第12話 義姉(2)

「……アダールが言っていたの。ギールには家を継がせたくない、って」


 ゆったりと流れる時間に溶けこませるように、ヘスティアがささやく。


「自分が一族の汚辱を雪いでアストルクスを取りもどす、自分で終わらせるんだ、ってね。小さな弟には苦労させたくないから……、村で幸せに笑っていてほしいからって。血腥いことは教えたくなかったから、いつまでも修道院に呼び戻さずに、村で預かってもらっていたんですって。寂しい思いをさせるけれど、それがギールのためだから、家族で話しあって決めたって言っていたわ」


 背を丸めたスペイギールの手に力がこもる。

 身体の熱が、背筋からすうっと奪われていく気がした。


「ギールには好きな女の子がいるんだって、笑って教えてくれたわ。どうせ大きくなったら忘れるんだろうって、みんな気にしていなかったんだけど、いくつになっても忘れなくて……むしろもっと本気になっていって。本人もわかっているんだろうけれど、そういう気持ちって思いどおりにはならないものだから」


 顔を腕のあいだに埋めたスペイギールから、重いため息が落ちた。

 そうだ。一度だって思いどおりになったことなんてなかった。

 誰もが言うように、子どもの戯言で終わればよかった。そうすればエオルゼの言動にいちいち悩まずにいられたし、スペイギール自身もどれほど楽だっただろう。

 それでも、わかっていても、未練がましく想いつづけてしまう。

 セインやアルトゥールにやきもちを妬いて、エオルゼの注意が自分へ向いてくれるように毎日願ってしまう。心臓の中心で熾火となってくすぶっている感情を、無視することも消すこともできずに。


「本当は聞いてやりたいんだけど、ヘリオスとしての立場上とても難しいことだから、叶えてやれない。たとえアダールが総大司教の椅子を取り戻せても、無理かもしれない。でもね、あなたが心も身体も何にも囚われずに思うがままでいることが、家族の希望だったから。それが亡くなった家族の願いだったから。だから自分が一族の悲願を果たすんだって言って――」


 震えた声はやがてか細くなり、静寂に消えた。

 沈黙が荊となって全身にからみつき、スペイギールを苛む。


「……ごめんね」


 ひときわ大きなとげが深奥までのめりこみ、深く胸を抉っていった。

 耐えられなくなり、スペイギールは勢いよく頭を上げると、瞳を充血させたヘスティアをまっすぐに見すえた。


「ちがう。なんで謝るんだ」

「でも……っ」

「父さんや兄さんの何が悪いんだ。姉さんだって悪くない。謝る必要なんてないんだ」


 つ、とひとすじの涙が、なめらかな頬を伝っていった。

 ヘスティアはくちびるに白い前歯を食いこませ、小刻みに震えながら嗚咽を抑えていた。そんな彼女に含めるように、スペイギールはていねいに続けた。


「おれ、父さんや兄さんこと、恨んでないよ。家のこともエオルゼのことも、覚悟してた。でも、いざ身に降りかかると迷ってばかりで、どうしていいのかわからなくて……」


 次々とこぼれおちる涙は、庭仕事で汚れた指先では受けとめきれず、ヘスティアの膝にいくつも染みを作っていく。

 ゆがんだ紅唇からはついに嗚咽がもれ、それに誘い出されてますますと膝が濡れそぼった。

 きっと、彼女は夫を亡くしてから一度も泣く機会を得られずにいたのだと、スペイギールは悟った。アダールの妻として、アルトゥールの母親として、誇りとともに背筋を伸ばしつづけてきたのだ。

 それはスペイギールも同じだった。墓前に日々足を運んでいても、彼らの死を咀嚼できずに抗っていた。今まで本当の意味で家族を悼めずにいたのだ。


「……父さんの顔はあまり覚えていないし、アダール兄さんと最後に会ったのも何年も前だけど、みんながおれのことを守ってくれていたのはよく知っていたよ。おれが村で安穏と暮らしている一方で、父さんや兄さんが命を的にかけていることも。知っていたけど、目を瞑っていたかった」


 胸の痛みはいつしか熱となってスペイギールの喉や鼻にこみあげ、つんと目頭を熱くさせた。

 抉られた傷は手もなく癒やせるほど浅くはない。けれども、今ならその痛みを素直に受けとめ、自分の内に招き入れられる気がする。


「おれさ、修道院に移ってから、当主らしいことを何もしてないんだ。今まで森の中で育ってきて、いきなりヘリオスの当主としてふるまえって言われて、おれにそんなことできるはずがないって部屋でずっと拗ねてる。修道士や村の人にお披露目もしてない。何も知らないのにそんなの理不尽だ、って」

「……ごめんなさい。何年も前から、アダールのそばで学ばせた方がいいって、エングラー様から説得されていたの。でも、そうしたら畢竟、戦場にも連れていくことになるからいやだって……全部アダールのわがままよ」

「責めてるんじゃないんだ。ただの愚痴だから、聞き流してよ」


 鼻まで真っ赤にしたヘスティアの顔をのぞきこみ、スペイギールはぎこちなく笑った。


「おれはあそこでひとりで、何もわからなくて、周りから責められているようで苦しかった。ここへ来たのは、アルトゥールや姉さんに会って、おれの知らない家族の話を聞けば、何か解決の糸口が見つかるんじゃないかって思ったからだ」


 湿ったまつげを瞬かせて、ヘスティアが問う。


「……見つかった?」

「わからない。でも、来てよかったと思う。兄さんのことで一緒に泣ける相手がいて、すごくうれしいから。ずっと墓石を相手にひとりで悶々とするしかなかったからさ」


 すん、とスペイギールは洟をすすった。


「おれは多分……みんなが敵に見えて頑なになってたんだ。だから耳を貸さなかった。現実は変わらないし、姉さんから話を聞いて責任の重さが増した気もするけど……けれど、兄さんのために泣いてくれる姉さんだから、こうして二人で話せたんだと思う。……本当に会えてよかった」


 ヘスティアの手がスペイギールの肩にふれた。

 肌は荒れていたものの、華奢で小さな手のひらだった。


「アダールはいつもあなたのことを気にかけていた。あなたは家族にとって大切な宝物よ。そしてわたしにとっても、大切な義弟だわ。どうかそれを忘れないで」

「うん。ありがとう」


 深くうなずくと、ヘスティアは赤く腫れた目を細めて、ようやく元の笑顔を見せた。

 丸い頬がふっくらとすると幼く見えるが、外見よりずっと一本芯の通った強い女性だ。そうしたヘスティアの強さをアダールは好んだのだろうかと、スペイギールは頭の隅で思った。

 おかあさん、と幼い声がバラの木を飛び越えてくる。まだ舌足らずな、アルトゥールの声だ。

 そろって畑の方を見やると、エオルゼに手を引かれながら戻ってくるところだった。


「やだわ、二人してこんな顔して。さあさあ、おやつの時間にしましょ」


 手の甲で顔を拭ってから、ヘスティアは立ちあがって小さな影に手を振った。

「アルト!」と応える彼女の面にすでに憂いはなく、駆けてくる息子を満面の笑みで抱きとめる。産毛のようにふわふわとした金髪を愛おしむように撫で、紅潮した頬にくちづけると、アルトゥールはくすくすとくすぐったそうに笑声をあげた。

 機嫌がよさそうだったので、スペイギールもそうっと小さな頭に手を伸ばしてみる。

 目が合った瞬間、アルトゥールは顔をしわくちゃにしてヘスティアのうしろに隠れてしまった。

 母親の腕にしがみつきながらじっとりと睨めつけてくる円い瞳に、スペイギールの心はまたもや折られてしまった。


「アルト、お兄さんがいい子いい子してくれるって」


 ヘスティアがうながしても反応はない。

 根比べのように、自分と同じ色をしたスペイギールの目を凝視するだけだ。

 やがて飽きたのか、アルトゥールは目をそらし、家へ入ろうと駄々をこねだした。ヘスティアの肩が落ちる。


「ごめんなさいね、ギール。この子って本当に頑固なの」


 誰に似たのかしら、とヘスティアはため息を吐きつつ、アルトゥールの小さな手を引いた。

 先だって戸口へ向かう母子のうしろ姿を見送りながら、スペイギールも立ちあがって膝の汚れを払う。


「……あれでも、スペイギール様が気になるようです」


 ともすれば聞き逃してしまいそうな、遠慮がちな投げかけだった。数歩の距離をおいてたたずんでいたエオルゼだった。

 アルトゥールには見せていた、陽だまりのように穏やかな表情はない。

 どこかに落としてきたのか、それともアルトゥールが持っていってしまったのか。

 それでも、その顔に以前の虚ろさはなく、瞳はたしかに目の前のスペイギールをとらえている。


「泣き叫ばれなくなっただけ、進歩したのかも」


 強がってみせると、榛色がほんの少しだけぬくんだ気がした。

 陽射しの気配に、スペイギールの口元にも微笑が灯る。

 それ以上の反応は返ってこなかったが、彼女のささやかな気づかいだけで、今は充分だった。



◇◇◇



 日々は疾風のように過ぎ去っていった。

 約束の四日目の朝、旅支度を終えたスペイギールたちは巡礼用の杖を握った。

 家臣らが寝泊まりしていた天幕は片づけられて、村は以前の閑散とした風景を取りもどしている。

 地上がふたたび静穏な日常に就こうとする一方、空は抜けるような快晴で、シジュウカラが錦秋に着飾る木々の枝々を高らかに歌いながら飛び移っていった。


「お世話になりました。姉さんもアルトも元気で」


 村の門まで見送りにきてくれた二人を振りかえる。

 眠たげなアルトゥールを抱いたヘスティアは、寂しそうに微笑んだ。


「ギールも気をつけて。またいつでも会いにきてね」

「うん。また来るよ」


 背負った荷には、ヘスティアがわけてくれたパンや木の実、干し果物がたんまりと詰められている。復路の食料も用意していたが、徒歩の旅には体力が必要だろうと快く譲ってくれたのだ。

 あと一か月もすればこの村も雪に閉ざされ、暗く厳しい冬を家に籠もってやりすごすのだろう。

 まだ若い母親と幼い子どもが、二人きりでかまどの火の暖を取る姿を想像すると、胸が塞がる思いがする。スペイギールにできるのは、今年の冬が厳しくないよう女神に祈ることぐらいだ。

 別れがたくてぐずぐずしていると、ラズウェーンに出立をうながされた。「わかってる」とあしらい、母子に改めて向きあう。


「体調を壊さないように気をつけてね。風邪をひいたらニワトコのお茶を淹れてもらうのよ。あと、ギールが好きだって聞いたから、くるみをたくさん入れておいたわ。おやつに食べて」

「あ、ありがとう。あの、姉さん」


 スペイギールの表情が引きしまったのを見て、ヘスティアが首を傾げる。


「どうか、アルトゥールをよろしくお願いします」


 深く頭を下げるスペイギールの真意を察したのだろう。

 顔をあげたとき、彼女は四日前に出迎えてくれた気品ある貴婦人をすでに装っていた。


「アルトゥールはわたくしが責任を持って育てあげますので、どうかご安心ください。しがない女の身ではありますが、ヘリオスに嫁いだ者として、心血を注いでお役目に徹します」


 そうして、ヘスティアは頭を垂れて深く膝を折った。


「スペイギール様に、ますますのご多幸と一族の弥栄いやさかがもたらされますよう。皆様にラスミアの恩寵と慈悲があらんことを、お祈りもうしあげます。どうか御身をお大切に。主とヘリオスの御力みちからで、この国を覆う雲が払われる日を心待ちにしております」


 亜麻のワンピースにエプロンをした農婦姿の彼女は誇り高かった。そしてスペイギールへの祝辞には、真白い祈りがこめられていた。

 まだ暖めやらぬ朝の清澈せいてつな空気が、スペイギールを背中からすっと貫く。提げた星護符がわずかに揺れたが、すぐに胸の上で落ち着いた。


「ありがとうございます。二人にも主のご加護がありますように」


 アルトゥールはいまだに舟を漕ぎながら、ヘスティアの首にしがみついていた。

 眠気と戦いながらスペイギールを観察しているが、いまにも真っ青な瞳に蓋をしてしまいそうだ。

 静かに近づき、そっと頭に手を伸ばしてみる。

 やわらかなくせ毛を撫でても、アルトゥールは泣きわめかなかった。ことりと頭をヘスティアの胸元にあずけ、片目だけをのぞかせてスペイギールの出方をうかがっている。


「またな、アルト」


 赤ん坊のようにふくふくとした手で、アルトゥールは撫でられた場所をくしゃくしゃと掻き乱した。

 毛先がくすぐったいのか、あるいは本人にもそれなりに髪型のこだわりがあるのだろうか。

 しばらくして気が済んだアルトゥールの小さな耳朶に、ヘスティアが何かをささやく。まつげがぱちりとあがり、ためらいとともにスペイギールを向く。


「さよぉなら」と、眠たげな声がした。そして何もなかったように、アルトゥールはまた顔を隠してしまった。

 たったそれだけの動作が思いのほか愛らしくて、その瞬間、スペイギールの中で憎らしかった甥がかわいい存在に変身してしまった。

 アルトゥールがふたたび別れを告げることも、つぶらな瞳を向けてくれることもなかったが、それさえもいじらしく思える。


「さようなら、アルト。お母さんのいうことをよく聞くんだぞ」


 もう一度、生糸のようにつややかな髪に触れる。さらさらと指のあいだを滑っていく感覚が心地よかった。

 名残を惜しみながら手を離し、ラズウェーンにうなずく。低くよく通る声が出立を告げた。

 杖にくくりつけられた魔除けの枝を揺らしながら、巡礼者の一行が森へ伸びる小道を進み出す。

 彼らの姿が黄葉した木々に隠され、やがて下草を踏む足音が聞こえなくなるまで、母子は村の門に立ちつづけていた。

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