25日目「思い出」

「麻里さん。水取ってください」

「はいはい」

「ありがとうございます」

 昨日は水族館の後に寿司屋へ行き、電車でまた一時間ほどかけて帰宅した。

 私は一日の疲れに今にもベッドに倒れたかったのだが、先に倒れたのは莉緒だった。

「ほんと、大丈夫?」

「大丈夫ですって」

「やっぱり魚のアレルギーとか……」

「アレルギーだったら体中すごいことになってるか、昨日のうちに死んでます。ちょっとここ数日寝不足だっただけ」

「一昨日の朝なんて、寝すぎて目が冴えちゃって、とか言ってたじゃん」

「えっと……」

 布団に寝転がる莉緒はゆっくりと私から視線を逸らす。

「どっちが嘘?」

「……えっと。最近眠れないのが本当です」

 私はいつも彼女がしているようにわざとらしく溜息をついてみる。

「寝不足で体調悪くて、疲れと相まって翌日寝込むって……」

「ごめんなさい」

「謝らなくてもいいけど……。自分の体は自分が一番わかるって言ってたよね?」

 薄いタオルケットを口元まで引き上げて、さらに上目遣いを加えたような表情で私を見上げる莉緒の頭をポンポン叩く。

「……分かってますよ」

「分かってないじゃん」

「分かってるからっ――。やっぱ……何でもないです」

 言葉を飲み込む莉緒に呆れて、私は布団の傍を離れる。

「寝れるんなら今寝ちゃいな。どうせやることなんてないんだし」

「……はい」

 



 私は莉緒から離れ、家事やら何やらを片付ける。

 午前中は雨がしとしと降っていたから洗濯物を回すのを諦めていたけど、午後からは一変して晴れ間が広がった。明日には私も莉緒もここを離れる。数日間の帰省だけど、洗濯物を溜めとくのはなんかちょっぴり嫌だ。こう思うようになったのも私が変わったせい。そもそも変わらなければ帰省なんてしなかったけど。

 気が付けば莉緒は眠りに落ちていて、私は起こさないように一日を過ごした。

 莉緒が目を覚ます頃にはもう時計の単身は垂直に垂れ下がっていて、空は久しぶりの夕日に染まっていた。

 今日の夕日はなんだか綺麗だななんて思いながら、半日で乾いてしまった洗濯物をベランダから取り込んでいると、寝たままの莉緒が目を擦りながら声を掛けてくる。

「おはよ……」

「もう夕方だけどね」

「部屋が真赤だからわかる」

 私はぐちゃぐちゃの洗濯物をそのままベッドの近くに放り投げ、莉緒の布団の方へ移動する。

「水とかいる?」

「ううん。大丈夫」

「そ」

 莉緒は何度かゆっくりと瞬きをした後、半分だけ瞼を持ち上げて静かに天井を見つめた。

 そんな彼女をソファに座って見下ろす気分にもなれず、私は床に腰を下ろし、肘を立てて彼女の横に寝転がった。

「夕日、綺麗ですね」

「そうだね」

「今日の夕日はこの夏でもトップレベルかも。すごく濃い」

「うん。濃い赤」

「麻里さんと初めて会った時みたい」

「言われてみれば」

 莉緒の瞼は細く割れている。上を見上げているのが眩しいのか、それともこの美しい夕日に浸っているのかは分からない。

「麻里さん、初めて会った時、すごくかっこ悪かったよね」

「言わないでよ。誰だって自殺現場を見たらパニックになるって」

「私、あの時は本当に飛び降りる気なかったんですよ?」

「傍から見たらそんなの分からないって」

 誰よりも死ぬことを恐れる人間が死の淵に立つ。私にはその瞬間の感情なんて分かりっこない。

 万が一、手が滑ったら。万が一、バランスを崩したら。そう考えるだけで悍ましいのに、彼女はそれを能動的に行っている。

 莉緒のことは徐々に理解してきたつもりだけど、私はまだこの子のことを何も分かっていない。だって抱える問題すらも知らないままだ。彼女との関係を深めれば、抱えたものも打ち明けてくれると信じてここまでやってきたけど、どうもそうはいかないらしい。

「私、夕日に物足りなさを感じてたんです」

「物足りなさ?」

「夕日は大好きで。死ぬなら夕日をバックになんて昔から考えてたんですけど。なんだか空虚っていうか。自分でもよく理解はできていないんです」

 ずっと一人で考えていた莉緒は自分の中にあるものを人に伝える手段を持っていない。多分言葉なんて簡単な物では表すことが出来ないんだろう。もっと抽象的な、例えば感覚をそのまま表現できるすべを彼女が持っていたら、彼女は自分の中身を上手くアウトプットすることが出来るのだろうか。

「でも、今は違う」

「え?」

「夕日を見ると、麻里さんの顔が浮かぶんです。この夏の思い出が色々と浮かぶんです」

「なんかそれ恥ずかしい」

「それが凄く幸せで。胸が一杯になって」

 莉緒は薄く開いた眼を閉じると、ゆっくり息を吸った。

「夕日を見ると、あぁ、こんな日なら死んでもいいな。って思えるようになった」

「……やめてよ」

 彼女が死について話題を出したのは久しぶりだった。

 なぜか私の中で、もう彼女は死ぬことは無いと考えてしまっていた。問題を打ち明けてはくれなくても、ふと消えるように死んでしまうことは無くなったと、勝手に考えていた。

「あーあ……。こんな日に、このまま、麻里さんに看取って貰えたらいいのに」

 目を瞑って布団に寝る彼女が遠く感じる。手を伸ばしてもどこかへ消えてしまいそうで、私は衝動的に隣に寝る彼女を捕まえるようにして抱きしめた。

「わっ。……びっくりしたぁ」

「そういうこと……言わないでよ」

「……ごめん」

「どこにもいかないでよ」

「……」

 私の頬と彼女の頬が触れる。そこに温かく濡れるものを感じてもう一度強く抱きしめた。

 どちらの涙かなんて関係ない。ただ私は彼女を繋ぎとめようと、優しく、強く、夕日が沈むまで抱きしめ続けた。




「麻里さん。苦しい」

「ごめん」

 莉緒が口を開いたのは夕日が沈む直前。部屋の中には闇が入り込み、電気をつけないと世界の輪郭がぼやけてしまう時間帯。

 私はそっと莉緒から離れて、彼女と反対側に体が向くまで転がって離れる。

 恥ずかしくて彼女の顔が見れなかった。

 自分の行動を自覚した今の瞬間から心拍数が跳ね上がったのが分かる。

 何やってんの。私。

「ねぇ、麻里さん」

「ん?」

「一つ、お願いしていい?」

「難しいこと?」

「ううん。簡単」

「じゃあいいけど」

 私が彼女に背を向けたまま寝転がっていると、徐に彼女は布団から起き上がる。

 気配を感じて顔を天井に向けると、四つん這いになった彼女の顔がそこにあって、思わずまた顔を背ける。

「私、麻里さんが煙草吸ってるところ見たい」

「は?」

 そんなこと? と口から漏れそうになる。

「だって麻里さん。私がここに来てから煙草吸ってないでしょ? 花火大会の時に言ったじゃないですか。あとで吸ってるところ見せてって」

「見たって何も面白くないよ」

「麻里さんのかっこいい姿見たいじゃん」

「煙草を吸ってる姿がかっこいいと感じる年なのが羨ましいよ」

「いいじゃん。吸ってる所見せてよ。もうちょっとで夕日も沈んじゃう。折角空綺麗だからさ。ベランダで」

「人前で吸いたくないんだけどなぁ」

「いいからいいから」

 私の意見なんて聞かずに、莉緒は本棚から煙草とライターを手に取ってベランダに向かう。

 彼女が鍵を開けてベランダへの戸を開けると、暑苦しい空気がむわっと室内に流れ込んだ。

「仕方ないなぁ」

 私は立ち上がり、キッチンに片付けてしまっていたガラスの灰皿を片手にとって、ふらふらと彼女の後を追う。

 ベランダのサンダルは一つしかない。だから彼女は裸足だった。

「足汚れるよ」

「洗えばいいだけじゃん」

 莉緒が裸足で高い場所に立っている。それだけで少し胸の仲がざわついた。

「はい。麻里さん」

 莉緒が煙草を手渡してくるので、無意識に受け取る。

「かっこいいもんじゃないよ?」

「そうですか? 女の人が煙草吸ってるのってかっこよく見えません? 自分は絶対に吸わないと思いますけど」

「そうじゃなくて……。多分。私のはかっこよくないと思う」

「どういうことですか?」

「見ればわかるよ」

 パッケージを見て小さな溜息をつく。煙草を吸い始めてから今まで、一度も銘柄を変えたことは無い。

「煙草、好きじゃないんだけどなぁ」

「だったら辞めればいいのに」

「私だって辞めたいよ」

 小さな箱から一本を抜き取り、左手の人差し指と中指で挟む。ライターを探してきょろきょろと見回すと、莉緒が自分の手の中にあるライターを主張する。

「一回、人の煙草に火つけて見たかったんだぁ」

「はいはい」

 左手で顔を覆うようにして、煙草の端に口をつけ、まるでキスをするように彼女に顔を近づける。

 満足そうに莉緒は口角を上げ、風を避けるように左手で煙草を覆いながら、もう片方の手で火を灯した。

 ジジジと紙が焼ける感覚と共に、その害ある煙を吸う。

 あぁ、久しぶりだ。この味だ。

 苦くて、辛くて。美味しくない。

 過去を想いだす味。

 一杯に不幸を吸い込んで、溜息のように不幸を吐き出す。

 そしてさらに込み上げてきた物を体から外に追い出すように、美しい夕焼けに向かって咽る。

 何度も何度も咽て息が出来なくなる。ベランダの手すりを掴んで体を上下に揺らす。

 驚いた莉緒が固まっているのが面白くて、呼吸を落ち着けてから彼女に向かって自嘲的な笑顔を向けてやった。

「ほら、かっこよくないでしょ?」

「まともに吸えてすらないじゃないですか」

「だって嫌いだもん」

「じゃあなんで家に置いてあるんですか」

「……忘れない為、かな」

 私にとって煙草は自傷行為。

 気取ってこれを始めて買った時には隣に佳晴がいて。

 それから何度も挑戦して咽る度に、佳晴に呆れた目で見られて。

 そんな彼を忘れないように。何度でもすぐに地獄を思い出せるお守り。

 苦しくて、苦くて。最悪な時間を吸うことで。彼を思い出す。思い出すことで彼への贖罪の気持ちになれる。

 そんな簡単な自傷行為。

「思ってたのと違いました」

「でしょ?」

「かっこよくはないですね」

 喉に残る違和感を何度も咳で誤魔化し、目頭に溜まる涙を拭いた。

「麻里さんにとって、煙草は大切なものなんですね」

「……なんで?」

「そんな顔、してました」

 やっぱり莉緒は鋭い。それとも私が昔を懐かしむような顔をしていたのだろうか。

 一度しか吸わなかった煙草を灰皿の上に置き、大きく深呼吸をする。煙草の後の深呼吸はより空気が美味しく感じる、なんて言ったら笑われるだろうか。

「煙草の煙とかふーってして欲しかったのに」

「なにそれ」

「あの、あるじゃん。煙を頭にかけるやつ」

「浅草寺のやつ?」

「多分そうかな。悪い場所に煙かけると治りますよ、みたいな。ほら、私頭悪いから」

「煙草の煙じゃ、もっと頭悪くなるよ」

「そう? 逆に麻里さんパワーで奇跡とか起こったりして。全身に浴びたら不老不死とかになれるかも」

「なに馬鹿なこと言ってんの」

「……馬鹿だからさぁ。奇跡なんかに縋っちゃうのかもね」

 私は煙草の煙の代わりに、大きな溜息を彼女に振りかける。

「勉強しなさい」

「勉強なんて意味ないもん。朝起きたら天才になってるなら話は別だけど」

「中身スッカスカの天才になっても仕方ないでしょ?」

「私にはどうしようもない血と肉が沢山詰まってるからそれでいいの」

「よくわかんないよ」

 やれやれ、と大袈裟に身振りを加えて呆れて見せる。その手が灰皿に当たって動いたので、慌ててその手で灰皿を掴む。

「麻里さん、それ下手したら人が死にますよ」

「あっぶなかったあぁ……」

「アパートの上層階からガラスの灰皿が降ってくるなんて笑えないですからね」

「一気に変な汗かいちゃった」

「もう、ドジですね」

 莉緒は私の方をトントンと小馬鹿にするように叩いて、ベランダから顔を覗かせる。

「まぁ、人はいませんでしたし。落ちても最悪セーフでしたよ」

「色々問題にはなるでしょ」

 莉緒がさらにベランダから身を乗り出す。瞬間、心臓の下部をぎゅっと掴まれたような痛みが走り、咄嗟に彼女の服を掴む。

「なに?」

「やめて。……怖い」

「あぁ……。ごめん」

 手すりに体重を掛けて浮かせていた裸足をペタと地面につけて、数歩ベランダから遠ざかる。もう一度ごめんと付け加えて、恐らく不安そうな表情をしているであろう私の頬に手を添える。

「ねぇ、麻里さん。……私が今、ここから飛び降りたらどうする?」

「……どうするって」

「追いかけて飛び降りたり、してくれる?」

「……しないかな。……しない」

「そっか。よかった」

「……なにも、よくないよ」

 そのまま莉緒は黙ってしまう。

 蝉とカラスの声を聴きながら、肌に寄ってくる夏の虫を払う。

 腕に留まった蚊を叩くと、小さく血が広がった。

「私さ、死ぬときは麻里さんの視界の中で死にたいな」

「……嫌だよそんなの」

「そう?」

「死ぬときが来るにしても。これからずっと長生きして。私が莉緒の事を忘れて。そして、私の知らないところで私が知らないまま死んでよ」

「死んでよなんて、酷いなぁ」

「馬鹿」

 莉緒は私の隣を擦り抜け、室内への戸を開く。ひんやりと冷たい室温が私の肌をなぞり、生理的に体が大きく震える。

「大丈夫だよ。麻里さんは私が救うから」

「……?」

「ううん。なんでもない。中入ろ?」

 莉緒が室内から手を伸ばす。ただ私はそっちがとても寒そうで、彼女の手を取ることが出来なかった。

「……ごめん。先は入ってて」

 私は自分の中に震える何かから目を逸らすように、灰皿から煙草を持ち上げ咥えてみる。

 少し吸って、先端が少し明るくなる。そして私はその煙に喉を焦がす。

 控えめに咳き込んで、煙草を灰皿に捨てた。

 煙草の先に灯った炎は今にも消えそうに弱く弱く光っていて。私はそれを見るのが、どうしようもなく辛かった。

 

「さっきの煙草、なんか思ってたのと違ったから、もう一つお願いしてもいいですか?」

「なにその制度」

「いいからいいから」

 風呂から上がり明日の帰省の準備をする私に、寝間着姿の彼女が唐突に話しかけてくる。

「で、そのお願いって?」

「えっと……。なんて言うか」

「自分で持ちかけてきて、言い淀まないでよ」

「だって恥ずかしいじゃん! 最近夜、まともに寝れないの!」

「だから?」

「鈍感すぎる」

「ごめんわざと」

 莉緒はぺちんと私の肩を叩く。最近手を上げられることが多くなってきたように感じる。

「色々と、考えることがあって……」

「だから?」

「もう! 一緒に寝たいの! ほら、早くベッドに行って!」

 タックルするようにして私を無理やり立たせ、ベッドの方に押していく。絶対照れ隠しだ。

「ちょっと、せめて歯磨かせてよ」

 莉緒はむくれると私を放って自分だけベッドに寝転がる。一度その場を離れて寝る準備を済ませ、ベッドに戻っても同じ体制で私を待っていたので笑ってしまう。

「何笑ってるの?」

「かわいいなって」

「うるさい」

 部屋の電気を消し、エアコンのタイマーをセットする。私がベッドに近づくと更に莉緒が端によってスペースを空けるので、そこに横たわった。

「狭い」

「文句言わないでくださいよ」

「言う権利くらいあるんじゃない?」

「……えっと、ごめんなさい?」

「別にいいけど」

 隣に並んで寝ると温泉旅行の夜を思い出す。あの日はベッドが今日の倍くらい広かったけど、隣の莉緒が血塗れではない分、今日の方が遥かに精神が楽だ。

「寝れそう?」

「うん」

「なんで最近寝れないの?」

「秘密」

「そっか」

「……ちょっと不安になっちゃって」

「……そっか」

 二人で天井を見上げて会話をする。私達の体の上には一枚の薄いタオルケットが掛かっていて、どちらが動くたびにもう片方にそれが伝わる。それに不思議な感覚を覚えながら、沈黙の中をお互い少しずつ身動ぎながら過ごす。

「ねぇ、麻里さん」

「あ、そいえば」

「なんです?」

「ごめんね、遮っちゃって」

「べつに」

 彼女に話したかった話題を思い出し、首を九十度曲げると、彼女も同じように同じタイミングで首を回す。動きがシンクロしてしまったことに笑いながら、私はここ数週間ずっと彼女に言いたかったどうでもいい話をする。

「莉緒ってさ、何か話し始める時に、毎回私の名前呼ぶよね」

「え?」

「しかも毎回、ねぇ、ってつけてさ。口癖?」

「そんなこと言ってました?」

「言ってるよ。ねぇ、麻里さん。って。さっきも言ってた」

「……なんか恥ずかしいです」

「気づいてなかったんだ」

「はい」

 莉緒は目を瞑り、タオルを引っ張って顔を隠す。

 彼女の可愛らしい仕草と引き換えに、私の背中がエアコンの風に当たる。

 私はくすくすと笑いながら、彼女の名前をあからさまに揶揄って呼んでみる。

「ねぇ、莉緒ー? ……痛っ」

 タオルケットの下で私の足が蹴られる。売られた喧嘩は買う主義だと、私も莉緒の足を蹴ってみる。

「いったーい」

「そんな強く蹴ってないでしょ」

「痣できちゃうじゃん」

「寝ながら蹴って痣を作れるほど私は怪力じゃない」

「私はか弱い少女なんです。そもそも生徒に暴行を加えてる時点で教師失格だよ?」

「私を教師だなんて思ったことないくせに」

「麻里さんには先生らしさが微塵もないからね」

「ひどいなぁ。夏休み開けたら、私の事学校で先生って呼ぶんだよ?」

「……そうですね~。でも元々学校で会ったことなんて殆どなかったじゃないですか。校舎広いし、担当学年違うし、私は半分学校に行ってないし」

「ちゃんと来なさい」

「麻里さんが学校にいるなら行ってもいいかなぁ。会いに来てくれる?」

「絶対行かない」

「じゃあやっぱり、麻里さんを先生って呼ぶ機会ないじゃん」

 学校で会ったらどんな顔をしていいのか分からない。絶対に莉緒には笑われるし、私も教師っぽく振る舞えなくなるし、会わないに越したことは無いでしょ。

 生徒と一カ月を過ごしていたなんてバレたらそれこそ問題になるし。

「まともに会話したこともないのに、莉緒よく私の事覚えてたよね」

「まぁ、先生の顔くらい全員一回は見たことあるもんですよ。そっち側と違って見る母数も多くないですし」

「それにしては私の名前まで覚えてたよね。学校の先生の名前覚えるタイプ?」

「いや、全然」

「じゃあなんで」

「なんででしょうね。ボケッとしてる先生だったから記憶に残ってたのかも」

「もう一回蹴るよ?」

「体罰反対」

 会話に終止符が打たれると、世界は突然静かになる。

 エアコンの駆動音。外で車が走る音。時計の秒針のリズム。

 会話に紛れていた音たちが主張を始めると、段々と眠気が私を包んでいく。

「私、もう寝ちゃいそうなんだけどいいかな?」

「別に確認取ることじゃないでしょ」

「莉緒は?」

「私はまだいいや。麻里さんの寝顔見てる」

「……そんなこと言われたら寝れないんだけど」

「嘘、嘘。大丈夫。私もすぐに寝るって」

「んじゃ。おやすみ」

「おやすみ」

 ふぅと一度息を吐いて、体の力を抜くと、すぐに眠りはやってきた。

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