第6話 家族(2)
そんなスペイギールを、根気よく世話してくれたのがエオルゼだった。
スペイギールと同い年の弟を持つ彼女は、小さい子のあつかいをよく知っていた。
「……だいじょうぶ、大丈夫よ。わたしたちが一緒にいるからね」
わんわん泣きつづけるスペイギールを、エオルゼは昼夜を問わずに慰めた。母親を思い出して寝台の影でべそをかいていても、必ず見つけて抱きしめてくれたのだ。
やがて新しい環境に慣れると、スペイギールはエオルゼのうしろを鳥の雛のようについて回った。
一家の主が常に家を空けているエルー家で、長女のエオルゼは貴重な労働力である。少女の仕事を見よう見まねで手伝えば、養母はもちろん、エオルゼが褒めてくれた。
自分の手を引いてくれる、母よりも小さな手のひら。ふたつに編んだ栗色の髪。
幼さの残る頬はほんのりとバラ色で、大人びた表情をする瞳は光が射すと琥珀色に透けるのを知っている。
太陽の下やかまどの火、獣脂の灯りのもとで、うっとりとそれを見つめた。
きらきらと煌めく双眸は、まるで宝石箱から見つけ出した唯一無二の宝物のようで、とても綺麗だった。
やさしくて、あたたかくて、春に咲く可憐な一番バラのようなエオルゼが、好きで好きでしかたなかった。
小さな胸を占めるのは、母や養母に抱く想いよりずっと繊細でずっと熱っぽく、そわそわと浮き足立つものだった。
だから村へ来て一年が経った夏至祭の日に、スペイギールはエオルゼの手を引いて頼んだのだ。
「おれのおよめさんになって」
エオルゼは琥珀の双眸を円くして、それからくちびるに笑みをこぼそうとしたものの、すぐにきゅっと引き結んだ。
スペイギールは四歳だったが真剣だった。それを察したエオルゼも、子どもの冗談だと端から笑い飛ばさずに慎重に向きあってくれた。
十二歳の彼女は悩んでから――実際はふりだったのだろうけれど――、お父さんが許してくれたら、と答えた。
「ほんと?」
「ええ、ほんとう。お父さんが許してくれたらね」
「やくそくだよ? ぜったいだよ?」
「うん、約束ね」
うれしくてスペイギールはぴょんと飛び跳ねた。うれしすぎてエオルゼの周りを二周したところで白い花を見つけ、彼女に贈った。
花冠と伝統衣装で着飾った少女は、まるでおとぎ話のお姫様のようで、今でもスペイギールの記憶の棚の一番大切なところで輝きつづけている。
幼いスペイギールは、父親は絶対に反対しないと考えていた。
そして、秋口に村を訪ねた父に飛びつくや否や、開口一番にエオルゼとの結婚をねだった。
頑丈な腕で軽々と愛息子を抱きあげたギゼルベルトは、まじまじとスペイギールを見つめた。
「エオルゼ? ……エルーの?」
「そう! ねえ、いいでしょ?」
「うーん……。それは……ちょっと無理だなぁ」
世界がひっくりかえったような衝撃だった。
スペイギールは火がついたように泣き喚き、手足をばたつかせて逃げ出した。「おとうさんのばかぁ!」と言い捨てて。
一年の歳月で森の知識を得たスペイギールには、大人たちから隠れるのはとても簡単だった。セインと見つけた老木の洞にもぐりこむだけでよかったのだ。
古木は小さな身体をすっかり暗ましてしまったので、宵の刻になるまで村人にさえ見つけられず、泣き腫らしたスペイギールはギゼルベルトにきつく叱られたのだった。
「ギール。エオルゼは、女神様との約束でお嫁さんにできないんだ。だからわがままを言って、みんなに迷惑をかけたらいけない。おまえは父さんの子なんだから、いい子にできるだろう?」
その場は父が怖くて渋々うなずいたものの、納得はしていなかった。
神様との約束なら、神様にお願いすればいいのだ。神様に許してもらえれば、おとうさんもきっと許してくれるはず。女神様さえ許してくれれば。
そのころは、何も知らなかった。
自分たちが女神シェリカの末裔であり、主従関係にあることも。父がなぜ許してくれなかったのかも、エオルゼがなぜ父親の許可を条件にしたのかも。
「ギール様、セイン。今日は、わたしたちの昔のお話をしましょうか」
数日後の夜、養母はそう誘って寝物語を語りはじめた。
「――遠い遠い昔、おじいさまのおじいさまの、そのまたおじいさまも生まれていないずっと昔、ヘリオス家の息子が四晶家の娘に恋をして、ふたりは結婚しました。息子は家を継ぐと、恋人の生まれた家だけをことさら大事にしました。そして、残りの三家の言うことを全部無視しました。当然、三家は怒りました。自分たちだって一所懸命にヘリオス家のために働いているのに、ご主人様のためを思っているのに、これっぽっちも聞いてもらえないんですもの。
ヘリオス家、レノックス家、シュヴァイツ家、エルー家、バレロン家――女神様の子どもたちは大喧嘩をしました。何年も、何年も、喧嘩は続きました。おたがいがおたがいを傷つけあって、仲のよかった五家はばらばらになってしまいました。
それを天から見ていたシェリカ様は、とても悲しみました。さめざめと泣くシェリカ様をかわいそうに思った雲たちが月の姿を隠し、シェリカ様の流した涙が雨となって、わたしたちの住む地上に振りそそぎました。何日も、何週間も、何か月も、何年も――五家が喧嘩をしているあいだ、ずぅっと。
そうすると大変よね……そう、水があふれて畑がだめになってしまうわよね。森の木の実も採れなくて、動物もどこかへ行ってしまって、お腹がぺこぺこで。みんなとても困ってしまいました。しかもいつもじめじめしているから、変な病気が流行って、亡くなる人もたくさんいました。
そこでようやく、五家は女神様を悲しませた天罰が下ったんだと気づきました。自分たちの行いを反省して、仲直りをして、シェリカ様に二度と喧嘩はしません、同じ家族、同じ兄弟として、ずっと仲良く助けあっていきます、と誓いました。すると雨はあがり、雲は晴れて、うつくしい月がようやく顔をのぞかせたのです」
灯火に頬を橙色に染めて、カミラはスペイギールに微笑んだ。
「だからね、ギール様。わたしたちはみんな同じ。同じだけ仲よくしないといけないのよ」
養母はそう付けくわえると、スペイギールの頭を撫でた。
つまり大昔、スペイギールのように四晶家の娘に恋をした先祖がいたのだ。
当初は祝福されたが、次第にその娘の出身家だけが重用され、権力は一部に集中し、平等であったはずの四晶家の均衡が崩れてしまった。主家の寵愛をめぐって四家は相争い、それは互いの血筋を絶やさんばかりのありさまだった。
おのれの過ちに気づき、深く自省した彼らは、五家のあいだで血を交えるのを女神の怒りに触れる禁忌とし、骨肉相食む愚かな過ちをくり返さないための誓約としたのだ。
けれども、たとえ掟と知っても、芽吹いた気持ちは枯れなかった。
幼い恋心はどんどんと背を伸ばしてスペイギールに根を下ろし、成長とともに大木へと育っていく。
早く大きくなって、うんと強くなって、エオルゼを安心させてあげたい。
セインのかわりに家を継ぐ彼女を守ってあげたい。
自分は絶対に間違えない。大昔の先祖みたいな、ばかな真似はしない。
そもそも末っ子の自分は家督には無縁で、家同士の繊細な事情に口を挟む権利はないのだ。
だから――神様、とうさん。お願いだから、どうか――。
ゆっくりと、まぶたを持ちあげる。
墨色に塗りつぶされた視界にかすかに認めた天井は知らないもので、スペイギールはわずかに戸惑う。
何度かまばたきするうちに、ここが与えられた修道院の部屋だと思い出して、ため息とともに身体を起こした。
(……嫌な夢だ)
漆黒の現実とは異なり、夢の中はたくさんの色や光にあふれていて、そのあまりの落差に頭がくらくらとした。
夢の記憶を消すように、両手で何度も顔を拭う。その刺激がよかったのか、やがて頭が冴えてきて、七度目でようやく意識が現実に馴染むことができた。
疲れていたので夕食もそこそこに寝台へ入ったものの、一度目が覚めてしまったらなかなか寝つけそうにない。燭台の灯りはとっくに消えているし、夜の気配はいまだ濃厚だ。
毛布を引き寄せて頭からかぶり、壁にもたれかかる。
細やかな模様の織られたタペストリーの長い毛脚に背中を埋もれさせれば、胸の前でかき合わせた毛布とともに、ひんやりとした夜気から守ってくれた。
部屋にはスペイギールしかいない。
いつも隣で寝ていたセインの寝息もなく、窓ガラスの外から忍ぶような風の音がときおり聞こえるだけだ。
燭台の置かれた書き物机とクッションを敷いた椅子に、服や小間物を入れる衣装箱、小さな本棚と一人用の寝台が置かれた空間は、一人部屋を与えられたことのないスペイギールには広すぎるようにも感じられた。
しかし、村を出てからずっと他人の目に晒されてきたあとでは、ようやく得た自由だ。
夜中に起き出して膝を抱えていても、誰にも見咎められない。
あれは、大切に大切に、胸に抱きつづけてきた夢だった。今では眩しすぎる無垢な夢。
まだ家族が健在で、スペイギールもきな臭い世情を知らず、隔絶された村で真綿に包むように大切にされてきたころのことだ。
一族殲滅を宣言した国王の軍隊と死闘をくり広げていたにもかかわらず、家族は小さな末弟に外のできごとを教えなかった。エオルゼとの結婚をねだっても叱りつけず、笑い飛ばしもせず、悩むふりをしてくれた。
皆そろって、生ぬるい夢を見させてくれていたのだ。
成長するにつれて現実を知っても、スペイギールは末弟という立場に甘えて目を背けていた。自分は家を継がなくていいと、信じつづけてきた。
その報いなのだろうか。
ついにスペイギールは独りで残されて、エオルゼさえも見向きしてくれない。
エオルゼは腕を掴まれるまで、まるでスペイギールの存在さえ認識していなかったかのような反応を取った。
彼女に会いたくて辛抱しつづけたこの五年、ようやっと会えるのが唯一の慰めだったのに。
(……どうすればいいんだ)
自分がただの田舎者でしかないのは、自分が一番よく知っている。
何か特別な教育を受けたわけでも、秀でた才能を持っているわけでもない。
そんな自分が突然村を連れ出されて、いきなり人々の王と崇められて。家族と思っていた人に跪かれて、慕っていた人には蔑ろにされて。
もう一度、過去に戻りたかった。
けれども、目を瞑れば足元から奈落の底へ落ちていきそうで、ふたたびまぶたを下ろすのさえためらわれた。
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