第13話 決意

 ゲルツハルト修道院の教会堂は、華美な装飾には乏しいものの、はちみつ色の石材を螺旋模様に細工した柱と天上を支える弓なりのアーチが目を引く、壮麗な建築物だった。

 まっすぐに延びる身廊の最奥に設けられた祭壇には、蜜蝋の灯火と秋の花々が捧げられ、背後のステンドグラスは日月星のモチーフで女神シェリカの威光を代弁する。

 広々とした身廊とその両側の側廊を含めれば、ゲルツハルト修道院に勤めるエングラー大司教をはじめとした聖職者、ヘリオス家と四晶家とその臣下、カールステット侯爵家の私兵、そして村人全員を収容できた。


 週に一度の礼拝日。

 祭壇前にしつらえられた講壇に立ち、エングラー大司教が儀礼を執りおこなっていた。

 全員で祈りを捧げたあと、聖典の朗読に賛美歌の斉唱、説教と続く。

 一連の儀式が終わると、普段なら速やかに講壇を去る大司教が、めずらしく参列者へ声をかけた。


「これから、スペイギール様よりお言葉を賜ります。みな、そのまま着席しているように」


 厳粛だった堂内が、いっぺんに浮き足立った。

 修道士はここ数日の院内の動きで察するところがあったが、村人にとっては青天の霹靂だ。隣りあう家族や知人と目を交わしながら思い思いに推論を語る声で、堂内は掻き乱される。

 その混乱を薙ぐように、祭壇近くの扉が開かれた。

 参列者の視線がいっせいに扉へ注がれる。


 目の覚めるような群青色のローブの裾を払い、四人の男女を引きつれて現れたのは、まだ成人するかどうかの少年だった。

 院内や村を歩いていても誰の注意も引かないような、目立った特徴のない普通の少年だったが、法衣の上にまとうローブの色は女神の子孫にしか許されない禁色である。同様に禁色を許された四人――つまり四晶家当主を従える人間は、この世に一人しか存在しない。

 少年は、くるぶしまである裾を慣れない足取りでさばきながら身廊を横切り、エングラー大司教に譲られて講壇に立った。

 いささか緊張に全身を強ばらせつつ、目尻の上がった碧眼を参列者へ向ける。

 正面を向いた少年の顔立ちに、あっ、と村人が叫んだ。


「おまえ――セインじゃねえか!」


 先日、一緒に子ブタを追いかけまわした男が少年を指差した。

「無礼者!」とエングラー大司教の叱責が飛ぶ。

 信心深い村人たちは、普段なら大司教に叱られただけで震えあがるのだが、今は男を始め、どの村人の耳にも届かなかった。


「おれはセインじゃない。ギゼルベルト・ヘリオスの四男、スペイギール・ヘリオスだ」


 少年の名乗りに、ざわめいていた村人たちが一瞬にして口を噤む。

 水を打ったような静けさで、スペイギールの高らかな声がアーチを編みあげた天井にこだました。


「騙すつもりはなかった。けれど、名前を聞かれてスペイギールとは名乗れなかったから、とっさに嘘をついてしまったんだ。本当にごめんなさい」


 謝罪を聞き、事情を掴めずにいるエングラー大司教や修道士たちが目を剥いた。

 まだ十六歳の若者といえど王に匹敵する身分のスペイギールが、たかが農夫らに謝罪する道理など、彼らの辞書にはないのだ。

 あわてて止めようと壇上に近づく大司教を、スペイギールの背後に控えていたラズウェーンが制止する。

 かたや、村人たちの応えはない。不気味なほど堂内は静まりかえっている。

 それでもスペイギールは怯まずにあごをあげ、隅々まで届くように声を張りあげた。


「みんな知ってると思うけど、おれは父や兄のように立派な人間じゃない。森に囲まれた辺鄙な村で育ったから、世情には疎いし知識もたりない。ヘリオスの当主になるには頼りないと思う。けれどここに来て、村の人たちと関わって、ゲルツハルトが好きになった。だから、ここの生活を守るために、おれは最大限努力する。おれが――当主のおれがしなければならないから」


 身廊に詰める彼らから、すでに衝撃は去っている。視線は壇上のスペイギールを品定めするそれだ。

 渇いた喉がごくりと鳴った。

 聴衆の耳が、続くスペイギールの言葉にそばだてられる。


「……期待に応えられるか、正直自信はない。けれど、おれにできることは何でもする。未熟だけど、どうかよろしくお願いします」


 スペイギールは壇上で勢いよく頭を下げた。首から提げた星護符が振れて、カツン、と講壇に当たる。

 小気味よい高音は思いのほか堂内に響き、側廊を隔てる列柱をすり抜けるとやがて天井へと上っていった。

 その余韻も消えてしまうと、冷ややかな沈黙が戻った。

 耐えきれなくなり、スペイギールはそろりと頭をもたげた。見あげてくる村人たちの表情は厳しかった。


「……だめかな?」


 媚びるように、首が傾げられる。

 さきほどまでの堂々とした気合いはとうに失せ、講壇に上るにはまだ不釣り合いな少年が、気まずげに聴衆の出方をうかがっていた。


「……まったく、しかたないねぇ」


 反応したのは、身廊の中央付近の席に着くハンナだった。並んで座る家族が、彼女の発言にぎょっと目を剥いている。


「嘘をついたことは許してあげるよ。きっとスペイギールだって名乗られても、あたしたちも信じなかっただろうしね。なあに、今はまだひよっこでも、あんたならご当主様にふさわしい立派な大人になれるさ。セインが誰にでもやさしい働き者だってことは、あたしたちがよぉく知ってるからね。ねえあんた、そうだろ?」


 同意を求められた夫は、額に脂汗を滲ませながらハンナの腕をこづいた。


「おい、セインじゃなくてスペイギール様だ」

「おっ――と、そうだった。まあそんなわけだ。がんばりなよ!」


 講壇からは遠く離れていたが、ハンナが目尻にしわを寄せて破顔したのがスペイギールにも見てとれた。


「……おう、そうだ。ハンナの言うとおりだな」


 ハンナの前列の男が賛同した。足をくじいたハンナを家まで送ってやってくれと言った男だった。

 すると、石膏で固めたようだった村人たちの表情が、みるみるとやわらいでいく。


「そうだ。おまえならできるぞ、セイン!」

「いい国にしてくれよ。期待してるからな!」

「うちのじゃがいも全部やるから、エウルに負けないようにみっちり鍛えるんだよ!」


 わぁっ、と歓声が起こり、村人が一斉に立ちあがった。

 拳を高くつきあげる男、指笛を鳴らして囃す若者、盛んに手を叩く女。そしてこの騒ぎを収めようとするエングラー大司教の怒声。

 割れんばかりの歓迎の響きは窓を震わせ、天井の梁をも軋ませる。

 収拾がつかないと早々に判断したのだろう。あとを修道士に任せ、エングラーは村人の声援に手を振って応えるスペイギールを外へ連れ出した。

 こめかみに青筋を浮かばせた彼に逆らう気は、さすがにスペイギールにも起こらなかった。いずれにしても、村人の興奮が収まるまではまだしばらくかかりそうだ。

 無言で追いかけてきたカールステット侯爵が、回廊の途中で合流する。

 修道院長の館の広間へ連れこまれるや否や、エングラー大司教の怒声が炸裂した。


「スペイギール様、どういうことですか! 詳しく説明していただきたい!!」


 まるで目の前に落雷が落ちたような迫力だった。

 普段から説教壇に立ち、大勢の前で声を張りあげる役が多いせいか、彼のそれは常人よりもよく通る。

 おかげで鼓膜がびりびりと痺れていたが、スペイギールはなるべく殊勝に見えるようにうなだれてみせた。


「大司教にも、侯爵にも、本当に悪いことをしたと思っています。迷惑をかけて申し訳ありませんでした」

「謝罪がほしいのではありません。私は、さきほどの村人とのやりとりの内情をうかがっているのです! ようやく礼拝に参列したいとおっしゃるので、さぞ崇高な決意とともにご立派なお言葉をかけていただけると期待していたというのに、あれではラスミアとヘリオスの尊厳が損なわれてしまうではありませんか! まったく、嘆かわしい!!」

「……期待を裏切ったみたいで……」

「ええ、裏切られました。ですから、私の信用を取り戻していただきたい」

「スペイギール様、私も説明を求めます。いつのまに村人と交流を重ねておいでだったのですか」


 侯爵はエングラーほど怒りをあらわにしていなかったが、不満を抱いているのは眉間のしわの深さからしてたしかだった。

 父親と同世代――あるいはより上の大人に責められてスペイギールは臆しかけたが、これまでのように逃げ出すわけにはいかない。

 腹に力をこめ、気合いを奮い立たせる。

 怪我をしたハンナを助けたことを機縁として、村との交流をひっそり続けていたと説明すると、二人はそろって渋面を浮かべた。

 彼らは、スペイギールが午後の時間を修道院の探索に充てていることを把握していたものの、その範囲は修道士がめったに立ち入らない教会堂の裏――つまり墓地や礼拝堂の周辺だと思いこんでいたのだ。


「……ラズウェーン殿、あなたはご存じだったのですか?」

「昨日、スペイギール様からうかがいました」


 事も無げに告げるラズウェーンの態度に、彼らの不満はますます燻る。


「なぜ我々にも教えてくださらなかったのですか」

「スペイギール様から頼まれませんでしたので。それに、私の口を介するのではなく、ご自身でお二方に打ち明けねばならないことです」

「ラズウェーンの言うとおりです。おれが二人に事前に伝えなかったのが悪いんです」


 彼は自分の代わりに矢面に立っている。そのことにスペイギールは初めて気がつき、あわててラズウェーンを庇った。


「これからは、事前に相談します。そして、至らないところを教えてください。さっき壇上で言ったとおり、おれは無知で凡庸で、未熟な人間です。今のままでヘリオスの当主を務められるとはとても思えないし、当然自信もありません。でも、できるかぎりやってみます。ですから、侯爵と大司教にはたりない部分を教えてほしいんです」


 両の拳を握りしめ、決意とともに彼らに乞う。


「どうか、当主としての教育をおれに授けてください。お願いします」


 スペイギールの双眸に強い光が宿ったのを知り、エングラーは深くため息を吐いた。


「……ええ、当然です。もとよりそのつもりでした」


 眉間を押さえながら首を振る彼のしわは、いまだに濃い影をその肌に刻んでいる。しかし、まとっていた不満の鎧は脱ぐことにしたようだ。


「スペイギール様には、早急に当主としてのふるまいを覚えていただかなければなりません。本来ならば、先代の背中を見て学ばれるのが理想的なのですが……」

「姉さんから事情は聞きました。いまさら蒸しかえす必要は――」

「ええ。ですから、短期間ですべてを習得していただかなければならない。アストルクスには入れませんが、あなたはすべての主の信徒を導く総大司教なのです。総大司教は聖職者であり、地上における主の化身でもあります。世のあまねく人々に主の教えを授け、魂の幸いに至るように努めなければなりません。わかりますね?」


 カールステット侯爵が続きを引き継ぐ。


「スペイギール様には総大司教としての心得はもちろんのこと、為政者としての知識も身につけてもらわなければなりません。ヘリオスを支持、支援する領主の名とその者の地位、性格、家族構成、領地の特徴や地図上の位置にはじめ、ル・マヌンの勢力図の把握、アストルクスの宮廷内の事情も一通りは覚えていただかなければ。国内の地理や街道についても把握なさるといいでしょう。まずは、この国をご自身の掌上に正確に描けるようになってください。それから、人という駒を動かす術を。剣術は習っていると聞いていますが?」

「あ、はい。一応……」

「では、すぐにでも鍛錬を再開していただきましょう。勉学に関しては学者にすでに連絡を取っていますので、近いうちにこちらへ招喚できると思います」


 侯爵は着々と今後の予定を組み立てていく。聞いているだけで目が回りそうだ。

 そこへ、大司教からも追い打ちがかけられる。


「ではスペイギール様、さっそく日没の礼拝に参加していただきましょう。本来は一日六回の礼拝がこの修道院に詰める聖職者の義務ですが、勉学にお忙しいでしょうから、朝と日没の二回のみでけっこうです。聖典の講釈については別途時間を取らせていただきますが、よろしいですね?」

「……あの、おれ、正式な礼拝に参加したことがなくて……。作法をまったく知らないんですが……」

「では、今からお教えいたします。夕方までには充分覚えられますよ」


 ようやく眉を開いた大司教の提案を断れるはずもなく、スペイギールは不承不承にあごを引いた。さっそくの要求の多さに、出鼻を挫かれそうだった。

 だが、自分で受け入れると決めたのだ。たとえ眩暈のする日々が待ち受けていようとも、今まで家族に真綿にくるまれるように守られてきた分、今度はスペイギールが流れる血の義務を果たさなければならない。

 初めてまとった、薄明の空を思わせる群青のローブは、成長途中の肩には想像以上に重かった。

 それでも一度手に取った以上は、脱ぎ捨てるわけにはいかなかった。

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