魔法使いの終わらない夏 不死の彼女が望むもの

遠野 小路

第1話 万書館/イドの守り手(1)

 滑り止めだなんて、何を思い上がっていたんだろう。

 本命の試験前の予行演習のつもりで受けた、私立大学の入試試験を終えた帰路。

 斎藤冬美は一人大きな溜息をついた。


 問題自体は誰も解けるはずがない、という性質のものではなかった。

 平均点は恐らく八割を越えるだろう、基本的な知識と理解力を問う試験だ。

 ざっと流して見ただけで、そこまで難しくはないとわかるその問題にいざ答えるとなった時。

 冬美ははじめて、自分の勉強が不足していたことに気づいたのだった。


 本命の大学試験は二週間後であったが、自分の能力の不足は二週間の勉強でどうなるものでもない、ということも、冬美にはわかっていた。


(ここから二週間、無駄だということがわかっているのに私は死ぬ思いで足掻き続けて、当然それでは足りなくて、無力を突きつけられるんだ)


 それは緩慢に迫り来る刃を避けることが許されないような。

 冬美にとっての、事実上の死の宣告であった。




 そもそも冬美は、一般入試をするつもりではなかった。


 特に取り柄もない、黒髪黒目の凡庸な女子高生。

 スポーツも勉強も、才能もなければやる気もない。

 やりたいことも見つからない。

 けれども出席だけは足りていたから、そこそこの大学に推薦入試で入れればそれでいい、と思っていた。


 けれど。


「私も冬美と同じ大学の推薦を受けることにしたんだ」


 推薦入試の出願ギリギリになって、クラス一の秀才、一ノ瀬日夏が同じ推薦枠への応募を希望してきたのだった。


「な、なんで……? 日夏だったらもっと良い大学行けるんじゃないの……?」


 担任の教師に必要な書類を渡した後、廊下で一緒になった時に、冬美は尋ねてみた。

 日夏は小さな顔を傾げて、顎に細い指を当てて、思案げな表情を浮かべた。


「でも大学に入ってやりたいこともないし……私、特に取り柄もないしさ。分不相応な望みを持っても仕方ないかな、って思って」


(何それ、取り柄がないって。それじゃあ、日夏に一度も成績で勝ったことない私は何なの……?)


 そんな胸の内を明かすことなど到底できようもなく、冬美は曖昧に笑って、お互いに頑張ろうなどとおためごかしを言うことしかできなかった。


 結果、冬美を除いた二十人が推薦枠での合格を決め、冬美と他二人が不合格となってしまったのだった。

 合格を告げられ嬉しそうに微笑む日夏を見て、


(日夏がいなかったら、私が合格してたかもしれないのに)


 と、思ってしまうことを、冬美には止めることができなかった。




 だから斎藤冬美がそのやり取りを聞いてしまったのは、まさに最悪と言っていい巡り合わせであった。


「受験組の子は大変だよね~、みんなピリピリしてて」

「遊びなんか誘えるワケないしさ、話しかけづらいよね」


 試験が終わったら学校に報告に来なさいよ、という担任の言葉を律儀に守るため高校に戻ってきた冬美は、空き教室から聞こえてくるそんな会話につい、足を止めてしまった。


「そーそー。あーあ、超ヒマ。推薦なんかやめときゃ良かった」


 聞き覚えのある声。

 どこかでぴしり、とヒビの入るような音が鳴った気がした。


「このまま大学入って、会社入って、いい男見つけて結婚して……なんてつまんなくない? なんか南の島でイルカの研究とかしたいな」

「ふ、ちょっと、やだ日夏。なんでイルカなの。ウケる」


 冬美はそこまで聞いて、背中で弾ける笑い声から、逃げるように走り出した。




「う、ううっ、はあ、はあ、うううあっ……!」


 息が荒くなり、視界が涙に歪んでいても、冬美は走るのを止められなかった。

 産まれて初めて感じる、燃えるような感情の激流。

 白い息を漏らし、込み上げる嗚咽を必死で飲み込みながら。

 どこへともなく、走り続ける。


 そんな状態で長く走り続けられるはずもなく、脚を縺れさせて、盛大に転んでしまう。

 立ち上がろうとして、身体に力が入らなくて。


「う、うう……うあああ……なん、なんで……」


 冬美はその場で、這いつくばった姿勢のまま、静かに泣き出してしまった。




 路地裏で伏したまま、散り散りに千切れた冬美の心が、徐々に形を取り戻してゆく。

 何がつまらないだ。ふざけるな。

 推薦なんてやめればよかった? その通り。

 そんなに要らないなら私に譲ってくれればよかったのに。


『お前なんていなければよかったのに』


 誰かが耳元でそう囁いたような気がして。

 冬美が顔を上げると、風に吹かれて一枚のチラシが飛んできた。


『うんうん、その通りだよね。君がそう思うのも当然だ。私が君を肯定しよう』


 妙なデザインの図形が書き込まれたチラシから、声が聞こえてくる。

 チラシの真ん中には、空白の欄が設けられており、その上には小さな手書きの文字でこう書かれていた。


『呪屋ばべる 憎い相手を呪っちゃおう! 嫌いな人消します ↓そいつの名前は何て名前?』


 まるで冗談のようなタイミングで現れたチラシに、冬美は乾いた笑いを漏らした。


 そう、憎い。

 私が欲しいものを横からさらっていって、取るに足らぬと笑うあの女。

 一ノ瀬日夏が、憎い。

 気がつくと冬美は、刻みつけるような乱暴さで、そのチラシに一ノ瀬日夏の名前を書き込んでいた。




『呪屋ばべる 憎い相手を呪っちゃおう! 嫌いな人消します ↓そいつの名前は何て名前?

 

 一ノ瀬日夏』


 そこで、冬美ははたと我に返った。

 先程までの煮え滾る泥のような、熱を持って黒く粘ついた感情が、嘘みたいに消えてしまっていた。


 下らない。

 こんなことをしても何にもならないのに。

 冬美はチラシをぐしゃぐしゃに丸めて、投げ捨てた。

 丸くなった紙屑は、風に吹かれてどこかへと消えていってしまった。


「……馬鹿みたいだ、私」


 意図せず漏れたその一言が、消え入りそうなくらいに弱々しくて、冬美は小さく自嘲の笑みを浮かべた。




「一ノ瀬日夏さんが、昨日の晩からお家に帰っていないそうです。何か知っている子は、何でもいいので教えてほしいの」


 だから自習のために向かった学校の教室で、担任の教師がそう言った時。

 冬美はがたがたと身体が震えだすのを、止められなかった。


 思い出すのは、昨日の妙なチラシ。

 私は何を書き込んだ?

 馬鹿らしい。そんなはずはない、と思いながらも、確信めいた感覚が冬美の胸の内に座り込んでいた。

 両腕で身体をかき抱くようにしても、冬美の震えは止まらなかった。


『私が君を肯定しよう』


 思い出すのは、奇妙な声。

 そうだとしたなら、日夏が消えてしまったのは。

 ぐらり、と世界が揺れる。


「……斎藤さん? 斎藤さん! 斎藤さん、しっかりしなさい! ちょっと、誰か! 保健の先生呼んできて!」


 足元が崩れていくような感覚と、高いところから落ちた時の奇妙な浮遊感の中、冬美は自分にかけられる声が遠くから響いてくるのをぼんやりと感じていた。

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