第3話 夜襲(1)

 雨に霞む民家の向こうに、鈍色の尖塔が、すっ、と聳えている。

 大きな針のような影を指して、あれが今夜の宿だとラズウェーンが言ったとき、スペイギールはひっそりと胸を撫でおろした。全身に寒気が染みついてしまい、道中悩まされつづけていた。

 夏の残り香を含んだ雨はまだ生ぬるかったし、外套には油脂を塗って防水処理をしていたが、内側から来る冷えを抑えるのはなかなか難しい。早く温かいスープにありつきたい。


 教会堂は小さな町のはずれにあり、暮れなずむ雨空の宵に、暗く溶けこんでいた。

 近づくと、空高く伸びる尖塔の先に、鍍金した円い板が掲げられているのが見える。


 あれは女神の信徒――月とともに夜空を巡る星斗せいとの証。あるいは夜を導く満月、恵みをもたらす太陽だと教えてくれたのは、養母のカミラだっただろうか。

 胸から提げた星護符ほしごふも同じ意味を持つ。貧しい者は木の板に、富む者は金の円板に月と星を刻んで、信仰の印とするのだ。

 ヘリオス家だけは、それに太陽を加えた護符を持つのを許されていた。


 教会堂の宿坊は巡礼者用に開放されていて、食料は各自で用意する必要があるものの、最低限の火元と寝床、そして緊急時には医療を受けられる設備が整っていた。

 旅人や巡礼者を保護するこうした機能は、国中に張り巡らされている。それに与るためにもこのなりなのだなと、スペイギールは納得した。


 側廊から中へ入ると、ひんやりとした堂内には、すでに火が灯されていた。

 蜜蝋のまろやかな灯火が宵闇にぼうっと浮かび、祭壇まで伸びる身廊を照らし出している。石灰岩を積み上げた壁は漆喰も塗らずに岩肌のままで、装飾は最奥の祭壇に捧げられた白い花と灯明だけだ。

 まるで岩窟のように素朴でもあったが、凜とした空気は人の強い意思でしか作りあげられないものだった。

 どこからともなく現れた僧は、ラズウェーンと言葉を交わすと、スペイギールたちを宿坊へ案内した。

 若い僧はスペイギールを気にしているらしく、ちらちらと横目で様子をうかがっている。


(なんだ、あの人?)


 いったい、何がめずらしいのか。

 雨に濡れて疲労も溜まっていたので、段々といらいらしてくる。


「こちらをお使いください。すぐに司祭様が参ります」


 案内された部屋を見て、スペイギールは息を呑んだ。

 同時に、僧の行動に合点がいった。

 広い部屋には、立派な天蓋を備えた大きな寝台が、二台置かれていた。羊毛と羽毛を詰めた敷物が何層も重ねられ、蔓草模様に織った防寒用の帳が天蓋から床まで降りていた。

 窓辺の書き物机では、優美な曲線を描く銀の燭台が蜜蝋の火灯りで肌を赤く染めており、小さな棚には、水差しに洗面器、鏡までそろっている。

 昨日の宿とは比べようがない。どう考えても、賓客用の部屋だ。


 荷物を下ろす間もなく、従士を連れた僧侶が駆けこんできた。

 この教会堂の司祭だと名乗った男は、怯んだスペイギールの目の前に跪くと、泥まみれになった靴にためらいなく口づけた。


「このたびは拝謁を賜りまして、まこと恐悦至極に存じます。私どもがお預かりしておりますザッヘン教会堂に、ようこそお越しくださいました。鄙びた地にてご不便をおかけすると思いますが、ご入り用の物がございましたら、どうぞ何なりと申しつけください。……それにいたしましても――」


 スペイギールを見上げた司祭の双眸が、とろけるように細くなる。


「スペイギール様。なんと美しい御髪の色。ヘリオスの名にふさわしいお色にございます。お顔立ちもお父上や兄上様たちと同じく、高貴かつご聡明であらせられる……」


 興奮に目元を朱に染めながら、司祭は出会ったばかりの少年を褒めそやした。

 平凡なスペイギールの容姿を讃え、父や兄に似ているとくりかえし、さすがは女神の末裔だと感嘆の吐息をもらす。女神の神聖さ、ヘリオスの偉大さ、祖父や父や兄たちの功績への賛辞、そしてスペイギールへの期待。間断なく語られる彼の憧憬と理想。

 まるで何かに取り憑かれているようだった。スペイギールは背中が薄ら寒くなっていくのを感じた。


「どうか、夜の礼拝にご臨席ください。ほかの者らも、スペイギール様のご尊顔を拝したいと願っております。皆に、ぜひお言葉を賜りください」


 司祭の手がスペイギールのつま先に伸びた。

 スペイギールは片足をとっさに退けた。

 驚き、そして落胆する司祭の顔を見下ろしながら、足の先から這い上ってくる恐怖に震える。額には脂汗が、どっ、と噴き、蒼い血管の透けるこめかみを伝っていった。


 ――いったい、司祭の目に映っているのは誰だろう。


 少なくとも、スペイギールの知っている『スペイギール』ではない。

 ヘリオスの後継者か、それとも少年の姿をした女神なのか。

 彼にとってスペイギールは、崇拝し、救済を与えてくれる神なのか。


「……司祭殿。拝謁が叶い喜ばしいのはわかるが、スペイギール様は慣れない旅にお疲れである。貴殿がなすべきは、礼拝へのご参列を願い出ることではなく、温かい夕餉を用意し、ゆるりとお休みになれるように持てなすことではないのか?」


 ラズウェーンの低い声が、司祭の申し出を遮った。


「それに今、スペイギール様は巡礼者として行動しておられるのだ。他人に正体を悟られるわけにはいかない。すでに事情を知る者には固く口止めをし、通常どおりにふるまうよう申し伝えよ」

「は、はい。不躾な真似をいたしましたこと、どうかお許しください。すぐにお食事の用意をさせます」

「食堂ではなく、ここでとれるように支度してほしい」

「かしこまりました」


 司祭は青ざめた顔で部屋を飛び出していった。

 スペイギールはよろめきながら近くの寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆った。


(いったい何なんだ……)


 昼間の家臣の発言に、司祭の異常な歓待。

 今まで培ってきた常識ではありえないことばかり起こっている。

 これは現実なのか――それとも夢なのか。悪い夢を見ているだけなのか。

 このままでは、自分が何者かさえ忘れてしまいそうだ。


「お疲れでしょう。夕食まで少し休まれてはどうですか」


 ゆるゆると顔をもたげると、かたわらに男が膝をついてスペイギールをのぞきこんでいた。

 四晶家の一家であるバレロン家の家長、ダシュナだった。

 二十代半ばの彼は気さくな人柄で、身分の上下に関係なく、いろいろな人に話しかけているのを見かける。ラズウェーンの堅苦しい話にスペイギールがうんざりしていると、適度に風を通してくれる貴重な存在だ。


「司祭はあんなことを言ってましたけれどね。実は、彼はギゼルベルト様や兄君と個人的に言葉を交わしたことはないのですよ。だからこそ、スペイギール様にお目にかかれて舞い上がってしまったのでしょうけど」

「……そう、なんだ」

「実はね、そうなんです。年寄りのじいさんが、ちょっとばかり浮かれただけです。大目に見てやってください」


 気を遣ってくれたのだろうか。

 ダシュナが茶化してくれたおかげで、身体をがんじがらめにしていたものが軽くなった気がする。

 室内を見渡せば、あとはエオルゼとセインに、ラズウェーンとシュヴァイツ家のバルクしかいない。バルクもダシュナと同年代で、口数は少ないものの、その落ち着いた雰囲気が今のスペイギールには好印象だった。緊張を解くのには充分な顔ぶれだ。

 兄の死を宣告されてから六日。

 ろくに眠れない日々が続いている。特に今日は雨に打たれたし、精神的にも疲れがひどい。


「……じゃあ、少し寝る」


 はい、とダシュナがうなずいた。

 靴を脱ぎ捨てて、スペイギールは寝台にもぐりこんだ。

 羽毛の布団はやさしくスペイギールを包みこみ、芯から冷えた身体に少しずつ熱を呼び戻してくれる。

 洗濯したばかりの清潔なシーツからは、陽だまりの匂いがした。やり場のない懐かしさが喉の奥からこみあげてきて、胸が切なくなった。


(そういえば、カミラはどうしてるだろう……)


 養母の姿がまなうらを過ぎり、胸の痛みが増していく。

 自分のことで頭がいっぱいで、ついにきちんと感謝も言えずに出てきてしまった。

 血の繋がらないスペイギールを、実の子と同じように慈しんでくれたのに。

 なのに、ヘリオスは彼女から夫も子どもも奪ってしまった。小さな村の小さな家に、一人きりにしてしまった。


(ごめん、カミラ。ごめん……)


 陽だまりの匂いは、育った家の匂いだった。

 セインと転げ回って服を泥だらけにしても、カミラはいつもきれいに洗濯してくれた。庭に干された三人分の洗濯物が青空の下ではためいて――昔はそれも四人分だったけれども。

 ひらひらと空を泳いでいたワンピースを、栗毛の少女が身にまとう。

 風にスカートの裾が揺れるたびに、その下から白いふくらはぎがのぞく。

 くるくるとよく働く少女につれられて、スカートもくるくると回り、花が咲いたようにふわりとふくらむ。陽の下で琥珀色に煌めく双眸を細めて、少女も花のように咲う。


 夜、少女は母親と一緒に、土間の中央に設けられたかまどを囲っていた。

 鍋の底を洗う真っ赤な炎がふたりの肩を黄金に縁取り、足元から伸びる影をゆらゆらと踊らせる。少女がさじで鍋の中をかき混ぜ、母親が仕上げに塩で味を調える。

 食卓には、すでにパンと野菜のオムレツとりんご酒が準備されていて、あとはスープができあがるのを待つだけだ。

 幼いスペイギールはセインと行儀よく席に着いて、料理が出てくるのを今か今かと待っている。

 小さな鼻は、かまどから漂ってくる魅力的な匂いにひくひくと動き、空腹の胃は大きな声で食事の開始を急かす。

 くすくすと母子が笑った。

 もうできるわ、ほうら、おいしそう。

 二人そろって、そわそわと首を伸ばす。口の中はせっかちで、もうよだれでいっぱいだ。

 おまたせ、さあ食べましょう。

 スカートがふわりと翻る。

 満面の笑みを浮かべながら、少女がたっぷりのスープを持ってきてくれる――。


 突然肩を揺さぶられ、スペイギールは現実へ引き戻された。

 はっ、と目を開いた瞬間に、少女の笑みもかまどの炎も温かな食卓も消えてしまう。

 かわりに視界を覆ったのは、かろうじて物の輪郭がわかるほどの暗闇だった。自分がどこにいるのかさえわからない。

 起きあがろうとして――しかし強い力で抑えつけられた。

 「静かに」と、忠告が耳朶を掠める。虫の羽音ほどの声量とは思えない鋭さで。


 スペイギールは息を詰めて、周囲の様子をうかがった。

 目だけを忙しなく動かしてわかったのは、自分は見慣れない部屋で眠っていたということだった。

 それから、ぼやけた記憶をだんだんと掘り起こしていき、どうやらあのまま夜中まで眠りこけてしまったらしい、と理解した。

 共寝をしているのが誰なのか、背後を振り返って確かめることはできない。

 背中に回された腕はスペイギールを庇うように覆い被さり、じっ、と神経を研ぎすませている。火傷しそうな緊迫感だけが肌に伝わってきて、うなじがひりひりとする。


 いったい、何が起こっているのか。

 荒く弾みそうな息を懸命に宥めながら、耳を澄ませる。


 部屋を満たすのは、いまだに降り続く雨音。

 庇から滴ったしずくが、水たまりを打つ澄んだ音。

 それにくわえて、穏やかな寝息が、いち、に、さん――五人分。スペイギールを含めると六人。寝る前にそろっていた顔ぶれと、数は合う。


 五人の呼吸に息を合わせながら、スペイギールはさらに周囲を探った。

 いまだに何が起きているのか、スペイギールには探知できない。

 けれども、感覚が冴えれば冴えるほど、皆が異常事態に気づいて息を潜めていることだけがわかる。


 息苦しさに目を閉じたとき、ギィ、と家鳴りが聞こえた。

 ――いや、ちがう。扉を開く音だ。それから、忍んではいるが複数の足音。


(……誰か入ってきた?)


 同行者の誰かか、それともこの教会堂の人か。

 しかし、それなら入る前にノックをするだろうし、わざわざ気配を消す必要もない。


(誰が――)


「スペイギール様」


 背中が、ぞっ、と粟立つのと名前を呼ばれるのが同時だった。バルクの声だった。


「短剣から手を放さないでください」


 枕の下に隠してあった剣を握らされる。

 バルクの手が、ゆっくりと鞘を払う。

 抜き身の刀身は、氷柱のように冷ややかだった。

 鈍く光る鋭い切っ先が、スペイギールの目を射す。すう、と手のひらの熱が奪われていくのを感じた。

 何年も剣を仕込まれてきたが、実戦は初めてだ。

 しかも、月の明かりもない暗闇の屋内だなんて、聞いていない。

 つま先から脳天へ、ぶるりと震えが走る。

 バルクの手がスペイギールの肩を軽く叩いた。その熱が離れると同時に毛布が空中に投げられ、戦端が開かれた。


 目眩ましの毛布を侵入者が切り裂いているあいだにダシュナが懐へ飛びこみ、腋の下に短剣を沈める。急所を突かれた男は抵抗するすべもなく、その場に頽れた。

 まずは一人。

 しかし、まだ四人いる。

 ダシュナはすでに次の敵に目標を定めて、間合いを計っている。

 ラズウェーンもくり出される攻撃を避けながら、相手の隙を突こうと画策していた。

 侵入者はみな長剣を用いていて、こちらが不利に思えたが、長剣は懐に入られると弱い。逆に、短剣は間合いさえ詰めてしまえば、たやすく急所を狙える。

 その弱点を突くために、ダシュナとラズウェーンは勇敢に懐へ飛びこんでいく。

 また一人、男が床に倒れた。

 腥い塩水のような饐えた臭いが、むっ、と鼻腔に充満した。


(血……、の、臭いだ)


 家畜を屠殺したときの情景が脳裏に浮かび――死んだ豚が、男の死体に変わった。

 どくん、と心臓が大きく跳ねる。

 スペイギールの全身を巡る血が、熱を帯びて逆流する。

 雨戸も閉められた部屋では、いくら目をこらしてもおおよその人影が把握できるぐらいで、戦況の詳細は掴めない。敵味方の入り混じる騒音だけでは、どちらが優勢なのかも判断できない。


(……エオルゼは? どこだ?)


 はっ、として、スペイギールはバルクの背後から身を乗り出した。

 敵に向かって動く影は二人しかなく、背丈からしてダシュナとラズウェーンだろうと勝手に判断していたのだ。バルクは自分の盾になっているし、おそらくセインも戦闘には加わっていない。とすると、エオルゼだけが見当たらない。


 必死に輪郭を追っていると、ようやくそれらしき細身の影を見つけられた。

 隣の寝台のすぐ脇で、エオルゼは襲いかかってくる男に応戦していた。

 彼女も敵の懐に入ろうと短剣を振るっていたが、敵もエオルゼの目的を知っているので、巧みに身をかわしては攻撃を仕掛けてくる。避けては突き、また避けては刃を振るうのをくりかえす。

 一見、二人は拮抗しているようだったが、剣を交える回数が増えれば増えるほど、エオルゼの方がじりじりと圧されていった。

 エオルゼは背後にセインを庇っていた。

 その縛めが、エオルゼに苦戦を強いている。


「エオルゼ!」


 細い背中がよろめいた瞬間、スペイギールはバルクの背中から飛び出した。

 すぐにバルクに二の腕を捕まえられる。


「おとなしく隠れていてください!」

「だめだ、エオルゼが……!!」


 ダシュナとラズウェーンの手が空くより先に、エオルゼが敗れるだろう。

 あのやわらかな線を描く胸の合間に剣を突き刺されるなど、絶対にあってはならない。

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