第10話 当主という立場(2)
「何か気に入りませんでしたか」
スペイギールはぎょっとして、アリを追うのを中断した。
睫毛の影から、エオルゼの双眸がひかえめにこちらをうかがっていた。
「……別に」
「不躾な発言をしたのなら謝ります。そうでないのなら、どうか気兼ねせずにおっしゃってください。スペイギール様はわたしたちの主君なのですから、臣下に遠慮などなさらずに――」
ぴくり、とスペイギールの眉が跳ねる。エオルゼの言葉が途切れた。
今まで長くまじわることのなかった榛の瞳が、スペイギールに集中していた。
少年の寄せられた眉根を、金色のまつげの下の碧を、土の残る頬をたどり、やがて確かめるようにゆっくりと瞬く。
「『当主』、が嫌なんですか?」
動揺が全身に走った。ふいっと顔をそむけて追及から逃げたが、答えはエオルゼにも伝わっただろう。
「……責めているわけじゃありません」
子どもっぽいとは思いつつも、スペイギールはだんまりを決めこんだ。肯定も否定もできなかった。
当主という立場が嫌なのは事実だ。スペイギールはいまだに自分の運命を受けとめられないでいる。
順番だと言われれば、そのとおりだ。父も兄も、順番に役目を負ったのだから。
それでも、スペイギールにはヘリオスとしての自覚が備わっていない。そして当主が実際にどういう立場であるのか、何をすればいいのか、何を求められているのかも知らない。
義務を把握し、行動に移すための知識も与えられず、まっさらな状態で重荷だけ背負えと急かされているのだ。
そのうえ、長年夢見てきたエオルゼとの将来も望みが薄いとなれば、どうして今後に価値が見出せるだろうか。
不満をぶつけていたアリも見失い、返す言葉も思い浮かばす、勝手に立ち去る図太さもなかった。
頭上でざあっと大きく枝が揺れ、梢で休んでいた小鳥がかしましくさえずりながら飛び立っていく。最後の一羽がチチチと笑って、空の向こうへ姿を消した。
ちらり、とエオルゼを盗み見る。
幾重にも重なりあう枝葉の隙間から垂れた木もれ日が、彼女の髪の上で細かく砕かれ、暗夜の綺羅星のように瞬いていた。緑と光にあふれた林のもとで、なめらかな頬は青白さをいっそう際立たせている。
ぼんやりと木々を眺める横顔は大人の女性なのに、あどけない少女の面影もどこか残っていた。
そのどちらからもスペイギールへの批難や諦念はくみとれず、さきほどの言葉が嘘ではないと示している。
それに立ち去る素振りもないのは――きっとスペイギールが語るのを待ってくれているからだと、思いたい。
「……エオルゼ」
慎重に呼びかけると、エオルゼはスペイギールへ注意を戻した。
「はい」
「あのさ……、聞きたいことが、あるんだ」
エオルゼがあごを引いたのを確かめる。
今度は、彼女の意識に自分がはっきりと存在している。
緊張に乾いたくちびるを舌でなぞってから、スペイギールは続けた。
「……ヘリオスの当主って、何するの」
あまりにも突拍子のない、愚かな質問だった。
その証拠に、エオルゼの濃やかな眉がはっきりと曇った。
「それは……ラズウェーン様にうかがった方がいいかと思います。あるいは侯爵に相談しては……」
「ラズウェーンは御託ばかり並べるからいい。エオルゼから見て、ヘリオスの当主ってどういうもの?」
長く抱いてきた不満を疑問としてぶつけられるのは、スペイギールにはエオルゼしかいなかった。
一緒に育ち、慕ってきたからこそ、彼女の言葉なら素直に耳を傾けられる気がした。
それに目に見えない隔たりはあるものの、少なくともエオルゼは今のスペイギールに偏見を抱いていない。
エオルゼは沈黙ののち、説教壇に立つ司祭のように厳かな口調で答えた。
「ヘリオスの当主は、人々の頂点に立つべき存在です。女神から賜った名を戴いて世の中を光で照らし、人々に平和と安寧をもたらす。慈悲深き女神の恩恵を人々へ施し、幸福へ導くのが役目です」
今まで耳にたこができるほど聞いた、異口同音の返答だった。エオルゼなら、きっとちがう意見を与えてくれると期待したのだが。
「……まるで神様みたいだ」
「神様と同じです。事実、女神の血を引くのですから」
「エオルゼやセインだって、女神の子孫だろ。ラズウェーンだってそうだ」
「わたしたちは兄弟としてヘリオスに仕えるように、女神から言いつけられています。治める者はヘリオスである、と」
それは聖典にも記載されている故事であり、四晶家が二千七百年余りの歳月をヘリオスとともにしてきた、最大の理由である。
女神シェリカが何を思ってひとりの息子を後継に指名し、ほかの子らを臣下に任命したのか、知るよしはない。しかしそれは強固な結束を生み、数千年に渡って、ヘリオスと四晶家を繋いでいる。
「スペイギール様のお役目は、ジャン=ジャック国王とダライアス・エウル=ヘリオスを征し、アストルクスへ凱旋を果たすことです。そして、ふたたび総大司教位に就き、正統な女神の末裔として人々の導き手となるのです」
「……おれは神様じゃない。父さんや兄さんが何をしてたのか知らないけど、治める者には向いてないと思う。ラズウェーンの方がよっぽど向いてるよ」
スペイギールはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言い捨てた。期待したのがまちがいだったようだ。
「ヘリオスの当主はスペイギール様です。ラズウェーン様は補佐にはつけますが、当主にはなれません」
諫言か、あるいは慰めなのか。
スペイギールの胸には響かずに、微風に乗ってどこかへ流されていく。
(おれは神様にはなれない)
おのれに流れる血が女神に所以するというだけで、特別な能力も持たない自分が世の中を導けると思いあがれるほど、スペイギールはうぬぼれていなかった。
四晶家を筆頭とする家臣団、カールステット侯爵やエングラー大司教などの支援者、そしてヘリオスを慕ってくれる蒼生の期待に応えられる自信もなければ、応えたいとも思えない。
しかし、駄々を捏ねれば解放してもらえるわけではなかった。
甥のアルトゥールはまだ幼く、ヘリオス家を担えるのは自分しかいないと、スペイギールもよく理解している。逃げ道はないのだ。
奥歯を食いしばり、きつく拳を握る。
心の奥底から湧きあがってきた強風がスペイギールの背に吹きつけて、彼を攫おうとする。
激しく渦巻く情動に抵抗するすべは、それほどない。いつからか胸に巣くった暗い淵に落ちていかないように、両足を踏ん張るのが精一杯だ。もし落ちてしまったら、悲しみや孤独に食われて自分を失ってしまう。
やがて嵐が通りすぎたころ、スペイギールはゆっくりと全身の力を抜いた。
虚脱感だけが鉛のように残っていた。
「……スペイギール様は、あの村をどう思いますか」
うなだれるスペイギールの耳朶を、かすれた声がそっと撫でた。
エオルゼの質問の意図は量れなかったが、ふれた声の心地よさに口を開く。
「……いい村だと思う。みんなやさしいし、いつも笑ってて賑やかだ」
正直な感想を述べると、エオルゼも「はい」と同意した。
「国王とエウルの専横を止めて……内乱を終わらせて、ああいう村を増やすのがスペイギール様の仕事なのだと……わたしは思います」
木立を抜ける風に攫われてしまいそうなかぼそさで、エオルゼは語る。
「難しいとは思います。ですが、あなたしかいないのです」
慰撫と思えるほどやさしくはない言葉だった。けれども、かさついた声音の端に、ほんの少しぬくもりを感じた気がした。
熱はスペイギールの耳殻へ移り、首すじを伝って胸の底へ落ちていく。暗い淵に落ちればあっというまに呑まれてしまったが、足跡ははっきりと残していった。
「……余計なことを言いました。では」
「えっ? エオルゼ?」
軽く会釈をしてから踵を返した彼女を、思わず呼び止める。
「おれが村にいたこと、怒らないの?」
ひとつ瞬いてから、首が横に振れる。
意外なことを言われたと、スペイギールを仰いだ面が語っていた。
「わたしには、怒る権利はありません」
「おれ、てっきり怒られるのかと思ってた」
「なぜ村にいたのか聞きたかったのです」
なるほど、とスペイギールは納得した。今までの会話で、エオルゼなりに理由を推測したのだろう。
「誰かが案内したのですか?」
「ちがうよ。怪我をした村の人を、家まで送っていったんだ。それからなんとなく通ってる。セインからあんずをもらわなかった? あれ、本当は送っていったお礼にもらったんだ」
ふと首を傾げて、エオルゼは記憶をたどるしぐさをした。すぐに思い至ったようだった。
「どうりで……。厨房に顔を出したと聞いたわりには、修道士のあいだで噂になっていないのが疑問だったんです」
「セインには黙っておいて。あいつ、絶対怒るから」
「……わかりました。本当にいただいても?」
「いいよ。エオルゼ、あんず好きだろ?」
ふたりきりで、他愛ない会話ができている。それだけで、まるで春が訪れたかのように心が弾むとは。
あまりのうれしさに、スペイギールの頬が弛んだ。
すると、何かに打たれたようにエオルゼの表情が強ばった。つられてスペイギールの笑みも淡くなる。
「……ちがった?」
「いえ……、好きです。ありがとうございます」
エオルゼの緊張がほどける気配はない。近づきかけた距離も、ふたたび遠ざかってしまった。
「ごめん。変なこと言って」
うつむいたエオルゼのつむじに、スペイギールは謝った。
どの発言が彼女を不快にさせたのかわからなかったが、せっかく取り払われた靄にふたたび自分の姿を隠されたくなかった。
エオルゼの頭がゆっくりと頭をもたげられる。
スペイギールを見あげた双眸は木もれ日に細められ、まぶしさにかすかに眉根が寄っていた。
「……変わっていないんですね」
心臓を槍で貫かれたようだった。
衝撃に詰めた息をおそるおそると吐き出し、深く呼吸をする。
「……だめ?」
「いいえ」
一瞬、エオルゼのくちびるが綻んだ気がした。
今にも割れてしまいそうな、薄氷のような笑みだった。
スペイギールが瞬いたときには風が木立を渡り、病葉とともにエオルゼの笑みも持ち去っていた。髪をよけて現れた顔には、もう危うげな感情の揺らぎはどこにもない。
「そろそろ戻ります。スペイギール様は晩餐までにお戻りください」
慇懃に礼をして、エオルゼは修道院へつま先を向けた。耳元で揺れる髪を目で追っていると、鐘楼の時鐘が三時を告げる。
何か予定があるのだろう。時間を知って足早に戻っていく。
木々の葉を透かす日も西へ傾き、陽射しはうっそりと赤らみだしていた。
セインとの約束の夕暮れまでまだ時間はあったが、村へ戻っても叱られた〝セイン〟への哀れみをもって迎えられるだけだ。
寛容で陽気な彼らは、口々に励ましてくれるかもしれない。あるいは、真面目に仕事をしろよと叱咤されるだろうか。
「……おれはおれのままだよ、エオルゼ」
すでに見えなくなったうしろ姿へ、そっとささめく。
ほんの刹那、エオルゼが見せた壊れそうな微笑みが、直前の否定が、スペイギールの脳裏に焼きついていた。幻のように消えてしまったあれは――笑うというより悲しんでいるようだった。
前髪をぐしゃりと掴んで掻きむしる。頭の中で思考の糸がもつれて、毛糸玉のようになっていた。
スペイギールは幹にもたれて、しばらく瞑捜に耽った。
やがて、振りはらうように勢いよく顔を跳ねあげると、土まみれの長靴で自室へと駆けていった。
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