第2話 女神の一族

 うつくしき月女神シェリカと、勇敢なる始祖イシュメルの血を受け継ぎし、ヘリオス家。

 神の子、女神の寵愛を受ける者。

 人々の太陽ヘリオス、導きの光。


〈主より賜りし御言葉〉と呼ばれる聖典にてそう謳われる一族こそ、スペイギールの生まれた家だった。


 神代より人々の尊崇を集めてきた彼らは、同じく女神を母に持つ四晶家ししょうけ――レノックス家、シュヴァイツ家、エルー家、バレロン家に支えられ、何千年とその血統を守ってきた。

 その特殊な血筋ゆえに統治者として君臨することもあれば、市井に紛れることもあり、一族の歴史は数奇な運命を辿っている。

 二百年ほど前からは、聖都アストルクスで総大司教を務めており、女神シェリカを信仰するすべての人々の長として国王と比肩する権力を振るっていた。


「女神の末裔として、本来はそれが正しい姿なのでしょう。実際、イシュメル様は王でありながら、女神の祭司でもあられたのですから」


 栄華を謳歌する時代を揺るがしたのは、スペイギールの祖父の代だった。

 祖父が総大司教位を継承するのを不服とした異母兄の陰謀により、一族は都を追われてしまったのだ。


「彼は、国政に干渉してくるヘリオス家に不満を抱いていた王侯貴族と結びつき、我々の地位を奪いました。そして国王の支持のもと、総大司教位に就いたのです。おのれこそが『エウルまことの=ヘリオス』だと名乗りを上げて」


 ヘリオス家や四晶家は、味方についた諸侯とともにみずからの権利を主張し、地位奪還を目指した。

 数年に及ぶ激しい武力衝突の末、アストルクスの奪還が叶わないまま、祖父は亡くなった。残されたスペイギールの父ギゼルベルトは、支援者であるカールステット侯爵の食客として、領内に匿われることになったのだ。


「ギゼルベルト様は、まだ二十歳を過ぎたばかりでした」


 ちらり、と横目でラズウェーンを盗み見る。スペイギールの視線に気づいているのかいないのか、彼は抑揚のない声音で続けた。


「ギゼルベルト様がカールステット侯とともに失地回復の機会をうかがう一方で、エウル=ヘリオスは着々と王都での地位を盤石にしていきました。宮廷では慎ましく装い、王家や諸侯からは絶大な支持と協力を得た一方で、王宮の外では総大司教の権力を恣に振るっていると聞きます。ある者によると、まるで地上の神のごとき傲慢さだ、と」


 しかし、これと言った反攻は叶わないまま、歳月は流れていった。

 膠着していた両者の均衡を崩したのは、今からおよそ十五年前。

 現国王が即位と同時に発した、〝偽〟ヘリオス家の殲滅宣言だ。


 ジャン=ジャック王の執念は凄まじかった。

 彼は国の資産のほとんどを軍費へ回し、強大な軍団を伴い、侵攻を開始した。

 大量の武器や火薬、強靱な軍馬、屈強な兵士、彼らを養う充分な兵糧。それらを賄うための出費を、彼はいっさい厭わなかった。

 当然財政は立ち行かなくなるが、そのたびに民に重税を課して補填する。

 諫言する者は宮廷を追い出されるか、地位と財産を没収されて路頭に迷うかのどちらかだ。


「あの執念は、狂気とも言えるでしょう。たしかに、ヘリオス家は王位を揺るがす脅威にもなり得ますが、それは一朝一夕で転覆できるものではありません。我々は、イシュメル様の時代から二千七百余年もの歳月をかけて、この世界に信仰という根を張りました。金を注ぎ込み、力で制圧するには、我々が築いてきたものは大きすぎる」

「……けれど、その根も腐りかけてるんだろ」


 ラズウェーンの双眸が、スペイギールの横顔を捉える。


「仰るとおりです。ねずみに囓られた根は朽ちかけ、巨大な樹を支える力を失いつつあります」


 外套のフードの下で、スペイギールは顔をしかめた。

 ラズウェーンの言葉に躊躇はない。形勢が不利なことは知っているが、こうもあっさりと断言されるのは気分が悪い。


 四十人ほどの集団となった一行は、巡礼者に扮し、カールステット侯爵領にある修道院へ向かっていた。

 そこは、長くヘリオスの本拠地として利用されてきた場所だという。

 修道院が目的地なら、巡礼者が訪ねてもおかしくはない。一行の年齢層がまばらなのも、護衛用の剣を持つ者がいるのもだ。


 年長であるラズウェーンは、まだヘリオスがアストルクスにいた頃から、四晶家の一員として付き従ってきた人物だ。

 レノックス家の長として、また四晶家のまとめ役としての彼から語られた因縁は詳らかだったが、スペイギールは相づちも打たずに黙々と歩を進めた。

 自分の境遇については、養育先のエルー家で聞かされている。病気で死んだ母親の代わりを求めて、年の離れたスペイギールだけ預けられたのだ。

 それ以来、家族とは離れて暮らしていたので、顔を見るのは一年に一度、あるかないかだった。

 エルー家には姉弟がいて、同い年のセインは遊び相手として、八つ年上のエオルゼは姉としてともに育った。姉弟の父親もまた、四晶家の一員としてヘリオス家に仕えていたので、家を空けていることがほとんどだった。


 母親と子ども三人の生活は慎ましくも平穏で、やさしい村人と森に守られた村がスペイギールの温かいふるさとになるのに、さほど時間はかからなかった。

 春には畑を耕し、夏は祭と農作業に励み、秋は大地の恵みを収穫し、冬の厳しさを身を寄せ合って耐える。

 外との接触は少なく、村人は力を合わせて日々の生活を営んでいく。

 しかし、そんな揺りかごのような村にも、たびたび外の影響は及んでいた。

 始めは、スペイギールの父親と長兄の訃報だった。スペイギールが六歳のときだった。

 次兄が死んだのはその六年後。

 その頃には、すでにエオルゼは剣の扱いを覚え、父親に連れられて村を離れていた。

 本来、家を継ぐはずのない彼女が剣を与えられたのは、年の離れた弟が成人するまでの中継ぎとして駆り出されたからだ。ヘリオスのために戦場に身を置くのだと、幼いスペイギールは知っていた。

 やがて成長するにつれて、少年たちは家事や野良仕事だけではなく、剣の稽古をつけられるようになった。自分も幼なじみも、着々と戦うための準備をさせられてきた。


 戦地に赴くのは、まだいい。

 家族が戦っているのなら、自分も助けになりたい。

 だが、末弟のスペイギールが家督を継ぐというのは、自分以外の家族が全員死に絶えたということ。

 そして、ほのかに抱いてきた夢も叶わなくなることを意味する。


 スペイギールの陰気な心情に応えたかのように、天気はどんよりとしていた。

 季節は秋の初め、夏の名残を洗い流す雨が多くなる時季である。

 森に慣れたスペイギールにとって、日陰の少ない草原の太陽はいささか強く、フードを被らないとすぐに目がちかちかしてしまう。厚い雲は陰鬱だが、森育ちにはありがたい。

 なだらかに続く緑の丘陵にはヤマナラシや糸杉がまばらに立ち並び、清らかな小川の岸辺では柳の枝葉がしなやかに風に歌う。コマドリに混ざり、しゃがれた羊の鳴き声が聞こえてくると、木の柵でぐるりを囲った農村が丘の向こうに見えてくる。

 のどかに広がる田園風景は、本来ならスペイギールを慰めてくれるはずだった。

 けれども、ラズウェーンの話題は家の歴史や世情など、気の晴れない内容ばかりで、気分はますます腐っていく。

 スペイギールの従者になったはずのセインは、久しぶりに再会した姉にべったりで、いつもふたり並んで歩いている。突然の変化に不安なのか、または話が弾んでいるのか知らないが、それも鬱憤の一因だ。

 自分だって五年ぶりだ。

 なのに、まだ一言も言葉を交わしていないどころか、まともに顔も見られていない。

 役目を果たせとセインに念を押したのだから、スペイギールのことは忘れていないはずだ。

 それなのに、エオルゼはまったく接触してこない。昨夜は同じ部屋で眠ったし、朝食も一緒に摂ったにもかかわらず。

 一方のスペイギールも、ラズウェーンやほかの家臣に囲まれて、いまだに話しかける機会を得られずにいた。


(くそっ、セインの馬鹿。話ぐらい振ってくれてもいいだろ……)


 ぶつぶつと悪口を呟きながら、巡礼用の杖を思いきり地面に突き刺す。

 すると、空けた穴のそばに、ぽつりと小さな染みが落ちた。

 空を見上げた鼻先をひとつふたつと雨粒が打つと、あっという間に辺りは秋雨に煙ってしまった。


 道端の楢の木陰へ、誰ともなく駆けこんでいく。百年ものあいだ、行き交う人々を見下ろしてきた古木は、スペイギールたちをやすやすと袂へ招き入れてくれた。

 ラズウェーンが休憩を取ろうと指示を出した。

 外套にまとわりついた雨滴を払っていると、スペイギールはいつのまにか輪の中心へ押しやられていた。

 村を出てから起こっている現象で、今も雨が当たらないように太い幹のそばに誘導されて、男たちがその周りを囲んでいる。

 エオルゼも近くにいたが、やはりこちらを見ることはなかった。


(……おれを見てよ、エオルゼ)


 フードに隠れた横顔は透きとおるようで、濡れたくせ毛の先が陰からのぞいている。雨に打たれたせいか、ほっそりとした頬がよりいっそう蒼白い。

 緩やかに波打つ髪は、姉弟で持ち合わせた特徴だ。光が射せばまろやかな琥珀色に見える虹彩も、その目元も、よく似ている。

 ひよこのような髪色と碧い瞳を父親から受け継いだスペイギールにとって、それらは実の家族ではない証明であって、幼いときは仲間はずれのような気がしたものだった。

 そんなスペイギールの心情を察してか、「うちには小さな太陽がいる」と褒めてくれたのもエオルゼだったのだが――。


「スペイギール様」


 名前を呼ばれ、浸っていた思い出から現実へ戻る。

 顔を上げると、男が一切れの黒パンとチーズの切れ端を差し出していた。


「近所に住む老婆からです。どうぞ召し上がってください」


 巡礼者への施しだった。敬虔な信者である彼らに情けをかけることで、おのれの罪も清められることを願う、古くからの習慣だ。

 雑穀を混ぜて嵩増ししたパンは、ずっしりとしていて腹持ちがよさそうだった。

 宿を出発してから何も食べておらず、すっかりからっぽになった成長期の胃袋が、ぐぅ、と鳴く。


 スペイギールは礼を言おうと、男たちの隙間から首を伸ばした。

 すでに帰ったのか、あるいは上背のある男たちに隠れてしまっているのか、老婆の姿はなかなか見つからなかった。


「いかがなさいましたか?」


 パンをくれた男が尋ねる。きょろきょろとしているスペイギールが気になったのだろう。


「……お礼を、言おうと思ったんだ、けど」


 目の前の男がどういった立場の人なのか、スペイギールにはさっぱりだ。

 自分の近くにいるからにはヘリオス家の家臣なのだろうが、名前も素性も知らないのでどうも気まずい。

 彼はきょとんとしたあと、幼い主の意図を理解し、人の良さそうな笑みを浮かべた。


「スペイギール様が気になさる必要はありません。巡礼者に施すのは、贖罪に繋がるのですから」

「でも、おれたちは巡礼者じゃ……」

「同じようなものです。むしろあの老婆は果報者ですよ。なにせ、ヘリオス家当主であるスペイギール様のお役に立てたのですから。きっと女神のご加護があります」


 朗らかな返答に、スペイギールは口を噤んだ。

 頭から冷水を浴びせられたようだった。パンを持った指先が悴んでいく。生い茂った梢が雨をしのいでくれているはずなのに、まるで独りで氷雨に打たれているかのように熱が引いていく。

 スペイギールは巡礼者ではなく、ただの旅人だ。

 首からは信仰の証である星護符ほしごふを提げ、質素な外套をまとい、杖を手に持とうとも、腰には剣を隠し持っている。

 老婆の罪は清められない。何か特別な力を持っているわけではないのは、ごくごく普通の日常を送ってきた本人が一番知っている。


 男は笑んだまま、食事を勧めてきた。

 ひそかに寒さに震えながら、スペイギールはチーズを載せたパンにかぶりついた。ぼそぼそとした食感と塩辛いチーズが口蓋に張りついてしまって、なかなか飲み込めない。

 最後は、すっかりおとなしくなった胃に、無理やり水で流しこむしかなかった。

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