第7話 古武術使いと肉の魔女(1)

 それは蔵部和馬にとって、まったく突然のことだった。


「なあ、蔵部くん。勝負しようぜ」

「あん?」


 50メートル走測定。中学生男子にとっては、密かに自分の能力をアピールする場でもある。

 中学生の平均タイムってどれくらいだっけ、と和馬がぼんやり考えていた矢先のこと。

 隣に並んだ木下が、挑みかかるような視線を和馬向けていた。


「俺が勝ったら、羽原さんに告白させてもらおうと思ってさ」


 そしてその挑発は、和馬にとって決して見過ごせないものだった。


「ダメに決まってんだろ、バカか」

「どうして? 付き合ってないだろ、お前ら」

「アイリに手を出すな、っつってんだよ」


 羽原アイリ。

 古部第一中学高の生徒会長。

 成績優秀、眉目秀麗、肩まで真っ直ぐ伸びた艶やかな黒髪と、とびきり眩しい笑顔がチャームポイントの、学年一の美少女だ。

 毎朝彼女の父親と顔を合わせるたびに、


「アイリに悪い虫が付かないようよくよく気をつけてくれ」


 と強く言い含められており、それに関しては和馬も全くの同意見だった。


 アイリは誰にも、渡さない。俺が守る。

 それは小さい頃からアイリの側に居続けてきた蔵部和馬の行動理念の芯になっている。

 そんな和馬の内心を知ってか知らずか、木下は鼻で笑った。


「見てくれも普通、成績も悪い、おまけに帰宅部。君は、羽原さんには釣り合わない。その保護者ヅラが邪魔だから頼んでんだよ、蔵部くん。負けたら黙ってるって、約束してくれないかな?」


 自分が負けることなどまるで考えていない不遜な物言いに、和馬は自分の表情が凍るのを感じた。


「……OK。買ったぜ、その喧嘩」

「マジで? やったね。男子に二言はないよな?」

「その代わり、お前が負けたら金輪際アイリに近づくなよ」

「はいはい。俺が負けたら、ね」


 軽薄な態度でヒラヒラと手を振る木下。

 ちらと視線を落とせば、陸上部のスパイクを履いている。


(ふざけたフリして、マジじゃねえか)


 それは、木下が本気であるということの表象。

 帰宅部の和馬に負ける気など更々無いということだった。


 負けられない戦いというものは唐突にやってくる。

 だからといって、和馬は緊張しない。している場合ではない。

 こんなふざけた男にアイリを渡すわけにはいかないし、何より、


(走ることでなら俺は、誰にも負けない)


 誰に言うでもなく、心の中でそう見栄を切って、和馬は奥歯をしっかりと噛み締めた。


「位置について」


 クラウチングスタートの構えをとる木下に対して、和馬は構えることさえせず、ぼーっと立ち尽くしていた。

 それを横目で見て、木下が小声で笑う。


「プッ。なにそれ。やる気あるのかい?」

「よーい」

「―――無拍子」


 笛が鳴ったきっかり0.1秒後には、和馬の身体は既に駆け出していた。

 一歩目が力強く大地を蹴り、二歩目に至る前に速度と重心のバランスを調整。

 二歩目を蹴り出す頃には既にトップスピードに達している。

 断続的に揺れる視界、身体が風を切る音。

 ゴールまで走り切り、そのまま速度を落とす。

 視界に木下の姿はない。圧倒的な勝利だ。

 くるりと振り返って、クラスメイト全員の視線を一身に浴びて、和馬は気づく。


(やりすぎた)


 たっぷり10秒ほど遅れて、歓声が上がる。


「すげーよ蔵部! 何だ今の?」

「お前、そんな足速かったっけか!?」

「……陸上部は君みたいな人材を待っていた。待っていたぞ!!!!!!!!!!!」

「まだ砂煙残ってるぞこれ」

「タイム何? タイム!」

「4秒20……4秒20!? やばくないこれ?」


 ざわめくクラスメイトを前に、和馬はひきつる顔面を自覚しながら、できる限りの笑みを返した。


「あー、ほら、ウチで鍛えられてるから」

「鍛えられてるってなんだそりゃ」

「蔵部の家って古武術とかやってんじゃなかったっけ」

「古武術ってアレだろ? ハッとかやると人吹っ飛ぶやつ」

「えっそれ発勁じゃん! できんの! 発勁やってよ発勁!」

「これで我が古部一中陸上部は県下最強となる……!」

「っつーか木下も6秒フラットってなんだよこれ。レベル高すぎだろ」

「計測ちゃんとやったかそれ? ストップウォッチ早く止めすぎなだけじゃね?」

「いや今の見てたろアレ。尋常じゃなく速かったぞ」

「な、なんか追い風でめっちゃ走りやすかったんだ、うん。まぐれまぐれ」


 興奮の面持ちで騒ぐ皆の前で、和馬は曖昧に相槌を打った。

 和馬を囲む人垣の向こうで、木下が能面のような表情で立ち尽くしている。


(残念だったな、木下くん。君みたいな軽薄な男は、アイリには吊り合わないんだ)


 心の内でそう漏らして、和馬は笑みを噛み殺した。

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