28日目「莉緒」
「おはよう」
外は雨が降っている。朝日は部屋に入らず、暗い天井を見た。
「……あ、莉緒いないんだった」
無意識のおはようの返事は帰ってこない。それが無性に寂しく、また私は深い眠りに手招かれる。体が動かない。昨日は自分が思っている以上に疲れたのだろう。それもそうだ。八年間の清算が並大抵の労力で終わる筈がない。
体は正常で何一つ傷ついていない。ただ精神は比べ物にならない程ボロボロだ。今まで麻痺していた痛みは、当時を思い返すように私の心に牙を剥く。切り裂かれ、穿たれ、押しつぶされ。ぐちゃぐちゃになって、また私を形成する。
これは夢ではない。だが、そこらの悪夢より、よっぽどきつかった。
目を覚ましてしまいたい。起きていれば外部からの情報で幾分かは痛みがマシになるだろう。だが、彼女がいない私はすんなりと意識を浮上させることが出来ない。
「ラムネ……」
頭の上あたりに手を這わせるが、もちろんそこに緑色のプラスチックケースはない。
私は睡魔に引きずり込まれるように、再び目を閉じた。
耳には激しい雨の音だけが、ずっと響いていた。
目を覚ましたのは正午を過ぎたあたり。
痺れを切らした母親が私を叩き起こした。正直助かる。あのまま過去を見続けていたら、またカウンセリングを受ける羽目になりそうだ。
「朝ご飯は食べる?」
「んー」
「もう昼だけどね。いつまで寝てるんだか」
夏の初めに戻ったみたいだ。彼女とこんな会話をした記憶がある。
「なんか今日と明日で降るらしいから、帰る時は気を付けな?」
「台風?」
「わかんない。台風ってニュースで言ってないから違うんじゃない?」
「じゃあ新幹線は止まらないか」
あっても在来線が遅れるくらいだろう。それくらいなら差支えはない。
私は出された朝ご飯兼昼ご飯を食べ、新幹線の時間を確認する。
「十三時にはここ出ようかな」
「あと一時間もないじゃない」
「それが一番いい電車だった」
「ほんと麻里はいつも急なんだから」
「……それ、昨日も言われた」
「誰に?」
「なんでもない」
目の前のものを食べ終わり、食器を下げる。シンクには他に洗い物が無く、もう朝の家事を粗方終えた後だった。
私がそのまま水を出し、スポンジを手に取ると母親はまた驚いた顔をする。
「今度はなに?」
「いや、どう見ても洗い物でしょ」
「あんたが?」
「このくだり、昨日もやったから」
冷たい水を両手に浴びながら、茶碗を洗っていく。いつも料理はしないけど、後片付けくらいはできるんだ。そこまで莉緒にやらせちゃ、きまりが悪い。
「駅まで送ってく?」
「おねがい」
「あ、これも持って帰んなさい。この間、暑中見舞いで貰ったの。ほら、最近ちょっと有名になったでしょ。国道線沿いにある洋菓子屋さん」
「いや、知らない」
「そう?」
「どうせ有名になったってここら辺だけの話でしょ?」
「まぁ、いいじゃない。実家からのお土産って職場にでも持ってきなさい」
職場に実家からのお土産を配るほどの人脈は無いんだけどね。とも言えず。しぶしぶ頷く。
そもそも他の先生は夏休みは部活に出ずっぱりなわけで。持って行くだけ嫌味に思われそうだ。
「荷物、入るかな」
「あんな大きなワインボトル持ってきたんだから、これくらい入るでしょ」
「……それもそうか」
冷蔵庫で冷やしてからは一度も飲まなかったワインを思い出し、それに付随してあのイヤリングも思い出す。
莉緒は喜んでくれるだろうか。こんなの付けないとか言いそうではあるけれど、無理やり押し付ければきっと受け取ってくれる。
プレゼントしたニット帽はお気に入りだし、買った服もあれから着てくれている。思えば全身を私色に染めているようで少し恥ずかしい。今度靴も買ってあげようか。
「ほら、早くしなさい。送ってくから」
「はーい」
私は洗い物を終え、眉毛を引く為に洗面所へ向かった。
在来線から新幹線。そこからまた在来線。そしてバス。
いくつもの交通機関を乗り継ぎ、バス停を下り傘を差したのは五時を回る頃だった。
夏は一日が長い。空は雲空とは言えどまだ日中で、日暮れまでは時間があった。
私は旅行鞄を雨で濡らしながら小さい傘で頭を守り歩く。
莉緒はもう帰っているだろうか。彼女に会ったら沢山思い出話をしよう。和男さんの事、パパの事、佳晴の事。無理やり持たされたクッキーを食べながら、彼女の話も聞かなくちゃ。きっと彼女にも話したい事の一つや二つあるだろう。
もしかしたら、何か新しいことを教えてくれるかもしれない。
彼女が辛い顔を見せるなら、抱きしめてあげなくちゃ。
そうすると。彼女を守ると決めたんだ。
辿り着いた自分の部屋は鍵が掛かっていた。そういえば鍵はポストに入れて貰ったんだった。面倒臭がりながら一階に降り、ポストを開く。そこには銀色の鍵がぽつんと一つ。莉緒がまだここに帰ってきてないことを物語っていた。
「まだ帰ってきてないのかぁ」
一抹の寂しさを感じながらまた自分の部屋を目指す。
とりあえず、彼女が帰ってくるまでに部屋の掃除でもしよう。
鍵を差し込み、回す。ガチャと重い音がして鍵が外れ、ドアノブに手を掛けた。
「ただいまー」
返事など帰ってこない挨拶。そして彼女の靴の無い玄関。
「寂しいなぁ」
なんて言いながら靴を脱ぎ、部屋の奥へ進む。
そして。
目を見開いた。
「……なにこれ」
部屋の中は綺麗に掃除されていて、埃一つない。
私が出る時に脱ぎ散らかしたパジャマも、朝ご飯を食べた後出しっぱなしだった食器も綺麗に片付けられている。
「おかしい……」
部屋を見回す。おかしい。そんなのおかしい。
ない。何一つとしてない。
「莉緒?」
この部屋の中に莉緒の物が無い。
部屋の端に纏めて置いてあった彼女の私物がない。
私の家に来てから買った数々の生活用品と私服。ホームセンターで買った物騒な物。
それらをまとめた袋が無い。
恐る恐るキッチンへ行く。戸棚を開けるとそこには夏以前に使っていた私の茶碗。
彼女の茶碗も、彼女から貰った新しい茶碗も消えている。
「どうして……?」
洗濯機の蓋を開け、洗濯物を出してみる。
出てくるのは私の服。彼女の身に着けていた物なんて一つもない。
リビングのコンセントを見る。いつもならそこに刺さっている筈の彼女の携帯電話の充電器が無い。
「家に持って帰った……?」
いや、そんな筈はない。服と携帯だけならまだしも、食器に日用品まで。そんなことある筈がない。
彼女が買った物。彼女に与えた物。彼女が手を加えた物。全てが消えている。
「……莉緒……っ!」
私は慌てて本棚に駆け寄る。
いくつかの参考書をまるで空き巣のように散らかして取り出す。
あれは。
あれはどこ。
私と彼女のルールが書かれたノート。何ページかに渡って彼女を縛り付ける約束を書いたノート。
「あった!」
参考書の中に一冊のノートを見つける。
慌ててそれを開いた。
「なんで……」
表紙を捲ると、そこにあったのは私の文字で書かれた「したいこと」
彼女とのルールのページは綺麗に破られていていた。
「……莉緒……。なんで。……なにこれ」
本棚の前に座り込んでいた私はふらふらと立ち上がる。
なにかの悪戯?
それとも夢?
おかしい。こんなの、おかしい。
その時、ノートの中から一枚の紙がするりと落ちる。
ノートの一ページだ。
拾い上げるとそれは彼女が破ったこのノートの一ページ。二人で作ったルールの次に彼女が書き込んだ問題。私達が一緒に解こうとした難問。
『以下の命題の真偽を述べ、真の場合にはここに証明し、偽の場合には反例を上げよ』
『私は生まれてきてよかった』
奥歯を噛む。
その紙の切れ端を裏返すと、更に一言、書き加えてあった。
『約束を破ってごめんなさい』
手の中で紙がくしゃっと潰れた。
こんなの。
こんなの……。
「間違いに決まってるでしょ!」
私は玄関に立てかけた傘を持ち、無我夢中で飛び出した。
彼女が家を出たのは恐らく二日前。
最悪なことを考えれば、もう遅すぎる。
携帯電話で彼女の番号にかけるが、もちろん繋がらない。
そのままニュースサイトを開くが、目立ったニュースは無かった。
「どこにいるの……」
当てもなく走る。彼女との会話を思い出しながら、彼女が行きそうな場所を回る。
『家に帰るなら死んだ方がマシ』
実家には帰っていない? 探し回って見つからなければ学校に行って彼女の住所を探そう。ルールが綴られたページは破かれた。彼女への干渉をしない約束だって無効だ。
「先に約束を破ったのはあんただからね」
まずは家から回れる場所を探す。彼女とどこに行った? 考えろ。
夕日を見た橋で彼女と出会った。
彼女を匿うことになってからコンビニへ行った。
それから様々な飲食店に行った。
隣町のショッピングモールで様々な物を買った。プレゼントを渡しあった。
彼女に言われて毎日公園を歩くようになった。
彼女に服を買った。スカートを履かせた。
帽子を外して色んな所を歩いた。
浴衣を着て花火を見に行った。
二人で遠出をして温泉旅行に行った。
彼女のわがままで水族館にも行った。
「どこ……」
まずは公園。こんな所にいないことは分かっている。でも万が一を考えると選択肢から切ることができない。ここ以外はどこも遠い。花火を見た河川敷も旅行に行った箱根も、水族館も。電車でかなりの時間を掛けなきゃならない。
「そんな時間ないっての!」
公園を走りながら忙しく視線を回す。雨と風が木々を揺らし、まるで迷路に迷い込んだようだった。道が歪み、眩暈が起きる。体をはち切れさせんばかりの不安が体内で暴れている。
怖い。
もう誰かを失うのが怖い。
この公園で彼女が言った言葉が幻聴として聞こえる。
『私、首吊りなんて嫌なんで安心してください。苦しいし綺麗じゃないですし。死ぬときはもっと綺麗に死にますから』
綺麗に死ぬって何。馬鹿みたい。ふざけないで。こんなに人を心配させて。なにが綺麗だ。
「馬鹿!」
公園を見切って道路に出る。どこに行けばいいかもわからずに、その場にしゃがみ込む。
今度は私の言葉が聞こえる。
『私の知らないところで私が知らないまま死んでよ』
「なのに莉緒を探してるのは、どこのどいつだよ……」
訳が分からなかった。
自分が考えていることが分からなかった。
「私も大概馬鹿だ」
私は莉緒を救いたい。
いや、救いたいなんて綺麗な言葉じゃない。
私は莉緒に生きていて欲しい。
それは彼女の為なんかじゃない。
私のエゴ。私が彼女に死んでほしくないから、彼女を引き留める。
「学校に行こう……」
今必要なのはやはり実家の住所と電話番号。彼女が見つからなくてもいい。まずは彼女の親と話さなくちゃ。
「全部話して、謝ろう。まず、それから」
ふらふらと立ち上がり、車通りが多い交差点に行く。
タクシーは普段からあまり見ない。駅の方に行かなきゃ。
傘を持ちながら駅の方向へ走る。体力はない。足がもつれる。しかし何とか気力だけで前に進む。体はすでにびちょびちょで、きっとタクシーでも白い目を向けられる。
でも、そんなことを構っていられなかった。
そんな時、前方から珍しくタクシーが近づく。慌てて手を上げると、運よく客の乗っていなかったタクシーは私の隣で停車した。
車内のクーラーが一気に私の体を冷やす。雨と汗で濡れた私の体が熱い。
運転手に学校の名前を伝えると、バックミラー越しに一度怪訝な目を向けられ、ゆっくりと動き出す。
車窓には酷い私の顔が写る。寝不足だったもんね。酷いクマ。目元は黒く、顔面は蒼白。
体調の悪さまで感じる。
揺れる窓にもたれるように頭を預けると意識が遠のく。
真っ暗な空間に莉緒が立っている。
そんな彼女が一瞬で真っ赤に染まる。
絶対に止める。
命を絶ってどうするというんだ。
「……さん? お客さん?」
「……ん」
「お客さん……。着きましたよ……? 大丈夫ですか?」
「……ええ。はい。すいません」
表示された料金をトレーに置き、レシートを断る。
「雨降ってるんで気を付けてよ。元々ずぶ濡れだったのに。風邪ひいちまう」
「……ありがとうございます。すいません。ご迷惑を」
「ほんと参るよ。一昨日も変なお客さん来て。丁度お客さん乗せたあたりに呼ばれて、行ってみたらすごい荷物で。今のあんたみたいに顔色悪かった」
「……?」
なぜか、何かが引っかかった。
「そのお客さん、どこまで?」
「病院だよ。体のどっかでもやったんだろ。目がギラギラしてて気持ち悪かったんだよ。覚えてる」
「……莉緒?」
「はい? なぁ、もう降りてくれ。こっちも仕事なんだ」
気が付けば私は運転席と助手席の間から身を乗り出し、運転手の肩を掴んでいた。
「おいっ! なにしやがる!」
「その子。女の子でしたか?」
「は……?」
「身長が小さくて、えっと、ニット帽とか、被ってませんでした?」
「あんた知り合いかよ。そうだよ。こんな暑いのにニット帽被って」
「その病院に行ってください」
「何言ってんだよ。てか、まず手を放してくれ!」
手を跳ねられ、私は慌てて席に戻る。
「ごめんなさい……。病院にお願いします……」
運転手は大きく舌打ちをしながら、学校に横付けした車を動かす。
「あんた、ものによっちゃ、警察沙汰だかんな!」
「……すいません」
「ったく。二人そろって、気色の悪い目してよ……」
イライラとシャツを正して運転し始める男に申し訳なさを抱きながら私は考えた。
病院。
なんで莉緒が病院に?
そういえば、一度病院の話題を出した時に彼女の反応がおかしかった。
あの時はその小さな変化に目を背けたけれど、今なら明確におかしいと思える。
最近の貧血。旅行の時の出血。そしてあのパニック。
あの病院、確か、精神科も入っていたっけ。あのパニックは私の物と似ている。カウンセリングを受けていてもおかしくない。
じゃあ、何か過去のトラウマが?
彼女に一歩近づいた途端。今までの疑問が線で繋がれていく。
ただ、まだ真相には遠い。
そもそも病院に行って彼女がいるとは限らないんだ。
カウンセリングを受けてそのまま実家に帰っていてくれたら。そんな現在の最善択を祈る。
お願いだから何事もなく、無邪気な笑いを浮かべていてほしい。
私の胸の中には未だに形容できない感情が渦巻いている。年上の人間としての庇護欲にしてはあまりに大きく。恋愛感情と呼ぶには甘さが足りない。
この感情は何なのか。自分のことも莉緒のことも分からぬまま、強く強く莉緒を想った。
「……ですから、何度も説明した通り当院に藍原さんという患者様は現在入院しておりません」
「じゃあ、一昨日に彼女がここを訪れたかだけでも」
「お答えできません」
「なんでですか!」
「……個人情報の取り扱いには細心の注意を払っておりますので……。申し訳ありませんが……」
病院に到着して真っ先に受付に走った私は、その勢いに任せて、ここに莉緒が入院しているのか。この病院に診察に来たのか。そういった事を次々に質問した。
しかし結果として、殆どの答えを『答えられない』と返されることになった。
私も昔精神科に入院した身だ。面会を拒否すれば、その病院にいるという情報も伏せることができることくらい知っている。
私が一度莉緒の名前を出した時、受付の女は手元のパソコンで名前を調べ、そこにある情報を目で追っていた。つまり莉緒は確かにここに関係がある。しかし、個人情報漏洩に厳しいこの時代があと一歩のところで莉緒に届かせてくれない。
私にずっと何かを隠していた莉緒だ。きっと事情を隠したいと考えるだろう。彼女がどんなことでこの病院に関係しているのか。それが分かるまでここから離れるわけにはいかない。
一刻を争うんだ。
もし、ただの診察であったなら学校に戻って住所を調べ直さなければならない。
その時、背後でコンビニの袋のようなものが落ちる音がして無意識に振り向く。
広く騒がしい待合室だったが、その音は綺麗に私の耳に届く。
「……莉緒」
そこには、パジャマ姿でこちらを茫然と見つめる莉緒がいた。
「……なんで、こんな」
彼女は大きく目を見開くと、次の瞬間、私が足を動かすより先に逃げ出した。
彼女が地面に落とした物には目もくれず、私は彼女の後を追う。
後ろで受け付けの女が私に止まるよう声をかけた気もするが、そんなものは耳に届かなかった。
莉緒は病院の奥へと続く道を走る。その小さな背中を私は追う。
莉緒の手を掴まなきゃ。彼女を引き留めなきゃ。
それだけが、私の足を進めた。
途中何人かの患者に驚きの眼差しを向けられ、何人かの職員に注意を受けた。それでも止まらない莉緒の背中を追って院内の曲がり角を一回、二回と曲がる。
そして。
三回目の曲がり角を曲がった瞬間。
莉緒は私の足元に現れた。
蹲るようにして、彼女は倒れていた。
驚きながらも勢いの付いた体をどうにか操り、彼女を踏んでしまうことだけは避ける。
「……え? え? ちょっと! 今誰か呼んで――」
「大丈夫!」
「……?」
「大丈夫だから……。ちょっと待ってて」
「待っててって……」
「ただの貧血だから。……大丈夫」
ふらふらと壁に手をつき立ち上がろうとする莉緒の足には、明らかに力は籠っていない。
一度がくっと体勢を崩し、それを抱きとめるようにして私は莉緒を両手で受けとめる。
「大丈夫ですか!」
背後から慌てた男の声が響く。振り返ると、白衣を着た初老の男性が息を荒げながらこちらに走ってくる。
「鴨田先生……」
「藍原さん? 大丈夫ですか?」
「……はい」
「息が上がってます」
「ちょっと走ったら……」
「何を考えてるんですか……。あれほど安静にしてくださいって釘を刺しましたよね」
「はい」
私に支えられながら彼女は病院の先生と思われる男に叱られる。
そのやり取りから見る二人の姿は、一時の患者というよりは、長い間柄のように見えた。
「自分の立場が分かっているんですか? 貴女は――」
「ストップ! ……ストップです先生……」
莉緒は先生の言葉を手の平で止める。
そして私の方をちらりと見た。
「そう言っても……。ここまで来て隠し通すのは無理がありますよ」
「……はい」
「だったら早く言ってしまった方が、拗れずに済みます」
「はい……。だからせめて、私の口から」
「……そうですか。分かりました」
鴨田先生と呼ばれた男は静かに頷くと、ゆっくりと言葉を付け加えた。
「ここでは他の患者さんに迷惑が掛かります。藍原さん。病室に戻りましょう」
「……はい」
莉緒は私に「大丈夫」と小さく告げると、体を支える私の腕を振り払うようにして歩き始める。。
ゆっくり、ゆっくり私から離れていく彼女を見て、どうしても私は足を踏み出せなかった。
足が震えている。
頭の中は突如現れた新しい情報でパンク寸前だった。
莉緒が生きていてよかった。
莉緒は入院している?
なんで倒れた?
数々の質問が渦巻く中で、一つだけ確かに感じているのは紛れもない恐怖だった。
莉緒の病室へ行くのが怖い。そこには彼女が必死に守ろうとした秘密がある。それがいざ目の前にあると知ると、足がすくんでしまう。
なんて情けないんだ。私。
もう一度触れたら壊れてしまいそうな程繊細で華奢な彼女の背中を見る。
一歩一歩確かめるように、よろめきながら歩く姿は、生にしがみつく彼女そのもの。
消えてしまいそうに儚いその体の中からは、正しく彼女の命が燃えている熱が見えた。
莉緒の病室は個人部屋で、そこまで広くはない。
病室に入った瞬間、パパの姿がちらつき、口の中に苦いものが広がった。
「挨拶が遅れました。私、彼女の担当医をさせて頂いております。鴨田昭利と申します」
そう自己紹介した男は首元に下がった名札を右手で持ち上げて会釈する。
名刺を差し出してくるので、私は財布の中に入っていた予備の名刺を手渡す。形式ばった挨拶を済ませるが、私の体はずぶ濡れで格好がつかない。
「は、はい。長瀬麻里です。この子の……。学校の教師です……」
私が言葉を選びながら自己紹介すると、先生は優しく微笑む。
「大丈夫です。彼女から聞いていますよ。ここ一か月彼女と一緒に過ごしていた方ですよね?」
「え……」
「僕はそこら辺の事情を色々と知ってますから。彼女が楽しそうに話してましたよ。長瀬さんとの生活は楽しかったって」
「……そうですか。すみません」
莉緒の友好関係でここまで親しくしてくれる大人の存在を予想していなかったので、話しながら驚いてしまう。
「すみません。彼女から一方的に聞いてしまうような真似をして。何せ彼女が楽しそうに話すもので。ついつい聞いてしまいました」
「あの、彼女とはいつから?」
「かなり昔からですよ。それこそ、彼女が自殺未遂のような事を繰り返していることも知っています」
「……」
私が黙ると、これまで沈黙を貫いていた莉緒が会話に混ざる。
「先生。それ以上は」
病室に入るなりベッドに座り、足を布団の下に隠した莉緒は、パジャマ姿という事もあってどこからどう見ても病人だ。
「そうでしたね。どうしますか? 私は席を外していた方が?」
「ううん。できれば先生もここにいて欲しい」
莉緒の口から先生という言葉が発せられる度に肩が跳ねてしまう。私に向かって発せられたことなんて数えることしかないその言葉は、とても自然に莉緒から流れ出る。
彼女にとって、先生という単語は教師ではなく医師を指すものらしい。
鴨田先生は莉緒の言葉に小さく頷き、ベッドから距離を取る。私の視線に気が付くと、一度微笑みゆっくりと体を回し、窓の外へ視線を向けた。きっと私達への配慮なのだろう。
「ごめんね。心配かけたよね」
ベッドに座る莉緒はこちらを見てへなっと笑う。
私は込み上げる涙を必死に抑えながら、ベッドの横にある丸椅子に腰を下ろした。
「当たり前でしょ……。あんな置手紙して」
「本当はここが見つかるつもりじゃなかったんだけどな……」
どうやって見つけたの? と首を傾げる。私がどれだけ心配したと思っているんだ。その無邪気な顔を思いっきり平手打ちしてやりたい気持ちにかられる。
「莉緒を探してタクシーに乗ったら、その運転手が丁度莉緒を乗せた人だったんだ……」
「なにそれ……。都合よすぎ。最悪だよ……」
「この町、タクシーの数少ないし」
「それでも確率おかしいよ」
「そうだね。私も運が良かったと思う」
彼女に辿り着いたのは本当に運の力だった。昨日佳晴に無理を言ったのが効いたかもしれない。いや、あいつはそんな手助けしてくれないか。
「ねぇ……。どうして? どうして、黙って消えたりしたの?」
「……色々とあったんだよ……」
「色々って……」
「約束を破ったことは、謝る」
莉緒はそれっきり下を向いてしまう。
沈黙の中で私は幾つも彼女に問いただそうとした。
なにがあったの?
なんで病院にいるの?
私になにを隠しているの?
どうしてそんなに、穏やかな目をしているの?
彼女に聞きたいことは山ほどある。しかしそのどれも、口にすることは出来なかった。
沈黙の空気感が私の口を開けさせてくれなかった。
「ねぇ、麻里さん」
「――っなに?」
莉緒が口を開き沈黙が破られると、私は彼女の言葉に食らいつく。
しかしその内容に、また私の声は奪われた。
「麻里さんとした約束。他のも守れそうにないや」
小さくふっと息を吐いて、私の目を見る。
「私、もうそろそろ死んじゃうから」
静かだった。
落ち着いたその声は、今までとは明らかに違う。
すーっと耳に入ってくる、静かな声。
「麻里さん。私が今から言う事さ。全部本当だから。ゆっくり聞いて」
「……え」
「麻里さんが知ろうとした私の全部。もう隠せそうにないからさ」
「……莉緒」
「麻里さんになら言ってもいいって思えたんだ。特別だよ? 麻里さんは特別」
「……やめて」
「これを聞き終わっても、私を愛してくれると、嬉しいな」
「……」
そして、彼女の唇が動く。
窓の外に響く雨の音も。いつもは五月蠅い蝉の声も。天井で唸るエアコンの駆動音も。
全てが消えて、無音だった。
私の耳に聞こえるのは。
「私ね。急性骨髄性白血病患者なの」
彼女の優しい声だけだった。
始まりは小学校二年生の時。元気だけが取り柄だった私は慢性的な頭痛と貧血に見舞われた。友達も多く学校が好きだった私が数日間登校を拒んだことを心配して、両親が病院に連れて行った。
最初は自分でもただの風邪だと思っていたし、小さな病院の医者にも同じことを言われた。
しかし症状は一向に好転しない。
それどころかしばらくすると、私は止まらない鼻血を出すようになった。
両親は嫌な予感を覚え私を大きな病院に連れて行き、そこでの検査の結果、私は自分が難病患者だと知らされた。
治療は迅速に行われ、私がことを把握するよりも早くに、病院に閉じ込められた。
よくわからないまま薬を飲んだ。
よくわからないまま検査は進んだ。
よくわからないまま手術は成功した。
いくら両親に聞いたところで返ってくるのは励ましの言葉と慰めの言葉。
また学校へ通うようになる頃には、周囲の月日は進んでいて、病院に閉じ込められていた私はまるで竜宮城から帰った浦島太郎の気分だった。
私の障害となったのは、経過した年月のズレだけではない。
闘病生活の中で髪は抜け落ち、体はやせ細り、筋力は衰えていた。
私は必死に周囲に溶け込む練習をした。学校の復帰を心待ちにし、皆に追いつけるよう勉強をし、流行りのテレビ番組を見た。
頭の何処かでは、皆に置いて行かれてしまうのではないかと恐怖していた。
しかし、いざ学校へ復帰してみると、皆優しく、私を迎え入れた。
両親も長い闘病を終えた私を憐れんだのか、私の願いを何でも受け入れてくれた。
世界に愛されているのだとさえ思った。
そしてすぐにそれが異常だと気が付いた。
皆、優しすぎた。
欲しいおもちゃを与えられ。行きたい場所に連れて行ってもらえる。
体力がなくなった私の為にクラスのみんなが外で遊ぶのを諦めて、私と室内で遊んでくれるようになった。
喧嘩になるとすぐに先生が間に入ってくれた。先生はいつでも私の味方だった。
その時、先生がクラスの子に言い聞かせていた言葉を今でも覚えている。
「莉緒ちゃんには、優しくしなきゃダメでしょ」
その言葉が私を正気に戻してくれた。
特別扱いされることは嬉しいことではない。
登下校も体育も給食も、他人と違うということは、差別だった。そこに良いも悪いもない。
卒業を控える頃には、優遇されることに疎外感を感じ、普通に憧れた。
両親の好意には遠慮するようになり、先生にも友達にも普通に接してほしいと頼んだ。
体がそれに追いつかないこともあったが、鞭打って皆に追いつこうとした。
特別枠になるくらいなら、皆と同じ場所で劣等生になりたかった。
そうして私は普通を目指した。
中学に上がり私は孤独になった。
特別な待遇をされるくらいなら一人の方がマシ。
自分の病気の事を理解し始めた頃からそう思うようになった。
周囲に溶け込むことへの執念はもはや病的だった。
体の弱い私は体育の授業について行けず、部活にも入ることが出来なかった。
そんな自分の体が大嫌いだった。
おそらく私の知らないところで噂は広がっていたんだろう。
好んで話しかけてくる生徒は殆ど居なかった。
私は孤独な時間を様々な知識を得る時間にあてた。
今後長い人生。今を捨てても将来が浮かばれればいい。
現状に目を逸らすようにして、本に噛り付いた。
その中で医学書に手を付けた時期がある。
両親に聞いてもはぐらかされるだけの自分の体について、知らなければならないと思ったんだろう。
そして私はその時になって初めて一つの事実を知った。
白血病は再発のリスクがある。
それは両親が私に隠しておきたかった情報なのだろう。
調べればすぐに分かるこんな情報を私はそれまで知らなかった。
そして、この情報は私にとって絶望にも等しいものだった。
一度乗り越えれば終わりだと思っていたこの生活が、再び訪れる可能性がある。
確率は高くはない。
それでも引かない確率ではない。
自分はこの先、一生再発のリスクに恐怖しながら生きていくのだと考えた時、体が凍った。
そして、なにかがぷつんと切れた音を聞いた。
それから私の精神状態は次第に不安定になっていき、また病院にお世話になる羽目になる。
検査とカウンセリングをする度に私の精神は擦り減った。
両親がこうなることを危惧していたのだろう。
案の定、心の幼い私に抱えきれるほどの重荷ではなかった。
強がりで抑え込んでいた感情は決壊し、私は一気に弱くなった。
子供の様に泣きじゃくり、かんしゃくを起こすようになった。
鬱病のように死へ縋りたくなる日々が続いた。
中学三年の夏。初めて手首を切ろうとした。
自分の腕に刃物を立てる緊張と、もしかしたら死ぬかもしれないという恐怖感。
怖かった。恐ろしかった。冷や汗は止まらずに、涙が出た。
そして同時に、自分は生きているんだと感じた。
結局刃物は私の皮膚に触れることは無かった。
恐怖感を欲した私には、実際に肌を切る必要性はなかった。
そして幸か不幸か。死への恐怖が人一倍強い私は日常の些細なことで簡単に恐怖を感じ取ることができた。
日常の中で高まる恐怖と緊張が私を安心させた。
私は生きていると、早くなる鼓動が教えてくれた。
一度知ってしまったこの感情には中毒性がある。
定期的に襲われる鬱にも近い感情と、求めるように自ら手を伸ばす恐怖感。
私は安寧を手に入れながらも一歩一歩確実に破滅へ向かっていた。
そして高校に入った時。決意した。
死から逃げる恐怖に耐えきれなくなり、本気で死にたいと思った時。私は死のう。
死に追われる恐怖から唯一逃げることのできる場所が死だった。
怖がりな私が選んだ最後の選択肢は、逃げ切ることだった。
そう決意した時、少しだけ気が楽になった。
なにかが吹っ切れたような気がしたんだ。
いつ終わるか分からない人生を、全力で生きる。
恐怖に追いつかれないように必死に楽しむ。
死ぬ気で、好きなことをやり切る。
そのために人生に課題を作った。
私の人生の証明問題。
そして毎日を後悔なく終わらせるというルール。
私はその日から、残りの寿命全てに火を点けて燃やし始めた。
密度の濃い時間を過ごすために、出し惜しみなくすべてを燃やした。
それがここにいる私。
藍原莉緒の全て。
莉緒は私の目を見たまま淡々自分の過去を話した。
私がここ一カ月手を伸ばして、届かなかった真相。
藍原莉緒という人間の全て。
彼女が読み終えた本を閉じるように、ふ―っと息を吐き儚く笑う。その瞬間、世界の音が鳴るのを思い出したかのように騒ぎ始めた。
いつの間にかこの場に鴨田先生の影は無くなっていて、病室には私達だけが残されている。
なにか彼女に声を掛けなくては。
彼女を優しく抱きしめてやらなくては。
しかし、いざ目の前に提示されると、身が竦んでしまう。
私の目には涙が溢れていく。
どんどんと彼女の顔が滲んでいく。
あぁ、今気が付いた。私の中にあったこの感情の名前が分かった。
彼女の輪郭がぼやけていくにつれて、私の心が輪郭を持つ。
この胸の中にある感情は庇護欲でも愛情でもない。
これは、憧れだ。
私は彼女の目に宿る命の輝きに。彼女の心の強さに。体から漏れだすその生き方に。憧れていたんだ。
初めて会ったあの橋の上で、確かに彼女に憧れを抱き、見惚れたんだ。
だって、彼女は私が一番欲しかった物を持っていた。
私が後悔し続ける過去の私とは、全く違う物を持っていた。
もし、佳晴から逃げていなかったら。そんなことを何度も繰り返し考えた。そんな時、必ず現れる「もし」の強い自分に、彼女は似ていたんだ。
私は震える手を抱くように自分の左手首を右手で握った。
「ねぇ、麻里さん」
「……なに?」
「私はね。麻里さんに救われたんだよ」
「だから私は何もしてないって」
本当に。貰ってばっかりだ。
「この夏は私の人生で、一番楽しい一カ月だった」
私は返す言葉を見つけられず、ただ俯く。
「麻里さんは、どうだった?」
「そんなの。……楽しかったに決まってる」
莉緒は小さく笑うと、私の左腕に手を乗せた。
「麻里さん。もう一度、聞いていい?」
「うん」
「私は麻里さんを救えた?」
「うん」
私の声は震えている。嗚咽交じりの声が、彼女に縋りつく。
「莉緒は私を救ってくれた。凍り付いた私の時間を溶かしてくれた。背中を押してくれた」
「……そっか」
「楽しかったんだよ。この一か月。本当に楽しかった」
「うん」
「だから。……ありがとう」
「うれしい」
「ありがとう」
私は莉緒の手を握り、額につけるようにして泣く。
子供の様に泣く声が病室中に響いた。
「麻里さん。泣かないでよ」
「……だって」
「じゃあ一つ。秘密にしていたことを教えてあげる」
「まだ秘密があるの?」
「沢山あるよ。女の子は秘密でできてるんだから」
微笑む莉緒の顔はまだ滲んでいる。
「私と麻里さんが橋の上に会った時ね。麻里さん自分がどんな顔してたか、知らないでしょ?」
「……うん」
「ちなみに麻里さんはどんなことを考えてたの?」
「どんなことって」
あの時は確か、夕日の赤を背負う莉緒が。
「すごく美しくて。すごく怖かった」
「変なの」
ケタケタと莉緒は笑う。
「麻里さんね。あの時、神様を見たような顔をしてたんだよ」
「え?」
「希望って言った方がいいのかな。自分で言うのも恥ずかしいけど。死んだ目に光が灯っていくのが見えた。助かった。みたいな感じかな。たとえるなら……。あ、体育でペア組んでって言われた時に、あぶれた自分の他にもう一人見つけた人。みたいな」
分かる? と首を傾げる莉緒に、私は大きく頷く。
「分かるよ。だって……」
だって、その顔は見たことがある。
「なんだ……。やっぱり私、佳晴に似てるじゃん」
また涙が溢れた。突然訳の分からないことを言い出す私に莉緒は慌てる。
「莉緒は、私のヒーローだね」
「それ、あんまり嬉しくない」
「じゃあ、救世主」
「それもあんまり」
私は泣きながら言葉を探す。莉緒にピッタリな言葉。私を救ってくれる彼女のような存在。
「天使」
「許す」
「莉緒は私を変えてくれた天使だ」
「告白じゃん」
「そうかもね」
莉緒は私を抱きしめた。小さく細い体で私を強く抱きしめた。
「ねぇ、麻里さん」
「うん」
「私は、もう天に帰るからさ。麻里さんはちゃんと前に進んでね」
「……莉緒、いや」
「私はもう駄目だから」
「駄目なんかじゃないよ」
「私がいなくなっても。麻里さんはこれからを生きるんだよ」
私は莉緒の腕を振りほどいて彼女の両肩を掴んだ。
「……莉緒、やめて」
声を振り絞った音の無いような声に莉緒は首を振る。
「莉緒……。いかないでよ」
またもゆっくり首を振る。
「置いて行かないで」
「……ごめんね」
私は彼女の目を見つめる。
ずっと力強く燃えていた炎が、そこにはもうなかった。
「死なないで」
全ての嵐が過ぎ去った目をしている。
すべての波が治まり、静かに優しく凪いだ目は言う。
「もう、死ぬよ」
私は取り乱す。泣き崩れながら莉緒の肩を揺らした。
馬鹿な真似は許さないと莉緒を怒鳴った。
どこにも行かないように強く強く彼女を抱きしめた。
しかし、終始彼女は優しく落ち着いていて、私を抱きしめながら宥める。
私の頭を慈しむように撫でながら、彼女も泣いていた。
「ねぇ、麻里さん。そろそろ時間だよ」
私が落ち着きを取り戻してからどれほどの時間が流れたのだろう。私はしがみつくように莉緒を抱きしめていた。一瞬でもその手を解いてしまえば彼女はどこかに行ってしまいそうで。その小さな体を繋ぎとめようと必死に力を入れていた。
「麻里さん。ありがとう」
ぽんぽんと私の頭に一定のテンポを保ったまま触れながら、彼女は様々な話をした。
それは私と出会ってからの答え合わせ。
例えば、生活の中での些細なこと。
大皿を囲むのは、感染症のリスクを減らすために実家ではしなくなった。だとか。
迷信とされていながらも、白血病の再発リスクがあるという噂から、生食を食べることが無かった。だとか。
父親は莉緒の病名が分かったその日から煙草を辞めたから匂いが懐かしかった。だとか。
生活のことを話すにつれて徐々に明らかになっていく彼女の両親像はどこまでも優しく、疑っていたことが申し訳なくなる。
莉緒のしたいことであれば何でも許してくれる。その優しさが彼女にとっては辛いのだとしても、両親からは娘へのできることの全てなのだろう。
この夏に娘がどこかに泊り続けることもきっと不安だっただろう。それでも送り出した両親の覚悟は尊敬に値する。
「あのお金だってそうだよ。私の人生の前借だって。軽く百万くれたの。強く生きれるようになったら、自分で稼げって言ってね」
優しいんだか厳しいんだか分からないよね。と笑う。
「きっと私が自殺するって言っても、泣きながら許してくれるんだと思う」
そう言って彼女は笑顔のまま泣いていた。
彼女が自分の体調に異変を感じ始めたのは半月前。実家に帰って自分のノートを取りに行った日。あの日から徐々に体の重さを感じ始めたらしい。
花火大会の日には本格的に倦怠感を感じて察しはじめ、温泉旅行の鼻血で確信したんだそうだ。
それからは不安からくるストレスを始めとした、白血病患者の症状が彼女を苦しめた。
どこからか貰ってきたただの風邪が体を蝕み、症状により抵抗力が落ち、悪化した。
患者特有の出血時に中々血が止まらない現象と生理が重なり、旅行日から大量の出血を重ね、貧血に見舞われた。
そしてこれまた症状の一つである痣のできやすさにより、体中に痣ができた。
追い打ちの寝不足だ。不安で不安で眠れなかったと笑っていたが、ここまでボロボロになっていた彼女に気が付かなかった自分が情けない。
「麻里さんは鈍感だから」
「……そうだね」
一通り話し終えた頃には空はもう真暗で、激しい雨の音だけが響いていた。
「そろそろ麻里さん帰らなくちゃ」
別れを告げられたように思えて、肩をこわばらせる。
「明日もここに来てくれればいいじゃん。そんなに早く病気は回らないよ」
「……わかった」
「あ、でも、明日は夕方に来てくれるとありがたいかな。昼間は両親が来るんだ。色々話すから」
「……わかった」
震えながら彼女の手を離さない私を、莉緒は子供をあやすように宥める。
最後に頬にキスをされたが、それがどうしようもなく悲しく感じた。
自分の部屋の玄関を開けると、地元からの荷物が綺麗な部屋に転がっていた。
旅行鞄から荷物を取り出すと、彼女と食べようとしていたお菓子が目に入り、そっと冷蔵庫に仕舞う。様々な物を鞄から取り出し、最後に底に残ったものを拾い上げて目を伏せる。
彼女の為に買ったガラスのイヤリングは割れていて、私はそれをそっとゴミ箱に捨てた。
体も心も疲れきっている。それでも眠ることはできなかった。
真暗な部屋の中、テレビが発する色取り取りの明かりがチカチカと目に焼き付く。
明日の天気は雨のち晴れで蒸し暑い日だと、アナウンサーとマスコットが元気よく話している。
明日で、真夏の猛暑は終わり。
こんな暑い毎日ともおさらばですね。そう笑顔でこちらに語り掛けてくる。
もう夏は終わり。
あぁ、きっと明日、莉緒は私の目の前からいなくなるんだろうな。
何故だかはっきりとそう思った。
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