第十三節
数分後。
「ヴォオオオ――……」
整列したグールたちの膨れた腹の中から、雄叫びが聞こえる。
「おまえら、ちゃんと嚙んで食べなかったな? 飲み込んだんだろう? ちゃんと嚙んで食べんと、消化不良を起こすぞ?」
グールたちを前にし、ルシェルは腰に手をついて、呆れながら注意する。グールたちはどこか不貞腐れているような態度を取っているように見える。
「まったく……ほら、戻れ」
ルシェルはちょいちょいと手招きし、その手で自分の足下にある影を指差した。すると、グールたちは行進するようにルシェルの元へと歩み寄り、一匹一匹、彼の影の中へと沈んでいった。その際、皆が、どこかうとましそうに主人のことを見ていた。
「なんだ、その目は……!」
何度も言うが、目はない。
「しょうがない奴らだな、反抗期か……?」
パン、と一度だけ手をたたくと、階段状になっていた影が元へと戻った。後にはグールたちのよだれだけが点々と続いていた。
「おい、おまえら、いい加減目を覚ましたらどうだ?」
ルシェルは倒れたままでいる男たちを見やり、叱るような口調で声をかけた。すると、男たちはおもむろに立ち上がった。ボスは地面を這い、松葉杖を拾ってから立ち上がる。虚ろな、焦点の合わない目で、男たちはルシェルを見つめている。
「いつまでそうしているつもりだ? 邪魔だ、消えろ。どこへなりと行ってしまえ」
ルシェルは追い払うように、しっしと手を振った。すると、男たちはまたおもむろに、ふらふらと、どこに向かうでもなく歩き出した。なんだか死人が歩いているようだ。
男たちはそのまま、闇の彼方へと消えてしまった。
「ふっ、まるで廃人だな。なけなし程度の善でどうなることやら」
ルシェルは立ち去っていった男たちの姿を眺め、くいと肩を竦めた。
「悪に染まり切っていた者を、無理やり善人にしてしまう。なんという残酷なことか……我ながら、恐ろしいことを思いついたな。奴らは今後、一生、死ぬまで、悪を失ったその身で暮らさねばならん……うーむ、地獄……」
ルシェルは額に手をやり、苦笑いを浮かべながら、首をそっと左右に振った。どこか、同情でもするかのようだ。
「さて、と」
誰もいなくなったその場に、ルシェルは目を向けた。いまだに炎上している、もはや車と呼べぬ金属の塊に、まだ辛うじて車としての原形を保っている数台。そして、地面に散らばったいくつもの銃火器を見やる。
「邪魔だな」
ルシェルは手をかざした。その手のひらを上に向けて返し、ぎゅっと拳を作る。そして、そのまま、ゆっくりと下ろしていく。すると、残されていたすべての物が、ずぶずぶと地面に沈み始めた。車も銃も、すぐに跡形もなく消えてしまった。
「これで証拠はない」
ルシェルはニヤリと微笑むと、漆黒のマントを翻し、踵を返した。二枚扉を押し開け、教会の聖堂へと入っていった。
ルシェルは真っ直ぐに、大きな十字架へと向かった。十字架の下に立つ。
「貴様と、この俺様、果たして、どちらが人間のためになっているのだろうな……?」
ルシェルは腕を組み、十字架を睨みつけるように見上げながら、ふいに誰かに話しかけた。だが、視線の先には誰もいない。あるものといえば、十字架に張りつけにされた、髭を生やした男の像だけ。腰巻きだけをまとった裸体。その手足には釘を打たれ、頭にはいばらの冠を乗せられ、左右の脇腹から血を流している。
「ふっ」
ルシェルは男の像を見ながら鼻で笑うと、素早くその場にしゃがみ、床に手をついた。彼の手が影の中に沈む。
「うわっ!」
ルシェルは影の中から何かを引っ張り出した。クリスである。
「あいてっ」
ルシェルが前置きもなしに手を離すものだから、クリスは尻もちをついてしまった。
「うわあっ! なんですかこれ!?」
クリスはお尻をさすりながら立ち上がり、すぐに辺りを見回し、長椅子がすべて倒され、足下には無数の弾丸が転がっているのに気づき、ひどく驚いた。
「あれ、あの人たちは?」
クリスはルシェルを見る。
「あ? ああ、あいつらはな……そう、そうだ! 説得したんだ! 誠心誠意話をしたらわかってくれてな、もう二度とこの村には来ないと言って出て行ったんだ!」
あからさまな嘘。
いま置かれているこの状況と、ルシェルのぎこちなさや芝居口調から、それは嫌でもわかる。言わずもがな、である。
しかし、
「なっ、なんと! ああ! やはり、人は話し合うことで争いを避けられるのですね! それは間違ってはいなかった! おお、主よ……!」
クリスはルシェルの言葉を聞くや否や、なんともまばゆいばかりの笑顔を浮かべて、おもむろに胸の前で十字を切り、大きな十字架の根元にひざまずき、祈りを捧げた。
「……」
ルシェルはなんともばつが悪そうだった。そっと視線を逸らし、唇をぴくぴくと痙攣させている。身体が痒いのか、しきりにさすっていた。
「とっ、とりあえず、これで契約は完遂されたのだ。さあ、俺様を魔界に召還してくれ」
「あ、はい!」
クリスは笑顔で返事をし、立ち上がった。踵を返すと、物置部屋に通じる扉をくぐり、廊下を進み、突き当たりの扉を開けた途端、クリスはぴたりと静止した。
「え……」
クリスは固まった。笑顔も強張る。
「ん? どうした――」
クリスの後ろを歩いていたルシェル。クリスが急に立ち止まるものだから、ルシェルはクリスの頭上から、開かれた扉の奥に目をやった。すると、ルシェルもまた固まる。彼の真紅色の瞳が、赤い光に照らされて、なおいっそう赤く輝いている。
赤い光を見つめて、クリスは呟いた。
「物置部屋がありません……」
目を見開いている二人。その場に立ち尽くしている二人。そんな彼らの正面、開かれた扉の向こうは火の海だった。
置かれてあった家具が燃えている。積まれてあった本も燃えている。床も燃えている。天井を見上げれば、天井などどこにもなく、その向こうには美しい星空が広がっていた。
二人は口をぱくぱくとさせた。
「たっ、たたっ、大変だ! 本が!?」
ハッと我に返ったクリスがそう叫ぶと、そんな彼を突き飛ばし、ルシェルが火中に飛び込んだ。燃えさかる炎をものともせず、奥へと駆け抜ける。いまにも火が燃え移りそうになっている黒の書。けれど、いまならば間に合う。ルシェルは一心不乱に突き進み、黒の書に手を伸ばした。その時、彼の足が何かを蹴った。
「ぐおっ!?」
それは壁に当たって跳ね返り、ルシェルの顔面に直撃した。
もう一歩、というところでルシェルの手は止まり、その指先はほんのわずかに届かない。無残にも火は黒の書を包み込み、これがまたよく燃えて、あっという間に灰燼に帰した。
「……」
ルシェルの顔面からはがれ落ちた“それ”は床を打ち、わずかに弾み、ころころと転がった。ルシェルの顔の形に変形した“それ”は、豆の缶。
そういえば、クリスが床に缶を置いていたような……。
「うがああああああっ!」
ルシェルの堪忍袋の緒もついに切れた。ルシェルは大声を上げながら、全力で缶を踏み潰した。その力は凄まじく、床は陥没し、四方八方にひび割れが起こり、それはすべての柱を粉砕し、物置部屋を崩壊させてしまった。
「ルッ、ルシェルさん!?」
クリスの目の前で、ルシェルは瓦礫の下敷きとなってしまった。
「ルシェルさああああああんっ!?」
クリスの、ルシェルの名を呼ぶ悲痛な声が、闇夜に木霊した……。
数時間後。
夜が明け始めた頃、鎮火した瓦礫の中に、煤まみれになったルシェルの姿はあった。全身が真っ黒だ。
「本、燃えちゃいましたね……」
未だに燻っている火種を見つけては、バケツに汲んだ水をかけて消していたクリスは、恐る恐る問いかけた。
ルシェルは返事をしなかったが、ただ一度、「ごふっ!」と咳き込み、口から黒煙を吐き出した。
「……どうしましょう?」
念のためにと、もう一度問いかけるクリス。するとルシェルは、急に笑い出した。
「クククッ、フッフッフッ、ハッハッハッ!カッカッカッカッカッカッ!」
「ひええぇ……!」
ルシェルが狂ったように笑うので、怯えてしまうクリス。
「じゃあ、何か……? 俺様は、おまえの寿命が尽きて死ぬまで、この人間界から出られないということか……!?」
そう問いかけたルシェルだが、クリスのことを見ておらず、自問自答しているかのよう。
「あ、あの、その、えっと、えーっと……あうぅ……おお、主よ……」
どう答えればいいかわからないクリスは、散々悩んだ挙句、抱えていたバケツを落とし、胸の前で十字を切った。首から下げている十字架をぎゅっと握り締めて、目を瞑った。まるで現実逃避でもするように。
その一方でルシェルは、
「ダーッハッハッハッハッハッハッ!」
青みを帯び始めた天空を見上げ、両手を大きく広げて突き上げて、大笑いするのだった。
哀れなものである……。
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