千羽鶴
千羽稲穂
第一章 千羽折れるまでに
一羽目
赤い夕日が差し込む教室。
薄い白のカーテンが揺らぎ、風がまいこむ。
その風を感じながら放課後の教室で音に耳を澄ませ聞いていた。
いつものつまらない日々。
変わらない気分に浸っていた。
「一緒に自殺しない?」
孤独な教室の中で私達は今二人きりだ。
その中で彼女、
自殺は一人でするものでしょう?
なんて冷めた一言さえ、驚いて返せなかった。
彼女と私は友達ではない。話したこともない。それなのに、そんな提案をされても困るのだ。
「あれ? 怖気づいてる?」
吉は馬鹿にしたかのように口角を上げた。
こんな笑い方をする子だっけ。
何故かいつもと違うように思えて、彼女の姿が歪む。いつもと違うのはきっとこの二人きりの空間からだ。普段とは違った状況からくる高揚感が吉をいつもと違うように見せるのかもしれない。
私の席は一番後ろで、吉は私に前の席の椅子を逆にせず横向きで座って話しかけて来ていた。体を捻じれさせながら話しかけてくるのは辛くないのだろうか。息が詰まるが、吉は気にしていないようだった。
「ねぇ。しようよ。死のう? 一緒に」
それに対する返事はどうするべきなのだろうか。
「あんただって、もうコリゴリでしょう? こんな世界、こんな現実。何一つ良いことなんてこれまでなかったでしょ? だったらいっそ、一思いにさ、こんな世の中にさよならしようよ」
ため息がでる。
そんな誘い……
受け取らないはずない。
吉と私、一緒なのだとしたらそれもそれでいいのかもしれない。
そう、確かに彼女の言う通り、私はこんな世界に飽き飽きしていた。
私達二人は傍観者だった。
教室内の傍観者の方の傍観者だ。この位置は圧倒的弱者な立ち位置だった。いじめを目撃すれば火の粉が降りかからないように見ているだけしかなく、いじめを受けている者、している者より大人からは『最も罪深き者』として罵られる。私達は大人からも子供からも、蔑まれる醜い生き物だった。教室内は社会の縮図だとしたら、これから先の社会も変わらない弱者であり続けるのだろう。そうやって生き恥をさらし続けるのだろう。そう思えば、私自身無為なものでしかないと感じ始めていた。
「どうやって?」
私は吉の目を覗く。
真黒な深淵が広がっていて、すぐ傍まで黒い影が迫ってくるようだった。
この教室には誰も居ない。
居るのは、そう、たった二人の少女だけ。
誰も居ないこの状況すらも危うい現実に迷い込んだかのように感じられた。
ここは、深い闇の入り口。
入り口へと足を進めたら戻れない。
それでも、私は吉の死んだような色をした黒い瞳を覗き続けた。
「どれにする?」
吉はカードを提示するかのように片手を広げた。
五本の指がこちらを向いていた。その手のひらは手招きしているかのようだった。
死人のような白い手がするりと差し出された。陶器のようなすべすべの肌は命がない人形のようだった。
美しい。
私は吉の風貌に見とれた。
吉はこうなるまでどれだけ悩んだのだろうか。教室の隅っこで蹲って、今に見てろよと教室内の人間を恨み、それが出来ないと知ると諦めて、死ぬ準備をしていたのだろう。同じように息を詰まらせていた私を誘うまで。そして、死人に近づこうと磨きがかかって精錬された。
吉と言う人はこうして死に向かうごとに美しさを取り戻していったのだろうか。
「何があるの?」
私はフルコースの料理を聞くように尋ねた。さらさらと漏れ出す虚無の言葉が私に移ったみたいだった。
「溺死」吉は指を一本折り曲げる。
「他には?」
「首吊り」また曲げる。
しかし、その一言で私の思考は止まった。
「リスカ、電車、飛び降り」
立て続けに吉はフルコースのメニューを上げる。
怖くなってしまった。
顔が強張る。背筋に嫌な汗が伝った。どのように自殺するか、どのようにしても人様に迷惑をかけるのは知っているものの、痛がっているのを見せるのは嫌だったし、この最低な現実から最後の一撃だと言わんばかりに与えられる苦痛自体に疑問を持っていた。本当にそれでいっていいのか。この現実にしてやられっぱなしでいいのか、と。
「それじゃあ、だめ」
どの死に方でさえ、私には似合わない気がした。
「綺麗に死にたい」
これは私のわがままでしかない。自殺したいのに、『綺麗に』なんて馬鹿げている。自殺は忌むべき行為だし、そんな行為に綺麗も、何もない。
吉はへぇと嫌味に返事した。私の答えが期待外れでご機嫌斜めになっていたのかもしれない。
「綺麗にって寿命で死ぬことだよね。つまりはガンで死ぬこと」
吉は悟っていた。どこか遠くを見つめていて、瞳を覗き込んでいた私の姿なんて見ていなかった。
将来、ガンで死ぬかなんてないだろう、確率的に低い。せいぜい老衰が無難だ。私はやはり吉が言っていることに賛同できなさそうだった。
「ガンで死ぬなんて決まってないでしょ」
安心したのか笑ってしまった。
「死ぬよ。この国のガンで死ぬ確率は、老衰よりも多いんだから。老衰なんて全体が百パーセントとしたら四パーセントしかいないんだよ。ほとんどの人はガンで苦しんで、自分の家じゃない白い囲いの中死んでいくんだ。老衰もそうだよ。慣れてない白壁の中、惨めに苦しんで死んでいくんだ。どう? 先で死ぬのと今死ぬの変わらないでしょ? 死にたくなった?」
そんなの、嘘だ。
嘘だと思ったのに、吉の言葉はどこか真実味があり、迫力をまとっていた。一度死ぬことを決めた人はこうにも人を圧倒するものなのか。
私は言い返せなかった。体は凍りついてしまっていた。でも、死にたいのは変わりなかったから。
「今に綺麗に、なんて言えなくなるよ」
吉は私のことを諭すように、柔らかく人差し指を私に向け差した。そして、流れるように私の名前を紡ぐ。
「
綺麗な名前だ。私に似つかわしくない。こんな私にこんな名前、名前負けしてる。
いつもは名字で呼ばれることが多いが、吉が唐突に私の名前を呼ぶものだから、少し気恥しくなった。下で呼ぶときも千鶴なんてそのまま呼ばれることなんて少ない。あだ名ばかり聞きなれていたから、こうして呼ばれるのは、久しぶりだった。
「吉?」
私も名前を呼び返す。
今まで話しかけもしなかった相手に気軽に話しかけるなんて、初めてだった。奇妙な巡り合わせもあるものだ。吉は初めて私に声をかけ、私は初めて話しかけられた相手に名前を呼び返している。
考えてみれば、初めて話しかけられたのが「自殺しない?」なんて方がどうかしていた。
吉は何か思いついたのか、目を見開き、私の机の上に肩肘をついた。手を頬に伝わせる。
「良いこと考えた」
気のせいか吉の頬に赤みが映え始めた。
白い顔に赤みが浮かぶ。
「千鶴って良い名前だよね」
また吉が突然意味の分からない事を言いだした。
私の名前を褒めたって何にもならない。
「千鶴はまだ生きたい?」
ふるふると頭をふる。
綺麗に死ねるなら、生きたくはなかった。今の私の心持は痛く死ぬなら、生きた方がましだと言うのがぴったりと当てはまっていた。
「じゃあ、生きなよ」
えっと…ちょっとだけ言い淀んでしまった。
さっきと矛盾してるその言い分に、その上から目線の命令に心の中では腹立たしかった。そんなことを言えば、私が自分の首を吊るとでも思ったのだろうか。私が天邪鬼とでも思ったのだろうか。それとも子供だとでも考えているのか。そんな子供でもないし、その発言に余裕を持って笑い返すような大人な発言が出来る年でもない。
「いいよ、生きて」
続けて吉は含蓄のある言葉を口から発した。私はいい加減吉の勝手な言動に頭が煮えたぎり、文句の一つでも言ってやろうかとしたが、吉は私の言葉より先に早口で「だから」と切り替えた。
「だから、生きる意味を見つけなよ」
……それが出来たら、死にたいなんて思ってない。
「そうじゃなくて、私は……」私は言いよどんだ。
生きたくもなくて、生きづらくて、死にたいけど、死ぬ理由はあるけど、生きる理由がなくて、だから、私はどちらかと言えば『死にたい』のだ。
分からない。どう伝えればいいのか、何か一つ説得力が欠ける気がして、言い出せない。
吉もそれを見越していて、絵具で綺麗に黒く塗りつぶされた綺麗な黒髪を白い手で撫でて私の回答を待った。吉のような悟った域に達するのは今の私では不可能だ。
「出た? 答え」
暫くして吉が聞き返してきたが、その言葉は冷気が込められていてぶるっと体を震わせてしまった。どこまでも冷たい吉の感情にぞくりとする。
吉は私が答えを出せないことを分かっていたのだ。
「出ない。出せないよ、こんなこと」
死ぬ理由の方が出しやすい。それがどんなことよりも皮肉だった。
「でも、死ねないって言うんだよね」
頷いた。
少なくともさっき上げた中の死に方では死ねなかった。痛いのは嫌だ。綺麗に死にたい。我がままかも知れないけれど、それがどんな答えよりも生きたい理由に直結していた。
私はまだ死ねない。
「だから、こうしよ」
いつの間に用意していたのか、吉は座っている机の引き出しから今日配られた懇談会のプリントを取り出してきた。そこは吉の席ではないのに、気にせず吉はそのプリントを折り始めた。
四角形を作るために、まずは一つの角を三角形に折り曲げる。余った長方形の余白は折り目を付け、破いた。それからするすると手慣れた手つきで折って折って、開いてを繰り返した。最後にちょこんと折った紙を倒し、完成した。
鋭く突き出した顔の部分は前のめりになっている。広げられた羽根からは懇談会の文字が覗いていた。ぴんと立つ尻尾は天井へと鋭く伸びていた。織り込まれることで現実の気が滅入るイベント事文字は折り鶴の可愛らしい飾りとなっていて、空気が入ったお腹は食べ過ぎたのかでっぷりと太っている。
「死にたいって思ったら、こうして鶴を折ればいい。この鶴が千羽になったら、一緒に自殺しよう。だから、それまでに……生きる理由、見つけてよ」
吉は折り鶴を私の机に置くと、ふふと特徴のない笑いをする。
あたりは誰も居ない。
居るのは私と吉。
少女二人。
鳴り響くは野球部の掛け声とセミの悲鳴。うだるような熱さは汗をしたたらせ、頬を伝う。ぴちゃんと汗は机に落下し、木の机の染みに変わる。
目の前の鶴の重さに、夏の暑さがぶり返してきた。
それまで現実じみていない会話や吉の風貌に熱ささえ感じていなかったのに、周りの音が鮮明に聞こえてくる。
この世界にお別れを告げるタイムリミットはこの鶴に掛かっている。鶴を受け取れば、聞こえてくる全ては無くなってしまう。
痛みと共に私と言う無意味な存在が零れ落ちていくのだ。
これは一種の契約だった。
受け取れば、死ねるが生きる意味を見つけなければならない。
受け取らなければ、無為に生きて今まで通りの日々を過ごしていく。
どちらもあるのは“生”。
しかし、その先は“死”と“無”で別れている。
これまで通り過ごしていても、あるのは生かされている弱者としての私だけだ。
……死んだように生きて何が楽しいんだろうか。
息を吸い込んだ。
明日を見つけに行こう。
鶴を手に取った。
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