3日目「ルール」
目覚ましの音。
それに唸る私の声。
窓の外で鳴る雨音。
ラムネのボトルが揺れる音。
奥歯で粒を噛み潰す音。
「……おはよ」
「おはようございます。すごいですね、目覚ましの音に反応してからラムネを口に入れるまで本当に寝てるみたいです」
「……え? なに?」
「何でもないです。本当にラムネで起きてるんだなって」
「あぁ……」
口の中に甘さが広がり、覚醒途中の頭に莉緒ちゃんの声がする。
そして彼女の言葉の後ろには雨音。そういえば僅かに開いた瞳に入る光量が少ない。
「……雨、か」
「雨ですねぇ」
「どうしよっか」
「何をです?」
「買い物」
「あぁ」
朝起きて他人の声がする生活にはまだ慣れない。こんな喉の調子で人と話すこと自体久しくなかったから、変な感覚だ。
「麻里さんが面倒なら私は全然大丈夫ですよ。明日でも明後日でも」
「正直雨の中出かけるのは怠い」
「じゃあ後日ってことで」
「でも大丈夫? 着替えとか」
「まぁ数日くらい何とかなりますよ。服は昨日洗ってもらったのが乾いてますし」
「じゃ、明日行こ。買い物」
「はい。明日は晴れるといいですけど」
そんな寝ぼけた会話から彼女との朝が始まる。
「莉緒ちゃん、醤油と塩どっちがいい?」
ベッドから降りてしばらく時間が経過した後。カップ麺を両手に一種類ずつ持つ私に向けられるのは冷ややかな目だった。
「どっちがいいって。えっと……」
「朝ご飯。いや、時間的にお昼ご飯でもあるけど」
「そういう事じゃなくて。いつ買ったんですかそれ」
「昨日コンビニ行ったときだよ。ストック無くなっちゃったから買っとこうかなって」
私は彼女の質問に答えただけなのに、なぜかまた深い溜息をつかれる。
「買い物、今日行っておけばよかったですね……」
「なんで? カップ麺駄目だった?」
「……麻里さん休みの日いつもこんな食生活なんですか?」
「うん」
「仕事の日は?」
「朝は食べないし。お昼はコンビニ」
また莉緒ちゃんは溜息をつき、頭を抱える。一人暮らしの社会人なんて大抵こんなものだと思うし、これで十分だと思う。
「まぁ、コンビニはまだしも、朝昼兼用でカップラーメンは流石に……」
「そうかな」
どうしようかと首を傾げると、彼女はそれに申し訳なさそうに謝り、でも今は頂きますと言うので私は電気ケトルに二人分の水を入れてスイッチを入れる。
静かに駆動し始めるケトルを眺めていると、そっと莉緒ちゃんが私に近づき、人差し指を立ててこちらに向けた。
「麻里さん。一つ提案があるんですけどいいですか?」
「……え?」
「そんなに身構えないでください。麻里さんにも悪い話じゃありません」
また何か大きなことを頼まれるのかと思い身構える私に、彼女は言葉を選びながらゆっくり条件を提示し始める。
「私が麻里さんの家にお邪魔している間、家事……例えば料理とか洗濯とかを私に任せてもらえませんか?」
何が出るかと思えば、目の前に出されたのは夢のように楽な生活。
「お邪魔している間、私が麻里さんに出来ることって何だろうってずっと考えてたんです。そしたら、見る限り麻里さんは家事が苦手というか、家事をないがしろにしてるというか。なので任せてもらえないかなと。ただで居候する訳にもいきませんから」
「いや……でも」
「こう見えて結構、家事には自信あるんですよ」
「えっと」
「低く見積もっても麻里さんよりは出来ると思いますけど?」
「いや、そういう問題じゃなくてね。なんていうか、私は別に莉緒ちゃんに何かをして欲しくて泊めてるわけじゃないしさ、そもそも莉緒ちゃんは生徒だし、教師が生徒に家事やらせるのはちょっと」
「ここでは生徒と教師の関係は止めてくれって言ったの麻里さんですよ?」
「……そうなんだけど、そもそも莉緒ちゃんはまだ――」
「子供、ですか? 別にいいじゃないですか。そもそも麻里さんと私、十個も離れてませんし。やれる人がやる。それでいいじゃないですか。それに麻里さん、私がやらなかったらろくに料理しないですよね」
ここ一週間を振り返って一度も包丁を握った記憶がない私には、莉緒ちゃんに言い返す言葉がない。何も言われなければ今晩もコンビニでいいかと考えていたくらいだ。
「だいたい、それが駄目なんて誰が決めたんですか」
「誰って……。普通駄目でしょ」
「一般的にそれが非難されるってことなら、関係ないじゃないですか。……だって私がここにいることは麻里さんが秘密を守る限り誰にもバレないんですよ。だったら周囲からの評価なんてないようなものです」
良く口が回るな、なんて感心しながら私は彼女の提案を天秤にかける。
「問題なのは、麻里さんが嫌かどうかですよ」
彼女に家事をやらせるのは社会人として罪悪感がある。でもそれを拒んだ時、今の私の生活に彼女を巻き込むと考えるとそれはそれでまた罪悪感が付き纏う。
二つの罪悪感のどっちが大きいか比べるのはそこまで難しいことではない。でも今は一度それを保留して話を進める。だって今の私達にはこれ以外にも決めなければならないことが山ほどある。
「じゃあさ、一から決めてこっか」
「なにをです?」
「二人の生活のルール。決めなきゃなとは思ってたんだ。丁度雨で外には出れないから時間もあるし」
莉緒ちゃんが私の言葉に頷くと、タイミングよくカチっとケトルが沸騰を知らせる。
「ところで莉緒ちゃん、醤油と塩どっちがいい?」
莉緒ちゃんは引き攣らせた笑いを顔に浮かべながら、小さく悩んだ後に「塩で」と呟いた。
私は醤油ラーメンを自分の箸で、莉緒ちゃんは塩ラーメンをコンビニで貰った割り箸で食べ、朝のエネルギー補給を完了させた。
家出の末、居場所を見つけそこで時間を過ごす時、私ならどうするだろうか。やはり彼女のように何かしらの役割を求めるのだろう。親切で置かせてもらっている場所は居心地が悪い。そのことを私は経験で知っている。
そこに自分がいてもいい理由を自分なりに持っておきたいのだろう。何かから目を逸らす自分への言い訳としてその役割は大きな意味を持つ。
「よし。こんなもんかな」
私たちは日中のほとんどを使って、この非日常的な生活のルールを作った。
まとめ買いしていた普通の簡素な赤いノートに書き込んだそれは、結果的に数ページにしかならなかったが、いざ文字に起こしてみると何とも奇妙なものだった。
一ページ目にはこの生活の最初の約束。
私が莉緒ちゃんをこの家に泊めること。
私は嫌になったらいつでも莉緒ちゃんをここから追い出すことができること。
お互いの詮索は片方が嫌だと言えばそれ以上はしないこと。
私は彼女の存在を学校等に連絡しないこと。
彼女は両親に心配をかけないように連絡を定期的に入れること。
この生活は最長で夏休みの終わりまで。ということ。
何か問題が生じたらその都度きちんと話し合って決めること。
この家に泊まっている以上、莉緒ちゃんは死なないこと。
私達はそんな内容を真面目に話し合って一つずつ契約書を交わすように書き込んでいった。
その途中何度か聞き出そうと試みたが、やはり彼女は身の上を話さず、彼女自身が話してもいいと思うまで、彼女の理由も聞くことは出来なくなってしまった。
「たぶんそれだけは最後まで話さないと思います。ごめんなさい」
そう釘を刺されてしまっては私は動けない。親密になれば教えてくれるかと小さな希望を持つが、彼女の拒否は好感度などでどうにかなる程に簡単なものではないように思えた。
教えられない代わりに私は彼女を追い出す権利があると言う。
「素性の知らない人間を置いておくのは怖いですもんね。何かあったらすぐに叩き出してください」
そう言って莉緒ちゃんは笑うが、追い出したら最後、彼女はきっと死んでしまう。
結局彼女が出した案は私の選択肢にはなりそうもない。
二ページ目からはお金関係の決め事。
正直私はそこに関しては全部自分が出すつもりでいたから、彼女がこの話題を出してきた時には驚いた。そして。
「普通に考えて半々ですよね」
なんてさも当然のように言うもんだから、また驚いてしまった。
家出してきた高校生がそんな大きなお金を持っているのか尋ねると、彼女は立った二つしかない荷物のうちの一つである小さな財布を机の上に置き、淡々と話す。
「私の銀行口座に五十万円弱は入ってます。それだけあればひと夏の家出くらい余裕です。……最初にあった橋の上でお金のない素振りをしたのは、ごめんなさい。嘘です。そうしないと麻里さんは話も聞いてくれなさそうだったので。あ、でも安心してください。危ないお金じゃないですよ。詳しい話は出来ないですけど、自暴自棄になって体を売ったりはしてませんから」
前々から思っていたけれど、彼女の会話には偶に下世話な話題が入る。教師としては一応注意したいところではあるけれど、彼女に関しては他に抱える問題が大きすぎて注意する気にもならない。
「とりあえず、私は半分払うのでそれで手を打ってください」
頑なに譲らない彼女に負けて結局お金関係はすべて半々にすることになった。私がそれを受け取ることで彼女が安心してこの部屋で過ごせるならそれでいい。これで関係性もほぼ対等になる。
それと前々から思っていたことがもう一つ。彼女はこれでもかと言うほどに頑固だ。一度そうすると決めたら多分動いてくれない。その点でも私がお金を受け取るというまで話が進まなかっただろう。
その次のページからは思いついたことを片っ端から書いていった。
その中で先ほど話題の出た家事の話も出て、結局はこれもお互い半々ずつ担当することになった。最低限しか行ってこなかった私にとっては、半分に増えたと表現してもいいかもしれない。
「全部任せてくれないって言うなら麻里さんにもちゃんと家事をやってもらいますよ。絶対そっちのほうがいいです。麻里さん生活力が無さすぎます。これから苦労しますよ?」
私が教えますからと決定してしまったそれは、最初の私の意見からは近くも遠くもない内容だったけれど、面倒臭さは感じてしまう。これなら全てを彼女に任せてしまってもよかったのではないかなんて相当危ないことを考えながら私は条件をのんだ。
そうしてある程度話が纏まる頃にはもう時刻は四時を回っている。
「夕飯どうしようか?」
「まさかとは思いますけど、昼夜カップラーメンは正直やめてほしいです」
「さすがの私もそれはたまにしかやらないから大丈夫」
休日はそもそも一日カップラーメン一つで過ごしてるし。
「普通はやらないんですよ」
莉緒ちゃんは私の低い生活力に呆れることも辞めたらしく、溜息はせずどうしましょうかと頭を傾ける。
「食べに行く?」
「麻里さんの食生活が本気で心配になります」
「みんなこんなものだって」
「そうなんですか……。まぁでも今日はそれが早そうですね。近くになんのお店があるんですか?」
「結構何でもあるよ」
夕飯の話をしているとカップラーメンしか入れていなかったお腹が鳴る。いつもなら夜まで平気なんだけどな。会話するのは何気にカロリーを沢山消費するのかもしれない。
「雨も弱くなってきたし、早めに行っちゃう?」
ソファから立ち上がり、窓から外を見ると、雨足は弱くなっていて、外に出る抵抗も今なら少なくて済みそうだ。
丁度玄関には莉緒ちゃんの分の傘もある。梅雨の時期に出先で買ってしまったビニール傘が役に立つとは思ってもみなかった。
「はい。麻里さんは今何食べたいですか?」
「なんでもいいかなー」
「じゃあ、あとりあえず行きましょうか。……うっ」
床に座っていた彼女が立ち上がろうとして、床に倒れる。何事かと慌てて駆け寄ろうとするが、それより先に間抜けな声が届く。
「足、痺れました」
床に転がりながら身もだえる彼女を見て私は安心する。
やっぱり彼女は普通の女子高生。こうしてみるとただ女の子だった。
「麻里さん、助けてください……」
「助けてって、何もできなくない?」
先程まで私の生活を非難していた彼女が床に転がっているという状況に悪戯心が芽生えて、私は彼女の足を軽く突いてみる。
悲鳴とともに私を睨む彼女の眼は潤んでいて、とても可愛らしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます