29日目「夕日」
『長瀬さんの携帯で間違いないですか?』
「はい」
鴨田先生から携帯電話に着信が入ったのは十八時を少しだけ過ぎた頃。
『落ち着いて聞いてください。……藍原さんが病院から逃げました』
「……そうですか」
『そうですかって! なんでそんなに落ち着いてるんですか!』
「……なんででしょう。なんとなくそんな気がしていたからかもしれません」
だって天気予報通り、昨日から降り続いていた豪雨は午前中に止み、その後は雨空が嘘だったようにこの上ない快晴が広がったから。
そんなに日に。私は彼女と出会ったから。
『このままだと彼女。……自殺しますよ』
「……はい」
『時間が無いんです。どこか彼女が行きそうな場所に心当たりは?』
「……分かりません」
私はコツコツと靴を鳴らしながら歩く。きっと受話器には蝉の声が入り込んでいるんだろう。
車通りも人通りも少ない。だから私の声は聞こえるだろう。
「鴨田先生。先生は自殺についてどうお考えですか」
『私、ですか?』
「はい。考えを聞きたくて」
『私は……。最期の手段としては否定はできません。でも、彼女には未来がある。まだいくつもの可能性がある』
「……そうですね。私は逆でした。自殺なんて絶対にしてはいけないことだと思ってたし、して欲しくないと思ってました。……でも、今の私は多分。莉緒を止められません」
『どうして、ですか』
「私は友人を失くしたことがあります。自殺した彼の目は絶望に染まっていた。……でも莉緒は違ったんです。彼女は死を目の前にして、幸せそうに笑うんです」
『そんなの一時の感情の波です。死ぬことで苦悩から逃げられると思っているだけです』
「それでも。いいじゃないですか。莉緒の救いはもうそこにしかないんですから」
『とにかく。彼女の場所がわかったらすぐに連絡してくださいね!』
「……はい」
私は耳から携帯電話を離し、着信を切る。
「ごめんなさい……」
ツーツーと無機質な音のなるそれをポケットに仕舞い、私は前を向いた。
「莉緒」
視界に広がったのは夕暮れに相応しい真赤な空。
少し黒を混ぜたような、重い赤。
その中に、雑に千切られた雲が真っ黒な影を落として、浮かんでいる。
どうしようもなく綺麗な景色だった。
そして。
私の声に振り向くのは。そのすべてを背負う少女。
「ねぇ、麻里さん。知ってますか?」
「なに?」
「午前中に雨が降って。午後にはカラっと晴れて。そんな日には」
「空が良く染まる。でしょ?」
「正解です」
知っている。だから今ここに来たんだ。
莉緒と私が出った橋の上。私が彼女に見惚れた距離。
あの日と同じように空は美しく橙に染まっていて、まるで時間が巻き戻ったみたいだった。
「やっぱり。ここだと思った」
「麻里さんなら来てくれるって信じてた」
莉緒は出会った時と同じ服を着ている。
中学生に見える小柄な体躯に短い髪。袖口から露わになる肌はあまりに白い。しかしこの季節には不釣り合いなニット帽だけは、最初とは違った。
「麻里さん。それ以上近づかないでね」
「分かってる。行かないよ」
あの日のように下手に飛び出したりしない。
もう私は、分かっている。
「自殺幇助になっちゃいます」
「今でも十分危ないけど」
私は息を整えて、彼女に届くように少し大きめの声で言う。
「飛び降りたりなんかしません。って言ってくれないの?」
「……言えないです」
「そっか」
彼女を引き留めたい私と、彼女の意思を尊重したい私。
二人が私の中で争っている。
あれだけ自殺に嫌悪感を持っていたのに、笑えるな。
だから私は彼女を止めるために用意したたった一つの理由だけを、彼女に伝える。
「莉緒の為だなんて言わない。この先の莉緒の未来だなんて、綺麗ごとは言わない。私は、ただ私が莉緒に死んでほしくないだけ。……だから、手すりを超えてこっちに来て」
莉緒は遥か上の空を見上げて深呼吸をする。そして静かに首を振った。
「夕日が、綺麗だね」
「……そっか」
彼女の短い黒髪が、夕日の中で揺れた。
「さっきね。お父さんとお母さんに話をしたんだ」
「うん」
「やっぱり私には耐えられないって。今まで育ててくれてありがとう。ごめんねって。……そしたらさ、殴られちゃった」
えへへと私からは見えなかった頬を笑いながら見せてくる。
そこには痛々しい痣ができていた。
「娘の顔を殴るなんてひどいよね。殴られたのなんて初めて。ましてや痣ができやすい人間だって言うのにさ」
頬を触りながら彼女は涙を流した。
「痛かったな……。痛かった……。…………嬉しかった」
ぼろぼろと涙を零しながら、頬を摩る。その手つきは痛さを誤魔化すものではなく、愛おしい物を大切に撫でるようだった。
「こんなの初めて。今まで何をしても許してくれたのにさ。怒ってくれないのが、何よりも辛かったのにさ。最期に……こんな。酷いよ」
彼女の声は今にも解れそうに震えていた。
「でも、殴った後に、抱きしめてくれた。そしてごめんねって。おかしいよね、謝るのはこっちの筈だったのにさ」
私は彼女の言葉に頷くしかなかった。
彼女の覚悟は固く、もう誰が何を言おうと揺るがない。
だったら私は彼女の両親がそうしたように彼女を尊重するしかない。
それが、彼女の幸せだから。
「麻里さん。夕日が綺麗だね。川に光が反射してキラキラ光ってる。どうしようもなく、綺麗」
「そうだね。綺麗だ」
「麻里さんは怒らない?」
「怒ったよ。昨日散々怒った。……だからもう受け入れるよ。莉緒の選択」
「ありがとう」
「私が今、ここから飛び降りても、追いかけてこないでね」
「この前言ったじゃん。大丈夫。追いかけたりしないよ。もう、大丈夫」
「よかった。麻里さんには前に進んで欲しいから」
「どれだけ私の事好きなの」
「聞きたい?」
「是非」
「死ぬほど」
「馬鹿」
「……ねぇ、麻里さん」
「ん?」
「私の最期見ててくれる?」
「……うん。見てるよ」
「……よかった」
「今ならね、なんとなくわかるの。莉緒の気持ち。最初はわかるはずないって思ってたのにね」
「あれだけ一緒にいたもんね」
「たった一カ月だよ」
「それでも私には長くて短い大切な一カ月だった」
「私もだよ」
莉緒は一度伸びをすると、いつもの揶揄うような顔で私を見る。
「全身打撲だから結構えぐいことになるかも」
「うん」
「この後、色々と迷惑をかけるかもしれない」
「いいよ。もう覚悟した」
「警察のお世話にもなると思う」
「うん」
「でも、全部話していいからね。私もできる限りのことはしたけど、多分色々と問題になると思う」
「何したの?」
「ちょっとね。できるだけ周りには迷惑を掛けたくないから」
「そう」
「だからさ。全部話して、全部過去の思い出にしてほしい。忘れて欲しくはないけど、忘れたっていい」
「忘れるわけないじゃん」
「本当に?」
「一生のトラウマ」
「それはそれでいいポジション」
「……よくないよ」
「麻里さんの中にある過去の後悔とトラウマ。私が全部上書きしちゃうから」
莉緒は真面目な顔に戻ると、目を強く瞑ってから、私の目をまっすぐと見た。
「私が麻里さんを救ってあげる。私はね。後悔なんて一つもないんだよ。清々しい気持ちで空を飛ぶの。だから麻里さんも笑って送り出してほしいな。過去の麻里さんができなかったように、私を見送ってほしい」
「……それが、救う」
「駄目かな?」
「ううん。莉緒らしい」
私は流れる涙を拭って、空を見る。もう夕暮れも本番だ。
カラスと蝉がお互いに鳴き合い、日暮れの匂いが濃くなる。
そして世界が深い色に近づく。
「最後に一つ。私の答えを聞いて」
「うん」
「私が生まれてきたことは、正しかったのか。今ならはっきりと分かるんだ」
「聞かせてみ?」
私は教師の顔で彼女の回答を聞く。
莉緒はこれまで見せた中で一番輝いた笑顔で、彼女の回答を提示した。
「私ね。今、とっても幸せ」
そして二人はまた涙を流した。声にならない涙を流して、彼女は私に聞く。
「どうかな。私の回答は正解かな。教えてよ麻里先生」
だから私は、すぐに答えた。
「答えなんて分からないよ」
そして莉緒は笑う。
「そうだね」
「だからさ。待ってて」
「うん」
「私も一生考えて、答え合わせに行くから」
「うん。待ってる」
莉緒の目は、優しく凪いでいる。
しかし、夕日の光を反射して、きらきらと輝く。
「ねぇ、麻里さん。笑ってよ」
彼女の目にはあの時見た命の炎が灯っている。
それは神増世の最後の光。
「麻里さんが笑ってくれないと、私、笑って死ねない」
「わかった」
莉緒は静かに呼吸をして微笑む。
「じゃあ、そろそろ行くね。綺麗な夕日が沈んじゃう」
「うん」
「私、人生で初めて。誰かの特別になりたいと思った」
「莉緒は私の特別になったよ」
「嬉しいな」
涙が止まらなかった。それでも私は笑顔を作る。
彼女の旅立ちを祝福する笑顔。
「じゃあね。麻里さん。大好きだったよ」
「じゃあね。莉緒。行ってらっしゃい」
彼女は空を飛んだ。
そして意図も呆気なく。赤い花は咲いた。
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