第7話 修道院と村(1)
そのまままんじりともせずに、スペイギールは夜を明かした。
セインが運んできた朝食をとり、身支度を調えたあとも、寝台の上で時間を過ごした。
やがて日が高くなり燭台の影が短くなるころ、またセインがやってきて、階下の食堂へ案内された。
スペイギールや四晶家のために設けられた館は、もとは修道院を訪れた賓客用の施設であり、ヘリオス家の本拠がここに移された際に改装されたという。スペイギールや四晶家の部屋は二階で、一階は食堂や厨房、浴室などの共同施設、家臣団の大部屋や物置が配されている。
広々とした食堂の中央には、大きな食卓が置かれていた。上方の窓ガラスから象牙色をした陽射しが、卓上へまっすぐに降りそそいでいる。
四晶家の当主たちに、カールステット侯爵とエングラー大司教がすでに席に着いており、最奥の上座だけが空いていた。
スペイギールがそこへ着席すると、すぐに昼食が供された。
焼きたての小麦のパンにたっぷりのバター、肉と豆のスープ、野菜とチーズのオムレツに焼いたじゃがいも、ハーブを添えた鶏の丸焼き、コケモモのジャム入りのパイに果物、焼き菓子、
次々と並べられていく皿に、否応なしにスペイギールの喉が鳴る。
「昨夜はよく眠れましたか?」
エングラー大司教に問いかけられて、フォークを取った手が止まった。
ちらりと視線をあげ、すぐに皿へ戻す。
「……まぁ……」
「何かたりない物はございませんでしたか」
「……別に……」
しばらく会話が途切れる。
給仕をふくめた全員の耳が、自分たちの会話に傾けられている気がして落ち着かない。
「何かございましたら、遠慮なくおっしゃってください。ここはスペイギール様のために修道院です。何不自由なく、心地よく過ごしていただくために、我々はいるのですから」
「……ありがとう、ございます」
フォークの先でオムレツを弄りながら答える。切れ目から、細かく刻んだにんじんの欠片がのぞいていた。
「オムレツは苦手でしたか?」
エングラー大司教の正面に着くカールステット侯爵が尋ねた。
「ほかのものを用意させましょうか。ソーセージの方がよろしかったですか?」
「……大丈夫です」
スペイギールは崩れてしまったオムレツをフォークで掬い、口へ運ぶ。
一挙手一投足、すべて見張られているようで、料理の味などまるでしない。それでも、世話を焼かれる方がもっとわずらわしい。
スペイギールが黙々と料理を平らげると、ゆっくりと食事を進めていた侯爵と大司教の安堵がひりりと頬に伝わってきた。
「おかわりはよろしかったですか」
「……はい」
「ご遠慮なさらずともけっこうですよ。スペイギール様は食べ盛りでございますから、お好きなだけ召しあがってください」
「充分です」
いらいらする疳の虫を、腹の中に止とどめるのもひと苦労だ。さっさと部屋へ戻りたかったが、彼らは簡単にスペイギールを解放してくれない。
「スペイギール様。もしよろしければ、このあとの礼拝にご参加なさいませんか。ヘリオスの新しい当主のお顔を拝すれば、皆とても喜びます」
「礼拝、て……」
「ひとこと、お話しくださるだけで充分です。何も難しいことをする必要はございません」
たやすく言うが、スペイギールは正式な礼拝に参加したことがない。
朝と晩、あとは三回の食事の前に短く祈るだけで、村には司祭さえおらず、広場でスペイギールがそれらしく聖句を唱えるだけで村人は褒めそやしてくれたのだ。壇上で修道士を前に語るなど、わざわざ恥を掻きにいくだけだ。
「……疲れてるんで。失礼します」
居たたまれなくなり、スペイギールは席を立った。名を呼ばわる声が背を追ってきたが振り切り、ひとりで部屋へ駆け戻る。
勢いよく自室の扉を閉めれば物音も中までは入ってこられない。どっ、と押しよせてきた疲労感に、どさりと寝台へ身を横たえる。
(昼間っから勘弁してくれ……)
ここでは、落ち着いて食事さえ食べられないのだろうか。
今後一生、見張られながら食べなければならないのだろうか?
想像するだけで頭が痛んだ。気分まで悪くなってきてしまい、足元で丸まっていた毛布を引き寄せて寝返りをうつ。
むりやり食べた鶏の丸焼きとパイが、みぞおちのあたりでぐるぐると回っていた。
麦酒の酒精がつんと鼻に蘇る。酒に弱いスペイギールはそれだけでくらくらとしてしまう。
このまま少し寝よう――と目を閉じたのもつかの間、カールステット侯爵が訪ねてきて散歩に誘われた。
頭が痛いとぶっきらぼうに断って、部屋に閉じこもる。
夕暮れになり、セインに起こされて食堂へ降りたものの、昼と同じ席次では食欲も湧くはずがない。
侯爵と大司教の世辞を浴びながらの夕食は苦痛でしかなく、父ギゼルベルトの武功の話を遮り、体調不良を理由に部屋へ戻ってきたときには、もう何もかもが億劫になっていた。
◇◇◇
翌日、自室で軽い朝食をすませたスペイギールは、家族の墓へ足を運んだ。
あとを追ってきたセインや衛士に墓参りがしたいと言えば、それ以上追及されることなく解放してくれた。
道端の花を摘みながら教会堂を裏へ回り、はちみつ色の墓碑が建ち並ぶ墓地へ向かう。
改めて見渡せば、ヘリオス家以外にも四晶家の名が見つけられた。
スヴェン・エルーと刻まれた墓碑に花を一輪供え、残りを家族へ捧げると、スペイギールはひんやりとした芝生に四肢を投げ出した。
空は灰白色の雲に覆われて、薄雲に透かされた陽の光が草地に淡く落ちていた。
まぶたを下ろしたスペイギールの前髪をそよ風が撫で、耳元で下草がさわさわとささめく。スズメが梢で鳴き、羽虫がぶんと鼻先を飛んでいく。
正午の鐘が鳴り、セインが探しにくるまで、スペイギールはそうしていた。
次の日から、墓参りがスペイギールの日課となった。部屋で燻っているより、芝生で寝た方がずっと気持ちよかった。
自室に引き籠もっていれば誰かが様子をうかがいに来るが、墓地では邪魔は入らない。
修道士の共同部からも離れていたので、彼らの目に止まる心配もないのが気に入った。
修道院の生活はとても忙しい。
まず、夜中に目覚めてから日没後まで、数時間おきに女神に祈りを捧げる日課がある。その合間に祭壇を整え、自分たちの食事の用意や部屋の掃除をし、畑と薬草園の手入れに書物の管理と複写、洗濯などの家事から家畜の世話までしなければならない。
修道院は基本的に自給自足なので、ヘリオス家と四晶家に、その家臣団の食料も院内で生産する必要がある。
しかし、修道士は日々の仕事に追われ、ヘリオス家と臣下たちは支援者である領主や商人との関係維持のために各地を転々とする。当然ながら、畑の世話は見られない。
小川を挟んでゲルツハルト修道院に隣接する村は、農園運営のために作られたものだった。ごろごろしているあいだに食料を背負った村人をスペイギールも見かけたが、墓碑に紛れた少年に気づく者はいなかった。
そうして数日を過ごしたある日の昼前、穏やかな時間に満喫していたスペイギールの耳に一瞬、悲鳴のような音が飛びこんできた。
まどろんでいたスペイギールは身体を起こして周囲をうかがった。
(寝ぼけてただけかな……?)
墓地はスペイギールが寝入る前と変わらず、人の気配はない。
何度かまつげを
空をあおげば太陽は南中近く、そろそろセインが呼びにくるのを教えてくれた。
このままおとなしく昼食に向かうのも癪だ。
ラズウェーンは何か言いたげな視線を送ってくるし、カールステット侯爵もエングラー大司教もスペイギールの態度に落胆を隠せずにいる。
どうせ、幼稚でわがままな自分に呆れているのだろう。
彼らが期待していたのは、若々しい生命力にみなぎった理想高い少年なのだから。
さてどうしたものかと、いまごろ三人で額を合わせているにちがいない。
(そんなこと言われても、無理なものは無理だ。おれは何も教えてもらってないんだから)
村の大人たちや外から持ちこまれた本で最低限の教育は受けたものの、ヘリオス当主としての教えを、スペイギールはいっさい享受していない。
現在、ヘリオス家の当主は聖職者と軍人の役割を兼ねている。総大司教として人々を導き、総大将として国王軍と戦わなければならないのだ。
聖職者としての知識、軍人としての知識。そして主導者としての挙動。
すべてたりないのに、当たり前のように求められてはスペイギールも困る。理不尽さに苛立つのも自然の反応だ。
その点、ここにはスペイギールを責める者はひとりもいない。家族は土の下で、自分たちの上に寝転がる末っ子を黙って見守ってくれている。
呆れているだろうとは一度も思わなかったが、なんとなく、癇癪を宥められているような気がした。
そうするとこのまま姿を暗ますのも気が引けて、傾いていた花冠を直すと、スペイギールは部屋へと歩き出した。
墓地を抜けて、住まいとなっている館の姿をとらえた時だった。
物陰から小柄な人影が現れて、スペイギールは足を止めた。背の高さからしてセインではない。
なるべく他人に見られたくなかったので引き返そうと踵を返したが、人影がふらりとよろめいた瞬間、考えるより先に身体が動いていた。
「何、どうしたの」
駆け寄ると、それは背に大きな籠を負った中年の女性だった。
女はとつぜん現れたスペイギールにびっくりしていた。しかし、ふくよかな肩を支えるために差し出された腕に、ころりと警戒心をとく。
「いやぁね、修道院の厨房に野菜を届けにきたんだけど、途中で足をくじいちゃってねぇ」
麻のワンピースにエプロンをした姿は、ごく一般的な庶民の服装だった。結いあげた髪と頭布は既婚者の証で、草花の刺繍をしている。
女が示した左足は、一見なんともなかったが、左半身は土まみれで、手のひらの皮ふが擦りむけていた。
「送ってくよ。籠、貸して」
「いいのかい? あんた、見ない顔だけど、勝手に抜け出したら叱られやしないかい」
ひやり、と一瞬肝が冷える。
「大丈夫、てきとうに言い訳するから。ほら、腕につかまっていいよ」
片手に籠を提げ、空いた腕を差し出すと、女はしみの散った顔をくしゃくしゃにして、ありがとねぇと笑った。
女に肩を貸して、館とは反対方向へゆっくりと進む。
楢や樫、白樺の茂る木立へ入ると、すぐに一条の小川に行き当たる。丸太を半分に割っただけの橋を女を背負って渡ると、ゲルツハルト村はすぐだった。
壁に囲われた敷地内とは思えない広々とした土地に、石瓦を葺いた民家が連なり、籠や農具を抱えた大勢の村人がにぎやかに行き来していた。
そこかしこから井戸端会議に興じる声や子どもの歓声、それを叱る怒声が飛びかい、村中を取りまいている。
静寂を愛でる修道院とは一転し、人々の息づかいに満ちる光景に、スペイギールは女を背負ったまま呆気としてしまった。
育った村は揺りかごのような温かみにあふれる村だと思っていたが、ここは祭のような熱気に覆われている。
「……おい、ハンナじゃねえか。何してんだ?」
呆然としているスペイギールと背中の女に気づき、ひとりの男が声をかけてきた。
ハンナと呼ばれた女が肩からひょいと顔を出す。
「それがさ、情けないことに足をくじいちまってね。困ってたらこの子が助けてくれたんだよ」
へぇ、と男は首からかけた手ぬぐいで汗を拭い、スペイギールをじろじろと観察した。
「見ない顔だな。新人か?」
「そ、そう。来たばかりなんだ」
「修道士には見えねぇが、兵士にしちゃあ頼りねぇなあ」
「まだ下っ端だから」
「まぁ、ハンナを背負えるだけの腕力があるのは立派だ。がんばれよ、新人」
男はガハハと豪快に笑って、スペイギールの肩を叩いた。ハンナが背中で憤慨していたが、どこ吹く風だ。
「ついでだから送ってやっちゃくれないか、坊主。家はすぐそこだ」
「あ、うん。いいよ」
「じゃあな。無理すんなよ」
今度はスペイギールを労るように叩くと、男は村の奥へと歩いていった。
嵐のようなできごとを咀嚼する暇もなく、ハンナが行く先を告げてくる。
指差した先には平屋建ての民家があり、家の前で野良仕事をしていた父子は見慣れないスペイギールに眉をひそめたものの、すぐにハンナに気づいてあっと声をあげた。
「ハンナ、おまえ何してんだ!?」
ようやくスペイギールの背中から降りたハンナは、仰天している家族になりゆきを説明しはじめた。
どうやら中年の男がハンナの夫で、スペイギールより数歳上に見える青年は息子らしい。騒ぎを聞きつけて家から飛び出してきたのは、十四、五歳の少女で、スペイギールを見あげるなりぽかんと口を開けた。
「そうか……。いや、家内がすまんかったね。重かっただろ?」
「え? いや、大丈夫」
「新人かい? 村に来るのは初めてか?」
「そういえば名前を聞いてなかったねぇ。なんて言うんだい?」
外から来る人間がよほどめずらしいのだろうか。
さっさと戻ろうと思っていたスペイギールは、彼らのあけすけな好奇心に困惑した。
「名乗るほどじゃ……」
「なぁに言ってるんだい! もったいぶるような大層な名前じゃないだろ!」
ハンナが肩を揺らしながらスペイギールの背を叩いた。
足はくじいているが、腕の力は存外強い。何度も叩かれると真っ赤な手形がつきそうだ。
「いい時間だ。お礼に昼ご飯を食べていきな。たいした物はないけど、パンとじゃがいもはたんまりあるよ」
「……ありがとう。でも戻らないと」
「まぁまぁ、いいじゃないか。怒られるのも新人の役目さ。そうだろ……ええと?」
「…………セイン」
根負けして幼なじみの名を告げる。ハンナは満足そうにうなずいた。
「いい名前じゃないか。じゃあちょっと台所仕事を手伝ってくれるかねぇ」
腕から離れないハンナに、人の良さそうな夫、スペイギールに興味津々の子どもたちに囲まれれば、もはや逃げ場はない。
首肯するかしないかのうちに家の中へ連れこまれてしまった。
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