16日目「部活」

「おぉ、打ちますねぇ」

「決定打かなぁ」

 エアコンの効いた部屋で見るのは、炎天下の中で汗を垂らす高校生たちの姿。

 夏の代名詞。甲子園。

「麻里さん、よく見るんですか?」

「んー。まぁ、去年とか夏はずっと暇だったし」

「こんなに一生懸命な人たちを見て、よくもだらだらと生活できましたね」

「今の莉緒だって人のこと言えないじゃん」

「じゃ、どこかに行きます?」

「とりあえずゲームセットまで見ようよ」

「感情移入しちゃうタイプですか?」

「どうだろ」

 朝、いつもの様に公園を散歩していると、少年たちの声が聞こえた。まだ正午にもなっていない公園でキャッチボールをする少年たちの会話で、今日から甲子園が始まることを知った私達は、こうして家に帰るや否やテレビの前に座っている。

「知らない高校同士の勝負も結構楽しめるものなんですね」

「逆に自分の高校とかだと楽しめなさそう」

「なんでですか?」

「甲子園とかになれば、全校応援とかあるでしょ?」

「そうなんですか?」

「全校生徒で応援に行くんだよ。そうなったら引率しなきゃじゃん?」

「そういう意味ですか」

 でも、うちの野球部はそこまで強くないから安心。

「私、甲子園初めて見たんですけど、なんかいいですね」

「今まで見たことなかったの?」

「スポーツに触れてこなくて」

「何かにハマってたら、今も変わってたかもね」

 中学校の保健体育の教科書にも載っている。ストレスはスポーツや趣味で発散しましょう。彼女にもそれがあったなら、狂気的な熱の入れ方で何かしらの才能を発揮していたかもしれない。

「……そうかもしれないですね。こんなに全力な顔、高校生が出来るなんて知りませんでした」

「それは世界を知らなすぎじゃない?」

「なんとなくは分かってたつもりなんですけど、こうしてみるとやっぱり違います。だってこの人達、この勝負に命が掛かってそうな顔をするんですもん」

 数年分の青春を捧げてその土を踏む戦士たちの顔には、莉緒の言う通り覚悟が見える。でもそれも莉緒の目に比べたらまだまだぬるい。恐怖を抱くほどの激しい炎は球児にはない。

 そんなこと、本人には言えないけど。

「莉緒は勝ってる方と負けてる方、どっちを応援するタイプ?」

「負けてる方、ですかね」

「そのこころは?」

「なんとなくですけど、やっぱり逆転って気持ちいいじゃないですか。それに、死を目前にしてまだ諦めていない顔は、見ていてぞくぞくします」

 彼女は画面に釘付けになっている。

 九回裏。点差は二点。ツーアウト。一塁。

 バッターの顔が大きく映される。その顔には闘志があったが、私には怯えているように見えて仕方なかった。

「麻里さんは?」

「え?」

「どっちを応援するタイプですか?」

「私は別にどっちかを応援したりしないかな」

「それ、つまんなくないですか?」

「そうでもないよ? 映画を見たりするときも登場人物に感情移入しないけど、十分楽しめるし。この演出良いなとか、そういう所見ちゃう」

「やっぱりつまらなそう」

「そうかな」

 甲高い音と共に画面が揺れた。

 大きく打ちあがった球は夏の空に吸い込まれていく。

 実況の声が諦めの色に変わり、数秒後に画面にはゲームセットの文字が浮かんだ。

「終わっちゃいましたね」

「逆転は無かったね」

 明るい顔と暗い顔が交互に移される画面が続き、ハイライトが始まったあたりで莉緒はリモコンを手に取り、画面を暗転させる。

「見ていて熱いですけど、負けた選手の顔を見なきゃいけないのは辛いですね」

「感情移入しちゃうと特にね」

「人が悲しんでるのを見て楽しめませんよ」

 大切な物が壊れていくのを見たくない。だっけ。彼女が初日に言った言葉だ。

 きっと純粋で美しい感性を持っているんだろう。私は画面の向こうに素直に感情を共有できない。

「麻里さんて、何か運動してたことあるんですか?」

「なんで?」

「してなさそうだなって」

「失礼な」

「中高とか何やってたんですか?」

「中高は何もやってない」

「ほら、やってないじゃないですか」

「大学から始めたんだよ」

「サークルってことですか?」

「うん」

「勝手なイメージなんですけど、大学の運動系サークルってまともに運動してないイメージがあるんですけど」

「なんとなくわかるけど、私がいたところは結構ちゃんとやってた方だと思うよ?」

 部活と銘打っている所と比べては全然だと思うが、サークルとしてはよくやっていた方だ。

 驚くべきなのはそんな部活で私が四年も続けられたこと。

「ちなみに何やってたんですか?」

「笑わない?」

「なんで笑うんですか。そんな特殊なスポーツなんですか?」

「いや、むしろ。超メジャー」

「じゃあ笑いようがないじゃないですか」

 私は少しだけ躊躇ってから、大学時代の何割かを消費したサークル名を口に出す。

「……マラソン」

 予想通り、莉緒は吹き出した。

 それもそのはずだ。だって毎朝莉緒と行っている散歩ですらバテている人間が数年前まで軽やかに走っていたなんて、姿を想像できないだろう。

「……悪かったね。三年間も全く運動してないと何もできなくなるんだよ」

「いや、でも、流石に酷すぎじゃないですか?」

「そんなに言わなくても……」

「だって麻里さん、初めて私と合った時も少し走って息を切らせてたじゃないですか」

「体力の低下は怖いよ?」

 あと数年もすれば莉緒にも分かると言い聞かせて、私はこの話題から逃げる為に席を立つ。

「本当にマラソンやってたんですか?」

 それなのに彼女は私を逃がすまいと質問を投げかけてくる。

「やってたよ。そりゃ、毎日って訳じゃなかったけど練習はしてたし。市のマラソン大会とかには毎年出てたし」

「ゴールしてたんですか?」

「なんとか」

「すごい。でもそもそも大学から始める人っているんですか?」

「そこそこいたよ。体力づくりで入った人もいたし。まぁうちの大学、走る系は本格的な部活が色々あったからそこに入らない人たちの集まりだったけどね」

 例えば駅伝とか。

 大学の駅伝チームが少し有名なせいで、キャンパスの周りを走ると視線を向けられて恥ずかしかった記憶がある。だから地域のマラソン大会に参加するときも大学名は隠していたっけ。

「そういえば、ここに引っ越すときにシューズとかも持ってきた気がする」

「下駄箱に無いんですか?」

「不思議なことに」

「じゃあ、押し入れの奥にでも入ってるんじゃないです?」

「そうかもね」

「……ここに来て一回も走ろうとは思わなかったんですか?」

「そもそも大学の時に走ってた理由が、疲れるからってだけだったし。こっちに来てからは仕事がそれに代わっちゃった」

「変な理由で走っていたんですね」

 大学に入りたての頃は心の傷がまだ生々しいままで、夜になると度々あの夢を見ていた。

 だからくたくたになるまで走って、気絶するように眠れば夢を見ることもない。なんて考えていたんだろう。

 実際、サークルに入ってからは夢を見る頻度も減った。

 それに、走っている途中は他のことを考える余裕もなく、頭の中を空っぽにできる感覚があって、それがとても好きだった。

 だがら別に走ることが好きだったわけじゃない。

 毎日くたくたになるまで授業と雑務に追われれば、仕事だってこれに当てはまる。それにこっちは同時にお金も貰えるし。

「ねぇ、麻里さん」

「なに?」

「麻里さんは部活とか担当してないんですか?」

「え」

「高校教師ってなにかしらの部活を担当させられるんじゃないですか?」

「うーん」

「なんですかその変な返事」

 部活か……。職員室にいると度々聞く響きだ。とても嫌な響き。

「担当してるよ?」

「夏休みなのに何もないんですか?」

「ほとんど活動ない部活だし、活動してても私、行ってない」

「それ、どうなんですか」

「教頭みたいなこと言わないでよ」

「ちなみに何部なんですか?」

「文芸部と園芸部」

「……両方とも存在を知らなかったです」

「二つとも最小限の人数しかいないからね」

 私がこの学校に来た時、丁度文芸部の先生が移動になって枠が空くという話を耳にして、真先に手を上げた。

 若いからなんて理由で運動部に配属させられたら最後、ボランティアで奴隷のように毎日働かされる。百歩譲って働くことは疲れるから良いにしても、体育会系のノリには絶対についていけない。そもそも球技とか苦手だし。

 だから「本を読むのが大好き」「書いたこともある」なんて適当な嘘を並べて楽な文化部を手に入れた。期待通り私の仕事は少なくて文化祭の前後にしかやることは無いし、活動にも顔を出さなくていい。ただマイナー文化部が楽なことは他の先生も重々承知で、こうして今年からは園芸部も押し付けられてしまった。

「園芸部とか、それこそ今忙しいんじゃないですか?」

「そこはちょっと生徒と共謀してなんとか」

 女子生徒が集まってできた園芸部。活動はしているが、野菜作りなんていう本格的なことはしていない。どちらかと言えば仲のいいメンバーの溜まり場といった印象。

 だから私は彼女たちに提案をして、それを向こうも飲んでくれた。頭のいい生徒は助かる。

「向こうも教師に来てほしくないし、こっちも活動なんて行きたくない。ウィンウィンでしょ?」

「今、私の中で麻里さんへの信用がガタ落ちなんですけど」

 莉緒は私に蔑むような目を向ける。それもしかたない。

「たまに行ってるから大丈夫だって。その時にお菓子でも差し入れすれば完璧」

「なんかもう。最悪ですね」

「考えてやっていかないと、潰されちゃうから」

 大学の同期にも一年で教員を辞めた人は少なくない。だから私みたいな人間には適当にやるのが一番。

 文芸部にも本気で書いている生徒はいないし。大会などが無い部活を担当出来て良かったなと喜ぶべきこと。

「ちょっと麻里さんを見る目が変わりました」

「クレバーだって?」

 莉緒は鼻で笑う。その反応はちょっと傷つく。

「じゃあ、そんな麻里さんに罰を与えてあげましょう」

「私、許しを求めてないんだけど」

「まぁまぁ」

 莉緒は立ち上がり、謎のポージングをする。

「何それ」

「今調べたら、バスで十五分くらいの所にあるっぽいんですよ」

 半身になって両手を頭の近くで組む。それを思いっきりスイングして見せる。

「えー。嫌だよ。やったことないし」

「やったことないからやるんじゃないですか」

 バッター。莉緒。影響されやすい彼女は、エア素振りを始める。

「でも、さっき書いちゃいましたもん」

「どういうこと?」

「私のやりたい事ノートに書いちゃいました。バッティングセンターに行きたいって」

 そういう事かと私は頭を抱える。

 そしてすぐに、それなら仕方ないなと返す私がいる。

 未来の予知がそう書かれたのならば仕方ない。どれだけ拒否しても結局は行くことになるんだ。

「わかった。今から行くの?」

「はい」

「じゃ、ちょっと準備してくる」

「はーい」

 彼女の細い腕でバッドを振れるのかは分からないが、バッドとヘルメットが可愛らしく似合うことは間違いないんだろう。

「俺たちの夏が始まった」

 適当なことを言いながら素振りをする莉緒を横目に、私は押し入れの中に眠る靴を探してみたり。

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