外壁の彼方より、陽光はただすべてに平等に降り注いでいた。
永い、永い時の果てに至るまで、彼らの見ることの叶わなかった――本物の、太陽。東の地平線の向こうから照らす、その熱核反応の暖かな光を浴びて、獣は静かに、全身の緊張を解いた。
「祖なる神よ……儂も今、そちらへ参ろう……」
そうして動かなくなった生命の抜け殻を眺め、シスは深い息とともに両の瞼を閉じ――ふらりと力を失って倒れた。咄嗟に武器を捨てたエレインが、その身体を両腕で支える。
ただの人間に過ぎぬ彼らの戦いは、脳神経や筋肉組織に働きかける強化魔法に依存していた。脳のアドレナリンやエンドルフィンの受容体を賦活させ、本来過剰に分泌すれば人間にとっては猛毒であるそれによる症状を、同じく魔法による外的干渉によって、強引に修復しながら戦ってきたのだ。致命傷さえ受けなければ傷は治せるとはいえ、戦いながら身体各部に受ける反動は並ならぬものであり、脳内物質の過剰作用による中毒症状が現れるデッドラインもとうに超えていた。
「……さすがに疲れたみてェだな」
「よい。眠らせてやれ」
――もはや気の休まる時は訪れぬかもしれんのだ。
フィーネは内心に浮かんだ言葉を胸裡に呑み込んだ。
彼は司法の埒外にある純粋な暴力装置だ。たとえその『神に選ばれ、強い精霊の力を持って産まれてきた』と民に信じられていたことの実態が、単に遺伝法則の確率に従って突然変異的に発生しただけの、『とんがり耳』や魔人と同様の虚数質量体振動を起こしやすい遺伝子配列を持つというそれだけのことに過ぎなかったとしても――彼は、人にしては強くなりすぎた。実際の肉体強度がそうでなくとも、彼の勇者の名と功績は影響力を持ちすぎた。
いずれかの国に属さねば、人は彼を怖れるだろう。いずれかの国に属せば、それ以外の国との不和を呼ぶだろう。
その先は――
幼い少年のように眠る勇者の顔をしばし眺め、フィーネは鷹揚に微笑して背を向けた。
「にしても……」
――祖なる神、か。
魔人貴族の娘、ギオルフィナイトには気がかりがあった。地球の建造物の持つ、このいかにも近未来的な様式に――石でも木でも鍛えた金属でもない、滑らかで硬く軽い建材や、物体のすがたを幾年も留める美しい塗布剤、そしていかなる職人の手にも難しい正確な構造には、遠く覚えがあった。
そして何より彼が言った、祖なる神、という言葉にも。
何故だ。その言葉は、彼の口からは出ないはずではないのか。
事が一段落したのちには、シオンにはもう一つ、頼まねばならないかもしれない。
フィーネは、同様に強化魔法の負荷にふらつくミルトの肩に手を置き、自らの身体に身を預けさせると、戦いの爪痕に荒れ果てた床にそっと腰を下ろした。
程なく静かな寝息をたて始めた栗毛の少女に治癒の魔法をかけながら、そうしてフィーネも、ゆっくりと瞼を閉じた。
*
――足りなかった。
未だ、不足していた。
想定も。準備も。理解も。能力も。何もかも。……仕方のないことだ。確実な成功保証など、充分な備えなど、ただ待っていたところで寿命が先に訪れよう。石橋を叩きすぎる臆病者は、得てして勇気を持って試行を繰り返す者に追い抜かれて機会を失う。
ただ、何もかも足りなかったが、悪運だけはこの手の中にあった。
それで充分。充分だ。
この生命で足りなければ、生命を継ぐ者を。
この意志で足りなければ、遺志を継ぐ者を。
ヨゼフ・グライフェルトは、狂気じみた輝きを黄金の瞳に湛えながら、永く閉ざされていた扉を開け放った。
あの時、確かにグライフェルトは死を覚悟した。その結末を覆す要素は、彼には無かった。本当に、完全に、何の策も残されていなかった。
あったのは運だけだ。本当に、なぜ自分が助かったのか今でも解らない。
地球上で飛行魔法を使うことは、実のところ、グライフェルトの持つ魔法技術をもってすれば可能であった。
しかし、あの海上に引き戻されてしまった瞬間、もはやそれから飛行魔法の発動準備をしても手遅れになった。重力というのは自然界の四つの基本相互作用の中でも最も作用が小さい力だ。意思の力でそれを束ねるのには非常に長い詠唱時間がかかる上に、いくら強力な重力場を上方に展開したところで、あの加速を海面着水までに相殺しきれはしなかった。それが解っていたからこそ、彼は最後の力でシオンを助けた。『より高い確率で、より多い生命を助けられる』選択をしたのだ。
着水時の衝撃によってあの魔法の爆弾が炸裂した瞬間――もしかしたら、減速を諦め、あまりに高速で背中から水面下に潜り込んだことが幸いして、正面側に勢い良く流れ込んだ水流の渦巻きによって、爆風が身体に届くよりも前に、幾重もの水と空気の層が瞬時に形成されて爆圧のエネルギーを僅かばかり吸収したのかもしれない。
もしかしたら、胸部から腹部にかけて念のため仕込んでおいた防弾素材の護身具が、ほんの僅かに致命的な血管や臓器からその威力を遠ざけたのかもしれない。
もしかしたら、爆風の衝撃で服の大部分が千切れ飛んだことによって、布が水を吸うことなく、塩水に浮かんで呼吸器を水面上に出すことができたのかもしれない。
もしかしたら、高熱が瞬時に傷口を焼くことによって、出血をわずかに止めたのかもしれない。
それでも、あの損傷と出血で海に落ち、水面下の水の流れにさらわれ、数時間も意識を失っていたこの身体が未だに生きている理由は全く解らなかった。
いくら魔人の生命力があるとは言え、いくらそれ以上に人為的に強化した体組織があるとはいえ、ほんの数分呼吸ができなければ死ぬし、三分の一ほど血が失われれば死ぬ。それは変わりないはずなのに。
何か様々な理由が絡み合ってこうなったのだろうが、奇跡だ、としか言いようがない。
意識を取り戻したグライフェルトは強力な『認識阻害』の魔法を張り、『飛行』の魔法によって上空を飛んで東へと渡った。
その途中、『治癒』の魔法で傷口を癒し、跡形もなく吹き飛んだ左手を少しはマシな姿にした。潰れた左眼がどのようになっているのかは、今は見ることができない。
埃っぽい廃墟のような、かつての自分の研究所跡を、グライフェルトは息急き切って渡る。誰が継ぐこともなく、取り壊されることもなく、荒れ果てるままに放置されたそこには、幾つかの機材がまだ残っていた。
型は古く、施設そのものに通電もされていない有様だが、再起を試みるならば始まりの地はここしかない。理論は既に把握している。ここにあるものを使って、なんとか再びアルフェイムに渡れれば、『
グライフェルトは埃の積もった古い机に無事な片腕をつき、悪魔めいた魔人の肉体を露わにした姿で荒い息を弾ませた。
と、その時。彼の背後から、
「――やっぱな。ここに来やがると思ってましたよ、先生。あんたしぶといから」
弾かれたように振り返る、その視線の先。
白髪交じりの無造作な髪を乱暴に掻き上げながら、よれた白衣のポケットに片手を突っ込んで、もはや老齢に差し掛かろうとする彼はにやついた笑みを浮かべていた。
「一宮くん……ですか」
「覚えててくれやがって重畳至極。そんだけ俺も悪戯が過ぎたって事ですかねぇ」
「フ……そうですね。君は頭はいいのに、随分な問題児でした。あんなに仲がいいのだから、冴羽くんを見習ってほしいと常々思っていましたよ」
柔和な微笑を顔に貼り付けながらも、その金の瞳は刃物のように鋭く対手を睨めつけていた。
一宮嗣巳は充分な距離を取りながらも、既に人ならぬものと化した師に微塵の警戒すらも見せず、笑いながら悠々と語る。
「その冴羽があの世で待ってやがんでしょ。道草は終わりにしましょうや」
瞬間、グライフェルトの咆哮が飛んだ。油断なく全霊を込めた真空の刃の魔法で、次の瞬間にはその飄々とした身体は引き裂かれているはずであった。
だが、そうはならなかった。
今一度試してもなお、魔法の威力は現れない。意識の波の練り方を変えてみても、別の魔法を立て続けに試してみても、何ら起こる気配がない。グライフェルトは訝しみ、眉根を寄せて思わず呟いた。
「……何?」
呆気にとられる教授の言葉を聞いて、一宮はクックッと息を詰まらせるかのように下手くそに笑う。
その正体が皆目掴めず、じわりと後退るグライフェルト。その怯えたような姿を見て、博士は得意気に両腕を広げた。
「久々の悪戯食らった気分はどーです? 亜空間素粒子制御の軽い応用ですよ。魔法は虚数質量体の振動によって力場に干渉して発動する、ゆえに力場の方から逆干渉させて周辺の虚数質量体を常に強力に振動させてりゃァ、先生の意識の波はそもそも周囲に伝わらない。ついでに昔みたいな死に際転移も理論上できねェでしょコレ? 名付けて『
「あ……あなたという人は……ッ!」
無事な右腕で、教授は襤褸布のようになったズボンにねじ込まれていた小さな銃を抜いて構える。冴羽義隆を撃った銃だ。しばらく海水漬けだったこれがちゃんと使えるかどうかの保証もないのだが――しかし一宮は笑ったまま、それを掌で制した。
「おっと、やめやがった方がいいですよォ」
その親指が指す先には、暗い部屋の隅で微かに音を立てている複数のボンベがあった。陰影に見事に溶け込んだ灰色の容器には、目立つ文字は何も書かれてはいないが、グライフェルト教授は即座に察し、残った右目を大きく見開く。
「……純粋アセチレン……ッ!」
「ご明察。このタイミングで散布する、ほぼ無臭の気体っつったらソレくらいしかありやがらねェか」
アセチレンガスは一般的な可燃性気体の中でも最も燃焼性が高く、一度火がついたら瞬間的に燃焼して爆発を起こす危険な気体だ。完全燃焼を起こした場合の火炎温度は実に三三〇〇度にまで達し、そのために必要な酸素量もプロパンガスのたった四分の一程度で済む。着火温度も比較的低く、そのへんの埃が起こす静電気の火花放電程度でも容易に着火することだろう。
普通、一般流通しているものは、漏洩を分かりやすくするために臭いがつけられているはずだが――それがないということは、恐らく化学系のツテでも辿って、炭化カルシウムか炭化水素あたりから生成したのだ。
グライフェルトは半ば無意識に視線を滑らせた。今まさに入ってきた、出入り口の方向へと。しかし。
「逃げんなよ王様。そこにゃ
「…………ッ!」
素早く拳銃を構えて指摘する一宮の言葉通りに、ちょうど入り口の扉から死角となるような位置に、運搬台車の上に山と盛られた見慣れぬダンボール箱が目に留まった。爆薬。ならばあちらに飛び出したところで、僅かにでも爆風の威力から逃れることはできそうにない。
グライフェルトは瞬時に別の可能性を探って部屋の中に視線を戻した。机や台を盾にして防御を試みるか。否。気体相燃料は固体相燃料と違って散布範囲すべてが爆心となる。防御は不可能だ。盾を向けるべき方向がない。
防護膜は使えない。この虚数振動を封じる力場を発生させている装置がどこにあるのか――それも見えない。動きを見せてから彼が起爆するまでの時間内に、瞬間的にそれを見つけて破壊し、防護膜を張ることができるだろうか。不可能だ。
そんな教授の様子を見て、一宮博士はふっと吐息を漏らすように微笑し、追懐するように両目を細めた。
「思えば学生時代、チェスで先生に勝てた試しがありやがりませんでしたねえ。これでチェックメイトですか?」
「……くだらない煽りはやめなさい。あなたもみすみす生命を失うことは……」
「ああ失敬、くだらない煽りに見えますか」
グライフェルトは最も可能性の高そうな手段――すなわち『対話』に出た。何も説得をしきれずともよい。話に気を取らせつつさり気なく近付き、一息に距離を詰め、魔人の膂力を以て彼を縊り殺せる間合いにまで入れればいい。
だが一宮は、彼が踏み出すと共に油断なく同じだけ後退し、にっと両の口角を上げて笑った。学生時代、備品を無駄遣いしては、悪戯が上手くいった時に決まってしていたあの表情。髪の色が変わり、顔には皺が増えても、それは何一つ変わってはいなかった。
「すみませんね。さっきの『やめた方がいい』は嘘です。アセチレンガスの散布は先生が来てから始めたもんで、少々時間稼ぎが必要だったんですよ。じゃなきゃ気付くでしょ、あんた」
教授は息を呑んだ。
警戒しすぎたのだ。ただの非力な若輩学者の紫音にすっかりしてやられた記憶が、心に枷を作っていた。慎重になりすぎた。迅速に肉弾戦に出ていれば、あるいは気配に気付いた時点ですぐさま逃走していれば、まだ機会はあったものを。
既に散布された気体は室内全域に広く行き渡っていた。一宮は何も死ぬ前に思い出話がしたかったのではない。ただ単に、この瞬間を待っていたのだ。
「……やめなさい、一宮くん。我々の生命はより良い世界のために――」
「悪戯小僧に説教は無駄だぜ。あの馬鹿には積もる話もあるんだ、邪魔しやがんじゃねェよ」
「やめっ――――」
火花は一瞬。光が、視界いっぱいに広がった。
*
賢王は滅び、『円環』は地球上での勢力を失った。
『黒艦』サクス・プラィミュアの
それでも、ここを唯一の理想郷と信じて集った学徒や技術者の多くは、失意の中に離れてゆくことだろう。
完全な理想郷なんて、畢竟、この世にありはしないのだ。誰かの理想のために、誰かが犠牲になる。その表裏を無限に流転させながら、人は争い、歴史は続いていく。
――正しい事を成したと信じているとはいえ、司法の範囲の埒外で、同じ人間に私的制裁を加えたのだ。紫音は内心、殺人罪か何かで逮捕・起訴されることも想定してはいたが、そうはならなかった。
確かに法律上、国外の法に触れぬ地であっても日本人が殺人などの重罪を犯した場合は日本国の法で裁かれるようになっているが、問題は『黒艦』上で起きた事件を捜査する警察組織が存在しないことだった。故に諸国の判断が後手に回ったのである。普通、どの国の領土でもない海上で事件が起きた場合、その船舶の所属国に捜査権があるものだが……『黒艦』の所属は
そうして一般には、この事件による死傷者は、彼らの要求通り『アルフェイム人同士の仲間割れ』として発表され、その発表を以てして全ては終結した。
だが『円環』がこの地から消え去ってもなお、世界中にばら撒かれた戦乱の火種は、風に吹かれる野火のごとく盛んに燃えて広がった。
一度放たれた戦火は、無数の血と肉を、痛みと苦しみを、悲鳴と愁歎を犠牲に捧げても止まることなく、敵同士、互いに身喰らいあっては火勢を増す。
堆く積まれて焼かれる屍の山は、さながら、これまで火を着けることすら能わず、その地で永く虐げられ省みられなかった民の義憤の念そのものであった。
その火が尽きるまでには、長い年月を必要とするだろう。
あるいは人が人である限り、尽きることなどないのかもしれない。いずれ、地上のすべてを燃やし尽くすまで。
ただ、その大きな火のひとつが、消えた。
それは確かなことだった。
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