第9話 百日紅(未完)

寂寥感と倦怠と憂愁が、一重に折り重なって悲鳴をあげたのです。

私は、何故生まれてきたのでしょうか。人を慰め、慈しみ、自己犠牲を

美と信じて疑わなかった私を、どなたが助けて下さるというのでしょう。

錯乱した私はまず、先生のお宅へ伺いました。

小さなお庭に植えられた垣には、鮮やかな百日紅が、ぽつりぽつりと

咲き始めていました。なんだか心憎く感じて、私はそのひとつを優しく摘み取ると、すばやくバスケットに滑り込ませました。

先生はぐずぐずと出ていらして、それでも私の姿を確認すると、ぱっと笑顔になって迎えてくださいました。奥様は、と恐る恐るお聞きすると、今買い物に出ています、と、ぶっきらぼうにお答えになります。長い廊下を摺り足であるきながら、私は奥様のえくぼについて、ぼんやりと考えていました。確かに美しいお方、私なんてとても及びはしない。どうすれば、いいのかしら。先生は、私の笑った顔を、好いてくださるかしら。何をしても無駄な気さえして、今日お邪魔したのを後悔し始めました。

「さあ、入って。何も、お構いできませんけど。」

すっと息を吸い込む。紙の匂い、インキの匂い。先生の匂い。

頭が一瞬くらくらして、思わず先生の胸にもたれてしまいました。

先生は愛おしそうに私を見詰めると、机の側に私を座らせました。

「なぜ、来たの。また、胸が痛くなったの。」

「なんでもないのです、ただ先生が遠くへ行ってしまいそうな気がして。」

「どうして僕が遠くへ行くの。君を置いて、どこへ行くの。」

「ああ、いけません。」

叶わぬ恋に身をやつして、ただこうしていることさえも、

夢のように思われます。先生の温もりが、私をますますいけない気持ちにさせました。

「このまま二人で逃げようか。武蔵野まで走ろうか。君だって、きてくれるだろう。」

「だけど先生、みなさん心配なさるでしょう。奥様が、お泣きになりますわ。」

「キヨか、いいんだ。僕はね、君が泣く方がもっと苦しいですよ。」

なんてお優しい方。私は、今なら死んでも悔いは無いと思いました。


しばらくじゃれ合い、先生はなお、私に甘く囁き続けます。

力が抜けて、許してしまいそうになりましたが、なんとか堪えました。

夕暮れ時になっても奥様が戻られないので、私が不審がると、先生はそれに気づかれたのか、

「家内は今晩は戻らないよ。河内の、実家に帰省しているんだ。」

と、首を竦めて苦く笑いました。

「嘘をついてごめん。でも、君に、帰って欲しくなかったから。」

ああ先生!なんて、いじらしいお方。

帰るだなんて、とんでもない。私の気持ち、少しもご存知ないのですね。

もう辺りは真っ暗闇で、月だけが私達を静かに見下ろしていました。

お庭に何か光った気がして、目をこらしましたが、よく見えません。

私は、目が悪いのに眼鏡をかけないので、全てが夢の中のように、霞んでみえます。

声を振り絞り、動揺しているのを必死に隠して、聞きました。

「あれは、なあに。」

先生は嬉しそうにくつくつとお笑いになって、

「伊勢みたいだね。あれは、薔薇さ。押し売りが植えて行ったけど、綺麗に咲いたみたいです。ねぇ君、僕はやっぱり、君がいちばん好きです。」

と言って、私を強く抱きしめました。初めから、こうされることを期待していたのかもしれません。唯一二人に足りなかったのは、小さなきっかけだけだったのです。

その拍子にバスケットがことりと倒れて、中から百日紅が滑り落ちました。

先生はそれに気づかれると、私の頬へ乱暴に接吻しました。

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