甘酸っぱい
高峯紅亜
一目惚れ
彼は恋愛感情を抱いたことはあるのか、それが
まさか同じクラスになれるなんて。一番左の席で頬杖をつきながら、一番右から三番目に座っている
匠哉に一目惚れしてからもうすぐ半年。今でも彼を見た瞬間に変化した心の鼓動の速さを忘れたことはない。
あれは確か2月だったか、星ヶ丘第九高等学校で行われた授業見学日を思い出していた。
美澪は高校受験を終え、第九星高への入学が決まり、最後に在校生が主催する授業見学に足を運んだ。笑顔で来校者に対応する運営スタッフが美澪を日差しの良い講堂に案内した。そこには内進生の活気付いた声で溢れていた。大声で騒いでいる者、授業が始まるまで静かに本を読んでいる者、様々な人間がいた。こういう所で差が出るのだな、と内心密かに思う。
すると勢い良く扉が開き、顔をしかめた中年のおじさん先生が入って来た。首から提げていた学校説明会用の名札には大島誠とゴシック体で大きく記されていた。えー大島じゃん、嫌だ、とか小声でぼやきながら生徒たちは一斉に指定された席につき始めた。ふと自分の中学校でも嫌われていた先生のことを思い出す。美澪も急いで指定された席に座った。枠無しの大きな眼鏡の奥には小さな目が騒がしい生徒たちを見据えていた。今にも何かが出てきそうな大きな腹の下からはワイシャツがはみ出していた。薄い髪の毛に、堀の深い顔は第2次ロシア革命の指導者のレーニンを連想させた。
「はい、では三時限目を始めます。起立、よろしくお願いします」
大島、という先生は授業見学日で張り切っていたのだろうか、なんだかどことなく不自然な号令だったのは、外進生の美澪でも感じて取れた。
それとは対照的に生徒たちはやる気のない声でダラダラと礼をした。さっきまでの元気の良さは一体どこに行ってしまったのだろうか。
大島は見た目とは逆に、膨大な知識と教養を持った人間だった。立て板に水を流すように次々に内容を展開させる偉大な先生には誰もが舌を巻くだろう。大島による長い講義が終了し、生徒たちのディベートに内容が移り変わった。彼らは重い腰を持ち上げて各班に分かれ始めた。この中の誰と同じクラスになるのかなと移動している生徒たちを何気なく眺めていた美澪の目は1人の男子に瞬間的に吸い寄せられ、新たな胸のときめきを覚えた。
モデルのようなスラッとした身長、独特な髪型に相手を射抜くような鋭い目。すべてが美澪を一瞬で虜にした。でも彼の放つオーラが魅力的すぎて近寄りがたい、そんな印象を持った。
美澪は雲にでも乗ったように軽くフワフワと浮いている気がした。
しかし自分ではただ彼に見惚れているのか、これが恋という切ない感情なのか、当時の彼女には知る由もなかった。
ハッと我に返る。黒板の方に目をやるとちょうど英語教師の
短足にも程があるだろうというくらい脚が短く、常にマスクを常備している。なんだか大島に似ていた。この人は文の所々を伸ばす教師として有名だった。一部の生徒は軽い感じでいいと好評されているものの、委員長の
「じゃあー、小沢いこーう」
しまった、匠哉君の方しか見てなくて質問を聞いていなった。
美澪は仕方なく立ち上がった。皆の目が一斉に彼女を注視する。
こんな所で恥を掻きたくなかったが、発する言葉は当てられた瞬間に決まっていた。
「もう一回お願いします」
隣からクスクス笑い声がする。反射的に向き、キッと
健二はお調子者でクラスのムードメーカーであり、美澪とも仲の良い男子だったが空気を読めないのが唯一の欠点だった。今笑うときじゃないでしょ、しかも私がミスしてるのに、と心の中で冷たく言い放つ。
「全くー、ちゃんと聞いてないとだめよー」
時々武田がおねえ口調になるのには誰も触れようとしなかった。
「ごめんなさい」
ゆっくりと席に腰を降ろすと、視界に匠哉を入れた。彼はボケっと黒板を見ていた。
何を考えているのだろう。あーやってずっと黒板を見てて、今の私のへまを見ていないといいんだけど。
「じゃあー、一ノ瀬いこーう」
匠哉は立ち上がると英文を流暢に読み、さっさと座ってしまった。クールな性格のせいなのか、シャイなのか全く人と目を合わせようとしない。健二とは大違いだ。
「よく読めましたー。はーい、じゃあ解説行くよー」
生徒たちは前に向き直ると先生の解説とともに板書を再開した。
皆は先生に引っ張られるようにして次のお題へと切り替わっていく。
しかし美澪は1人、ピンク色で染まった空間に取り残されていた。
もう匠哉君しか目にない。
かっこいい。やっぱり2月に匠哉君を見た時、私は一目惚れしてたんだ。
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