5日目「日光」
一瞬の浮遊感と共に目を覚ました。目を開けた私は息を上げていて、天井を見ながら肩で呼吸をする。
またあの夢だ。
そういえば昨日の夜に一度目を覚ました。あれから眠りについてまた同じ夢を見てしまったのだろう。
目元を押さえると私は知らぬ間に涙を流していて、それが固まって粘々と目元を覆う。溜息交じりに手を伸ばし、いつものケースを手に取って一粒口に放り込んだ。
意識が世界に昇ってくるにつれ、部屋の中にいつもなら感じることのない何かを感じていく。フライパンが何かを焼く音。香ばしい匂い。少女の鼻歌。
私はベッドから立ち上がりリビングへ出て、キッチンに朝の挨拶を投げる。
「おはよ。莉緒ちゃん」
「あ、おはようございます。麻里さん」
キッチンを覗くとフライパンにはベーコンと卵が乗り、手鍋には味噌汁まで準備されている。
「すごい……。ちゃんとした朝ご飯だ」
「麻里さん、朝はご飯で大丈夫でした? 普段は食べないって言っていたのでパンにするかご飯にするかで迷ったんですけど」
「大丈夫だよ。ていうか、豪華すぎて驚いてるくらい」
「昨日色々と買い込みましたからね。初日の朝くらい張りきります」
「私には難しいかも」
「何言ってるんですか。麻里さんも朝ご飯くらい作れるようになりましょ?」
彼女はご機嫌に会話をしながら素早く料理を創り出していく。そんな姿に申し訳なさを感じ、私も何か手伝わねばと、普段あまり触らない食器棚を開ける。
「食器、増えてる……」
「あ、昨日買っといたんですよ。どうせお皿も少ないだろうなと思って」
「気の効く子だねぇ」
「それほどでも」
私は真新しい平皿と汁椀を取り出し、軽く水で流す。
「あ、多分もうご飯炊けてるんで、お願いしていいですか?」
「はーい」
どっちが年上か分からない会話をしながらもう一度食器棚を覗くと、昨日莉緒ちゃんから貰った青の茶碗が目に入る。それを手に取ると上にもう一つ重なっておかれた茶碗が目に入る。これが昨日彼女の言っていた色違い。彼女の茶碗は赤。空のような模様は共通なので夕暮れにも見える。
それらに炊き立てのご飯をよそり、リビングのローテーブルに置く。テレビとソファが向かい合っているので、その二辺ではない残りに向かい合うように置いてみた。片方がソファで片方が床に座るのもなんとなく嫌だし、二人でソファに座るものでもないだろう。
それにこのソファはなんとなく莉緒ちゃんのベッドというイメージがついてしまった。
「お待たせしました」
「ありがと」
莉緒ちゃんが平皿を持ってくるので、私はキッチンに味噌汁を取りに行く。
「莉緒ちゃん昨日買った箸ってどこに置いたの?」
「あ、場所分かんなかったのでまだ出してないです」
二人分の味噌汁と自分の箸を持ってリビングに戻り床に座っていると、彼女が遅れて箸を持って向かい側に座る。
「食べましょ。麻里さん」
「ありがと。頂きます」
「いただきます」
こんなにちゃんとした朝ご飯をこの家で食べたのは初めてだ。って、また初めてができてしまった。
「そういえば莉緒ちゃん。ソファで寝て痛くない?」
「大丈夫ですよ。もう慣れましたし」
「昨日布団とか買えばよかったね」
「いいですよそんな。まぁ、つらくなったらまたその時に買います」
会話をしながら口に物を放り込んでいく。少し気まずくなってテレビでもつけようかとリモコンを探すと、彼女が話題を振ってくれる。
「麻里さんは今日なにか用事あります?」
「ないかな」
「じゃあ何するんですか?」
「うーん。勉強でもしようかなって」
「……勉強?」
「うん。今私、教員試験受けてるんだけどさ、一次試験の結果待ちなんだよね。二次は筆記ないんだけど落ち着かないから勉強でもしとこうかなって」
「真面目ですね」
「そうでもないよ。一次受かってたら八月の頭に二次なんだけど、そっちの対策はなーんにもしてないし」
「えっと……。そっちはやった方がいいんじゃないですか……? 面接とかですよね」
「だって今年でもう四回目だよ? もう飽きる程対策した。多分そろそろ受かるでしょ」
「麻里さんてそんなに楽観的だったんですね」
「別に受からなくてもいいかなって思ってるくらいだし」
流れに身を任せここまで来たはいいものの、最後の難関は超える意思が無ければ乗り越えられないのかもしれない。まるで川に流される木の枝だ。最後の最後で網に引っかかって動けないままでいる。
「じゃあ今日はなんで勉強するんですか? 二次試験でも使わない、受かる気もないのに勉強する意味ないじゃないですか」
「一応私教師だよ? 継続は力なりって言うでしょ。生徒に言って自分でやらなきゃ意味ないじゃん。……それに、問題解いてると落ち着くんだよ。昔からそうなの」
身に降りかかる不安から目を背ける為に私は取り憑かれたように勉強してきた。いや、するようになったと言った方が正しいかもしれない。そのおかげで気づけば学力は身についてしまっていて、やる気もないのに名ばかりの学歴を首からぶら下げる羽目になってしまった。
今では学歴なんて重りでしかない。教員採用試験を突破できない名門卒なんて鼻で笑われる。
「莉緒ちゃんは?」
「え?」
「莉緒ちゃんは勉強嫌い?」
自分の話はここまでにしておこうと莉緒ちゃんに話題を振ると、彼女はゆっくりと私から視線を逸らす。それだけである程度の事情は察する。
「夏休みの課題とかあるよね?」
面白がってもう少し攻めてみると、今度は首ごと私から逸らそうと回し始める。
「いや、まぁ、何とかなります……よ?」
これはあれだ。夏休みの課題をやってこないだけでなく、逃げ続けて踏み倒そうとするタイプだ。不登校ならそれがまかり通ってしまう現状も知っている。
「まぁ、私も厳しく言わないけどね。そもそもここでは教師も生徒もないって約束だし。あ、でも勉強見てあげるくらいはできるよ? これでも偏りなく全教科できる方だし」
「それは勘弁してください……」
「勉強にアレルギー出るタイプ?」
「そこまでじゃないですけど……。興味の無い教科はダメダメです。数学とか……あ」
つい苦手教科を口に出してしまい、何かに気が付いたのか彼女は口を手で押さえる。私はその仕草に笑いを堪え切れず吹き出す。
「莉緒ちゃん。私の担当科目知ってる?」
ニヤニヤしながら質問を投げかけると、彼女はまた目を逸らした。
「あー。大丈夫です。それ以上は何も言わないでください」
「実は二次試験で実技試験があって、模擬授業とかあるんだけど……」
「ごちそうさまです!」
彼女を揶揄うことに面白さを見出してしまって、つい調子に乗る。莉緒ちゃんは自分の食器を持ってそそくさとキッチンへ逃げていく。流石にここらへんで引いておこう。私だって嫌いなものに誘われ続けたらその人も一緒に嫌いになってしまう。例えばクラブとか? 私とは正反対の人間がいるような場所。そもそも私をそんな場所に誘う知り合いなんていないけど。
「ごちそうさまでした」
残っていたベーコンと白米を口に詰め、手を合わせる。キッチンからは「お粗末様です」と小動物が鳴いた。
朝ご飯を終え、お互い食後の休憩をした後、何もない一日が始まる。
私はテキストを開いていつも通り黙々と勉強を続け、莉緒ちゃんは暇だと文句を言いつつ部屋の掃除をし、洗濯を回し、ある程度の家事を終えてしまった後、昨日私が買った小説を捲っていた。
その時間に音を上げたのは勿論莉緒ちゃん。考えようによっては最初から音を上げていたように思えなくもないが、時計が正午を過ぎ暫く経つ頃には、お昼ご飯を食べに行こうと口を開いていた。
昨日買った食材はまだ大量に冷蔵庫に詰まっていて、外に出る必要はない。しかし彼女は太陽光を浴びないと光合成を行えないと言わんばかりに、外に出たがる。
実際私も勉強をする必要性はなく、単なるリラックス法でテキストを捲っていただけだったので彼女の要望に応え、今はこうして近所の公園を散歩している。
「麻里さん、用事が無ければ本当に外に出なさそうですね」
「インドア人間だからね」
「引き籠りはインドアとは違いますよ?」
「仕事ある時は外に出てるから私は引き籠りとも違います」
散歩しているのは比較的大きな地方公園で、夏休みともあって子連れが多く見受けられる。徒歩圏内にこんな良い場所があるというのにまともに中を歩いたのは初めてだった。
蝉の声が充満する中、私達は青々とした木で生い茂る道をゆっくりと雑談しながら歩く。
「木漏れ日が綺麗ですね」
「そんなロマンチックな言葉、良く口から出てくるね」
「ロマンチックですか?」
「私は夏の木を見たら、虫が出るから嫌だなとしか思えない」
「それはそれで問題じゃないですか?」
舗装された遊歩道の両側に一定間隔で並ぶ木には「ケヤキ」とプレートが掛かっている。名前くらいは知っている木だけど、興味がないせいでそれから何も連想できない。
「カブトムシとかいるのかな?」
「カブトムシ好きなんですか?」
「嫌いだけど」
「でしょうね。……でも多分、ここにはカブトムシもいないんで安心してください」
「なんで?」
「記憶が正しかったらケヤキに虫は来ませんよ。樹液とか出ないんじゃなかったでしたっけ。クヌギとかコナラじゃないですか、虫が来るの」
莉緒ちゃんは、曖昧ですけどと言いながらも知識を披露して自慢げな表情を見せる。
「詳しいんだね。虫好きなの?」
「いや、どっちかっていうと植物ですかね。ただの勉強は嫌いですけど、興味がある物は良く調べるので」
「学校の勉強するより、そっちの方が断然いいよ」
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
「学校の勉強ができたって、幸せになれるとも限らないしねぇ。……逆も言えるけど」
「なんか、麻里さんって他の先生と違いますね」
「そう?」
「なんか変な感じです」
悪い意味には聞こえないその評価を受け取りながら、私は足を進める。
他の先生と違う、か。理由の一つは思い当たるけれど、別に口に出すような事でもない。
「だから麻里さんには特別に、ほんの少しだけ話しちゃいます」
「なにを?」
「雑談ですよ。なんの手掛かりにもならない、ちょっとした話です。私さっき植物について調べたって言ったじゃないですか。それ、なんで調べてたかって言うと、自分が死んだときにどんな植物を植えようかって考えてたんです」
「――っ」
突然の話題に私は驚き、一歩分だけ足を止めてしまう。慌ててまた歩き出すと、彼女を追うような形になり、表情が見えなくなった。
「樹木葬って知ってます? お墓の石の代わりに木の苗木を植えるんですよ。その木は私の骨から栄養分を吸って成長してくれるんです。なんだかこれこそロマンチックじゃないですか?」
目の前の少女と過ごしてもう五日目になる。初日こそ彼女の荒々しい命の輝きに目を眩ませたが、それからの数日、私の目には彼女はただの女の子に見えていたのだ。生死などとは一切関係なく、ひょんなことで笑う、胸に何かを抱えた女の子。そんな風に考えが動いていた。
彼女があまりにも可愛く笑うものだから、彼女の自殺未遂など頭の隅に追いやっていたのかもしれない。しかし、こうして彼女の口から死の話が語られることで、あの出会いが夢でなかったことを改めて思い知らされる。
「だから自分の死に相応しい木を探してたんですよ。どうせなら好きな木がいいなって。どうです? 麻里さんならどんな木にしますか?」
「私は……。そんなこと考えたことも無かったよ」
「まぁ、そうですよね。変なこと聞いちゃいました」
ごめんなさいと謝ると、くるりと振り返る。後ずさりするように私の進行方向に進む彼女の表情は読めない。
「何でもない雑談でした。そんな顔しないで下さいよ。私から命の話が出ることがそんなに嫌でしたか?」
「……なんでそんなに笑って話せるの?」
「簡単ですよ。よく考えて、飲み込んだからです」
彼女は儚げに微笑んで、遊歩道を外れる。そして土の上を小走りに移動すると、一番近くにあった木に手を当てて、目を瞑る。
「いつでも考えているんです。あの木の下に眠ってみたらどうだろう、とか。あの木は首を吊るのに適していないな、とか。そうやって考えているから、こうやって落ち着いていられるんです。それだけですよ」
脳裏に彼女が公園の木で首を吊る映像が浮かび、吐き気を催して必死に振り払う。瞬時に全身の汗が冷たくなった。
「前も言いましたよね。死ぬことを考えている時が、一番生きてるって感じるんです。だから私はこうして外を歩いて、視界に入ったものについて色々考えるんです。やっぱり、思考を巡らせるのは楽しい、それこそ生きてるって感じ――」
「……やめて」
私は思わず彼女の言葉を遮る。彼女を否定してはいけないと分かっていたのに、どうしても耐え切れなかった。
「……ごめんなさい。でも別にいつでも死ぬことを考えてる訳じゃないですよ? 言い方が悪かったですね」
彼女は目を開けてこちらに弁解する。
「例えば、何でしょう。この木目の木は始めて見たな。なんていう木だろうとか。今日の空は雨が降るかもしれないなとか。外って色々と情報が溢れてるじゃないですか。そういうのに触れるのって、生き生きしません? 日の光を浴びると動物は生を実感するって話もありますし」
彼女は私に歩み寄ると、私の顔を下から見上げる。木漏れ日が彼女の姿をキラキラと輝かせていた。
「ごめんなさい。私、人に物事を伝えるのが下手で。何が言いたいかって結局は、麻里さんを外に連れ出したかったんです」
「……え?」
「だって今日の麻里さん、すごく沈んだ顔してましたよ? 出会った時と同じ顔をしてました。採用試験の結果が気になってナイーブになるのも分かりますけど、そんな顔してちゃ勿体ないです」
「……そんな顔してた?」
「はい。感情の無いロボットみたいな顔で勉強してました」
「そっか……」
私はこの少女に心配をかけていたのか。死の淵を歩く少女にそう思わせてしまうなんて。やっぱり私はこの少女が相手だと上手く立ち回れない。
それと、勉強をしている私はそんなに思い詰めた顔をしていたのか。
「ありがと」
「麻里さん。時間が大丈夫なら明日から毎日ちゃんと外に出ましょう? それだけで結構変わりますよ。仕事がないからって引き籠っちゃだめです」
どんどんと私の生活が矯正されていく。だがそれも彼女が隣にいると思うとさほど悪くない。
死にたがりの少女に手を取ってもらって、生き生きとした生活を目指すなんて奇妙な話だ。それこそやはり彼女が自殺をしようとしていた光景を嘘だと思いたくなってしまう。
「わかった……。明日から毎日ここで散歩しようか」
「はい!」
帰りましょうかと彼女は私の手を引く。部屋に帰ったら勉強は辞めて彼女に家事でも教わろう。
「あ、麻里さん、さっきの話で一つ誤解しないでおいてほしいことがあります」
「なに?」
「私、首吊りは嫌なんで安心してください。苦しいし綺麗じゃないですし。死ぬときはもっと綺麗に死にますから」
今日の夕飯のメニューを話題に出すようにするすると彼女の口から悍ましい単語が飛び出し、私はまた現実を見る。彼女に握られた手は熱いはずなのに、それがどんどんと冷たくなっていくように感じた。
私はもう一度そこで明確に、目の前の少女に恐怖を抱いた。
夜、また夢を見た。
何度も何度も繰り返し見る夢だ。
私の目の前で――――――。
「待っ――」
跳ねるように目を覚ます。
周囲を見回すとそこはいつもの部屋。大丈夫。私はもう大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
深く深呼吸していると、キッチンの方から声が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
「……莉緒ちゃん?」
「ちょっと、眠れなくて」
「暑いもんね。エアコンつけよっか」
「はい」
カチャカチャと莉緒ちゃんの方から何かを弄る音が聞こえる。コップ? いや違うな、もっと小さい物だ。ベッドからはキッチンが見えず何をしているのかまでは分からない。
「水でも飲もうかな」
わざとらしく言葉にして立ち上がると、莉緒ちゃんは物音を大きくする。
数歩歩いて視界に入る莉緒ちゃんは私と目を合わそうとしない。顔を逸らすように下を向く彼女の首筋は汗で濡れていた。
「汗、タオルで拭いた方がいいよ。エアコンつけたら風邪ひいちゃう」
「はい。そうします」
私の隣を小走りで走り去る彼女の手には何かが握られていたが、暗がりでは良く見えなかった。
私はガラスコップで水を飲み、それを軽く流して逆さに置く。
リビングでエアコンのリモコンを見つけスイッチを入れると、機械音の後に冷たい風が流れ始めた。
「莉緒ちゃん大丈夫? 眠れない?」
ソファに座る彼女は何故か息が上がっている。私にバレまいとしているのか、呼吸音は抑えているものの、肩がゆっくりと上下していた。
「いえ。何でもないんです。麻里さんこそ大丈夫ですか? うなされてましたよ」
「私はいつもあんな感じだから」
ベッドに戻り体を投げ出す。蹴り飛ばしてしまったであろう薄いタオルケットを探してお腹に掛け、ソファに再び目線を向ける。
「おやすみ。莉緒ちゃん」
「おやすみなさい」
ひょっこりソファの背から顔をこちらに出す彼女は、やはり鋭い目をしていた。
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