かよちゃん
辻島
第1話
我を愛すること勿れ。即ち、君との永遠のお別れをさす。君、泣いてはいけない。人生は、さよならの繰り返しなのだ。
僕には、かよちゃんという、可愛い可愛いお妾がいます。僕が帰ると飛んで出てきて、抱擁をせがみます。家にいる間は、僕の仕事中もずっと側を離れません。仕方がないので、腕をつかませたまま執筆しますが、気がつくと彼女は僕の肩にもたれて、寝息を立て始めます。まったく、いつまでも娘みたいに愛らしいのです。僕はそんなかよちゃんが、大好きです。
ある日、縁側で新聞を読んでいると、妻が唐突に、かよちゃんの話をし始めました。
「あなた、最近帰らない日が多いですね。あの、かよさんって人のところへ泊まっていらして?」
「君に関係ないだろう。僕は働いて、生活費を納めて、こうして家へも戻っている。君、かよさんには口出ししないと、約束したろう。」
「だけど……。」
「だけどじゃない!君は黙っていればよいのだ!」
そう吐き捨てて、僕は思わず家を飛び出しました。最近仕事が上手くいっていないこともあって、つい妻にあたってしまったのです。僕は逃げ込むように、かよちゃんの家へ向かいました。
彼女は僕を出迎えました。しかし、僕のただならぬ形相に、少し怯えている様子でした。
そんな彼女をよそに、僕は部屋に上がり込み、居間で寝転びました。そして、酒を求めました。
「ねえ、どうなさったの。なにか、いやなこと?」
「何でもないんだ。君には、関係ないことだよ。」
「そんなことないわ!私に、話してちょうだいよ。」
かよちゃんは、いつでも純真で、真剣です。だけれど、彼女に僕の苦悩が理解できる
はずがありません。僕は酒を流し込み、黙りこくっていました。
しばらくの間、静寂が続きました。かよちゃんは、すっと立ち上がると、
タンスから一枚の紙片を取り出して、僕に差し出しました。
それは、かよちゃんと、見知らぬ男を写した写真でした。
「誰だい、こいつは。君に似ているネ。お兄さん?」
かよちゃんは、一呼吸置いてから、「好い人よ。」と答えました。
「好い人だって!?」
冗談じゃない、この僕がありながら、と僕は彼女を押し倒しました。
「君はあんなに僕を好いてくれてたじゃないか。嘘だったのかい、全部、
お芝居だったのかい。」
「そうです。本当は、少しも好いておりません。全部、あなたのお金が
目当てでしたの。」
こいつ、よくも、と彼女をぶとうとして、やめました。
彼女に愛がないとしても、僕にとっては、可愛いかよちゃんなのです。
僕は座り込んでしまいました。必死に涙をこらえながら、彼女に、問いました。
「君は、この先どうしたいの。」
「あなたとお別れして、彼と一緒になります。」
「それが、きみの、本心?」
「はい。」
かよちゃんは、うつむいて、首を振りました。
僕はかよちゃんが、大好きです。だから、彼女を喜ばせるために、
なんだってしてきました。妻におこごと言われても、気にも止めずに
尽くしてきました。そんな彼女が望むなら、僕は、それにしたがうより
ほかないのです。
「わかったよ。かよちゃん。彼と、幸せに暮らすんだよ。」
彼女は何も答えません。僕は、とうとう泣いてしまいそうだったので、
かよちゃんの家を後にしました。彼女は玄関の先にも、出てきませんでした。
これが、彼女との、お別れでした。
3ヶ月ほどたったある日、一人の男が家を訪ねてきました。
どこかで見たようですが、思い出せません。
「藤野かよを、覚えていらっしゃいますか。」
「かよさんが、どうしたのですか!?」
その男は、驚くことに、自らを、かよの兄だと名乗りました。
そして、一枚の写真を見せてきました。
それは、まぎれもない、あの時かよちゃんが差し出してきた写真でした。
「かよが、それを先生にみせて、私の好い人、と申したと聞きました。」
「はい、たしかに。かよさんは、彼と一緒になりたいと言って……。」
「その男は私です。兄を好い人と偽るだなんて、本当に馬鹿げています……。」
彼はため息をつきました。よく写真を見てみると、少しの変化はありますが、
隣にうつる男は、正真正銘彼女の兄でした。
「ああ、なんてことだ。じゃあ、かよさんは今、お兄様と一緒に?」
「かよは、亡くなりました。」
「亡くなった!?」
その途端、僕の中で、何かが崩れ去りました。僕のかよちゃん。
大好きな、かよちゃん。僕の心を支えていた彼女の思い出が、だんだん
遠のいていくのを感じました。深い海の底で、必死に彼女の名前を呼んでも、
それは決して届かないのです。
「亡くなる寸前まで、かよは、あなたのことを気にかけていました。
本当に、恩知らずなことを致しました。どうか許してください、先生のためなんです。と、
毎晩毎晩泣いていました。」
「そんな……なぜ、僕のために別れたというのです。」
「かよは、先生の奥様に、後ろめたさを感じていたそうなんです。先生は毎晩、私の
家へおいでになるから、私は嬉しかったけど、奥様にはおつらい思いをさせてしまった、と。だから最後の日、先生のご様子を見て、別れを決めたそうです。」
「じゃあかよさんは、あの日、僕が妻と喧嘩したことを、察していたということですか?」
「そうだと思います。人の感情を、汲み取るのが上手な子でしたから……。」
そこまで言って、彼女の兄は涙を拭いました。僕も一緒に泣きました。
彼女は、神経衰弱が原因で、病を患って亡くなったそうです。
僕が彼女を殺したも、同然なのです……。
僕は海岸で、かよちゃんの兄から預かった、手紙を開きました。
亡くなる前日の晩に、彼女が僕宛に書いたそうです。細く小さな字が、丁寧に
並んでいました。
「拝啓、親愛なる先生。
先生、お元気ですか。どうか、あの日の私の失礼な言動を、
お許しください。ああでも言うしか、なかったのです。
先生の、優しい奥様。私のような妾にも、嫌な顔せずに、お家へ招いて、
温かくもてなしてくださいました。本当に、このご恩は、一生涯忘れません。
先生は、いつも私を可愛がってくださいましたが、だからこそいっそう、
奥様への後ろめたさに、私は苦しみました。
ある晩、私が、そろそろ奥様のもとへお帰りになったら、と先生に伺ったら、
いいんだ、君が一番だから、と仰いましたよね。
私は、嬉しかったです。心のそこから先生を愛しておりましたから。
それでも、やはり、奥様が一番でなくてはいけません。
私は先生の癒しになることはできても、帰る場所にはなれないのです。
私はあなたのお月様。夜道を照らす、お月様。
あなた様が、安心して、お家へ帰れるように。
どうか先生、ご自分を責めないでください。
最後の日、私は先生が奥様と喧嘩をしたんじゃないかって、
咄嗟に気づきました。だって、明日は記念日なんだって、嬉しそうに
前日私にお話なさっていたでしょう。なのに、あんな怖いお顔をして次の日に
訪ねてこられるなんて、それ以外ありませんでしょう。
私、そこまで馬鹿じゃありません。
先生、私はあなた様のお妾になれて、大切にしていただけたこと、
ずっとずっと忘れません。この世で、産んでくれた両親と同じくらい
感謝しております。どうか、奥様と、いつまでも楽しく暮らしてください。
藤野 かよ 」
私の涙は、乾いていました。海面に浮かぶ夕陽は、痛いくらい目にしみて、
潮風が私の身体を優しく撫でています。それは、かよちゃんが、私を
慰めているようにも、思えました。
ただ、生きねばならぬ。私は、家族を照らす太陽でなければならぬ。
私はいつまでも、海の向こうを眺めていました。
かよちゃん 辻島 @miko_syuji619
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