第9話 当主という立場(1)

 翌日から、スペイギールは家族に花を手向けたあと、小川を渡って村を訪ねるようになった。

 想像以上にハンナたちは〝セイン〟を歓迎してくれて、父や兄の話題に身がまえていたのも馬鹿馬鹿しくなるほどだった。

 はじめは午前中に野良仕事や家畜の世話を手伝っていたが、昼餐に遅れると騒ぎになるので、やがて午後から修道院を抜け出すことにした。

 その辺を散策してくると言うと、セインや護衛の兵はいい顔をしなかったものの、夕暮れまでに戻るのを条件に部屋を出してくれた。


 聞けば村人は百人ほどで、全員が顔見知りだと言う。

 女たちの井戸端会議を通じて新人の少年の話は瞬時に村中へ伝わり、気づけばあちこちから気安く声をかけられるようになっていた。

 男手に不足はないものの、母親が労働力からはずれるのは、ハンナの一家にとってはやはり大きな痛手である。

 野良仕事に慣れているスペイギールは重宝されたし、りんごやくるみや栗などの果実の収穫、酒の醸造、家畜の放牧に忙しないこの時期は引く手も数多だ。

 スペイギールは時間の許すかぎり、村の仕事に協力した。

 薪を割るのも、麦酒の樽を運ぶのも、壊れた雨戸を直すのも、すべてが楽しかった。

 修道院へ戻れば、侯爵たちに腫れ物のように扱われながら食事をとり、ヘリオスや家族の偉大な業績について懇々と語られ、最後にはため息を吐かれる。

 最近では、各地からヘリオスを支持する小領主や聖職者が集まってきているらしく、せめて彼らと接見を、と説かれているが、いまだに首を縦に振れずに逃げるだけだ。

 彼らと顔を合わせて、いったい何になるのか。

 ザッヘン教会堂の司祭にされたように、鳥肌の立つ賛辞をひたすら浴びせられればいいのだろうか。

 たっぷりと羊毛や羽毛を詰めた寝台も、毛脚の長いふかふかの絨毯も、つややかに磨かれた書き物机や贅沢品の蜜蝋の蝋燭も、心をざわつかせるだけで慰めにはならない。

 スペイギールに馴染み深いのは、ささくれや節穴のある食卓、つんとした匂いを放つ獣脂の蝋燭で、それらにふれて安心できるのは、修道院ではなく小川を越えた先にある活気に満ちた村だった。


 爽やかな秋風に麦の穂が踊るある日、スペイギールは建てつけの悪い扉の修理を手伝っていた。

 すっかりうちとけた年上の男たちに指示されて、道具や材木を運ぶ。

 井戸水で喉を潤していると、村はずれでわぁっと喚声があがった。


「何だ?」


 そばにいた男と顔を見あわせてから、声のした方へ首を伸ばす。

 男の怒声に女の悲鳴、聞きとれたのは「……げた」「捕まえろ」とわずかな断片のみ。

 騒ぎは道なりにスペイギールたちのもとへ押し寄せてくる。

 いくばくも経たずに人の群れが現れ、その先頭では真っ黒な生き物が彼らから逃れようと、必死に駆けずりまわっていた。

 小さなそれは、四本の短い足をちょこまかと動かして、村人の捕縛をかいくぐる。体を掬われても、身をよじったり噛みついたりして抵抗し、また逃走をはじめる。

 ひときわ高い鳴き声が、晴れわたった秋空を貫いた。


「子ブタか。ブタ小屋から逃げたんだな」


 男はあごをしごきながら呟いた。

 子ブタは菩提樹の植えられた広場へ入り、逃げ場を探してくるくると旋回している。

 村人たちは人間の垣根を作って抑えこもうとしているが、子ブタはわずかな隙間からするりと包囲網を抜け出し、広場を斜めに横切っていく。追う村人が舌を打ち、野次馬がヤジを飛ばした。

 子ブタは一目散に村道を駆けまわった。

 やがてその進行方向がこちらへ向いたと知るや、スペイギールは子ブタの前に飛び出した。


「セイン、捕まえろ!」


 突然現れたスペイギールに驚き、勢いのよかった子ブタがぴたりと足を止めた。

 背後には追っ手が迫っており、退路はない。

 薄桃色の鼻がひくひくと動き、つぶらな瞳がスペイギールに焦点を絞る。長い睫毛の下から、黒く濡れた目がこちらの出方をうかがっている。

 一歩ずつにじり寄るべきか、とどまるべきか。

 あまり追いかけまわすと子ブタも疲れてしまう。

 なるべく刺激せずに、けれど素早く捕まえなければ。


 先に動いたのは子ブタの方だった。

 突進してくる相手に、スペイギールは四肢を広げて対峙する。

 一心不乱に駆けてくる子ブタがそばを通りぬける瞬間、さっと腕を伸ばして胴体を掬った。

 捕まえた、と喜んだのも一瞬、手は子ブタのあたたかな腹をかすめただけだった。村人の落胆と、子ブタの勝ち鬨のような鳴き声が同時に鼓膜をつく。

 空振りしたスペイギールは肩から転びかけたものの、なんとか体勢を立てなおして子ブタを追った。

 逃げる先には、修道院へ繋がる木立が茂っている。小さな獣は、そこに母親が隠れているかのように必死に走っていく。

 しかし、当然子ブタの母親はいないし、小川にでも落ちたら危険だ。


「待て!」


 まだそれほど距離は開いていない。木立へ入る前に追いつけるはずだ。

 一歩、二歩と、渾身の力で地面を蹴る。懸命に足を動かして距離を詰めていく。

 腕の届く範囲に入ったと同時に、スペイギールは子ブタに飛びついた。

 今度こそ確実に体を掬うと、身を捩って背中から地面に落下する。衝撃が骨を伝って指先まで雷のように抜けていったが、腕は子ブタの胴体をしっかりと抱きしめていた。


「捕まえた!」


 青空へ大声で叫ぶと、足元からわあっと歓声があがった。

 よくやった、でかした、と口々にスペイギールを囃したてている。一方、逃走に失敗した子ブタは、悲痛な鳴き声をあたりにまき散らしながら暴れていた。

 スペイギールは背中を撫でて落ち着かせようとした。短く生えそろった黒い体毛の下からはあたたかな体温が感じられ、近づけた鼻先は湿っぽくて藁と土の匂いがした。


「よしよし、落ち着け。大丈夫だ。よーしよし」

「……スペイギール様?」


 ぴたり、とスペイギールの手が止まる。――まさか。

 道のまんなかに寝転んだまま、首だけを反らして頭上を見やる。

 逆さに映る革の長靴、細身の脚衣、腰のベルトに挟まれた短剣。やわらかい橙色の上着をたどっていくと、白いおとがいの横で栗毛がふわりと風に揺れた。翳った榛色には純粋な驚きが浮かんでいた。


「エオルゼ様!」


 集まってきた村人があっ、と色めいた。

 彼らは突然現れたエオルゼに、首振り人形のようにぺこぺこと頭を下げはじめる。それでも萎縮している様子はなく、ひたすらエルー家当主の来訪を歓迎しているようだった。


「今日はどうなすったんですか?」

「いえ……、騒がしかったので何かあったのかと思って……」


 村人へ向けられていたエオルゼの双眸が、ふたたび足元のスペイギールへ落ちた。

 ぴくりともしない少年の腕の中で、ようやく興奮から冷めた子ブタが薄桃色の鼻をふんふんと頬に押しつけていた。


「おい、こら! エオルゼ様の前で何やってんだ、セイン!!」

「セイン……?」


 眉をひそめたエオルゼに、男は頭をかきながら弁明を始めた。


「いやね、こいつはまだ新入りで、ここのことをよく知らんみたいです。おいセイン、早くエオルゼ様にあいさつしろ」


 つま先で肩をこづかれて、スペイギールはようよう立ち上がった。髪はぼさぼさで全身土まみれ、胸には子ブタを抱いたままだ。

 まわりを囲む村人たちの無言の圧力に負けて、「こんにちは」と小声で会釈する。


「ったく、おまえ、急におとなしくなりやがって。緊張してんのか?」


 近くの男がスペイギールの後頭部をつかみ、こうやるんだよ、と深々と頭を下げさせた。背後の女は背中についた土を払ってくれている。


「……何があったのか、聞いてもいいですか?」


 エオルゼは、うなだれるスペイギールから視線をそらさずに問いかけた。

 はじめに声をかけた男がうなずいた。


「はい。このセインが抱いている子ブタが逃げ出して、捕り物をしてたんです。おかげさまで見てのとおり、無事捕まえました。騒々しくて申し訳なかったです」

「いえ、それならよかったです。……それで、彼は?」

「いや、怒らんでやってください。修道院の仕事が暇なのか、抜け出してきては村の仕事を手伝ってくれてるんです。そりゃ尊いお仕事を粗末にするのはいかんですけど、こいつはよく働いてくれて、みんな助かってたんですよ。子ブタを捕まえられたのもセインのおかげです。どうか許してやってください」

「そうでしたか……」


 ようやくエオルゼの視線がスペイギールからはずされる。


「少し彼を借りてもいいですか? 話したいことがあるので」

「ええ、はい、もちろん。けども、ちょっとばかり大目に……」

「叱りません。話が聞きたいだけです」


 男は自分のことのように胸を撫でおろした。

 四晶家の当主に一介の村人が意見するなど、普通なら不敬と咎められるだろう。しかし、ここでは許されるのか、それとも性格なのか、エオルゼが気分を害した様子もない。

 自分が受けた扱いとはちがうなと考えながら、スペイギールはうながされて彼女のあとを追いかけた。


「……子ブタは返してきてください」

「あっ」


 いまだ大事にかかえていた子ブタは、すっかりスペイギールに気を許したらしく、寝息を立てはじめている。

 スペイギールも愛着を覚えてしまって手放しがたかったが、近くの村人にそっと託すと、とぼとぼと木立を目指した。


 先を行くエオルゼは一度も振りかえらず、小川を渡ってすぐの木陰でようやく足を止めた。

 村からも修道院からも姿が隠れる位置だ。数歩離れて、スペイギールも立ち止まる。

 相手の顔を見る勇気はなかった。うつむき、無言のスペイギールに、エオルゼも一言も発さない。

 黙りこくったまま、頭では必死に言い訳を構築しては消して、またちがうところから引っぱってくるのをくりかえす。

 あれもだめ、これもだめ、これなら――やっぱりだめ。

 あちこちから様々な理屈をでっちあげたが、結局はどれも通用しないと諦めた。スペイギールが修道院から勝手に抜け出しているのは事実だ。


(まあ、いいや。エオルゼもおれになんか興味ないだろうし)


 凪いでいた空気に流れが生じる。

 はっ、として顔を上げたときには、すでにエオルゼは目の前に迫っていた。


「転んだんですか? お怪我は?」


 エオルゼの手のひらが、ぐしゃぐしゃに跳ねたスペイギールの髪を撫でる。

 砂を払ってくれていると気づいたのは、指先が額やこめかみを行き来したからだった。


「……ない。大丈夫」


 スペイギールの目元がじわりと朱に染まる。

 エオルゼの白いまぶたの縁に行儀よく並んだ、睫毛の一本一本までがはっきりと見てとれた。

 改めてくらべると、背のちがいは指四、五本分ぐらいだった。

 けれど、たったそれだけのちがいで、今まで知らなかったエオルゼを知ることができる。上を向いた睫毛がこんなにも長くて、こんなにもやわらかそうだとは、今まで思ってもみなかった。


「エオルゼ――」


 エオルゼの手が離れた。睫毛が上がり、憂いをおびた瞳がスペイギールの碧眼をとらえる。

 スペイギールが息を呑んだときには、すでに双眸は興味を失ったようにそらされて、睫毛の下に隠されていた。

 エオルゼが数歩退くと、ほてっていた頬の熱もさあっと引いていった。


「セインは、役に立っていますか」


 低くかすれた声が尋ねてくる。

 もう彼女を見つめる気も失せてしまい、スペイギールはかたわらの幹の木肌を目でたどった。エオルゼもスペイギールの肩を通りこして、どこかちがうところを見ている。


「……さぁ……」


 ぞんざいな返事をしても、エオルゼは眉根をぴくりとさせることもしない。

 木々のため息が頭上からこぼれ、うなじで切りそろえたエオルゼの髪がそよ風に遊ぶ。


「……お元気そうで安心しました。皆、どこで何をしているのか心配していました」


 顔にかかる髪を避けもせず、目を伏せてエオルゼは言った。腹の底から真っ赤な奔流が迸り、スペイギールの喉を灼いた。


(なんで目を合わせてくれないんだ)


 その理由を尋ねても、きっと彼女は答えてくれない。

 今のエオルゼにとってスペイギールの存在は希薄で、陽炎のように不確かで、関心がないのだから。

 口から言葉が洪水のようにあふれそうだった。衝動を胃に飲みくだして、沈黙で蓋をする。

 詰問して怒りをぶつけても意味はない。

 そう頭では理解していても、胃に押しこめた怒りは鎮まらず、ふつふつと煮えあがる。

 愛称で呼ばないのが気に入らない。セインに強要した敬語も気に入らない。笑ってくれないのも気に入らない。男装をしているのも、髪を切っているのも気に入らない。

 一度挙げると止まらなかった。

 あれもこれもと不満を並べ立てていくうちに、スペイギールの眉間にだんだんとしわが寄り、苛立ちがあからさまになった。くしゃくしゃにしかめた横顔は若木に向けられて、幹を這うアリを親の仇のように睨めつける。


 心配していたと言うが、いったい誰がスペイギールを心配するのか。

 セインでさえ、最近のスペイギールには手を焼いているのに、ヘリオス当主としてのふるまいを望むラズウェーンたちがいちいち所在を気にするとは思えない。

 彼らの憂慮は、いかにスペイギールの顔見せを無事にすませるか。当主の仕事をさせるか。その二点だ。

 そして今日もどこかで膝をつきあわせては、嘆息しているのだろう。

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