第五節
「ん? 代償だ、報酬だよ。簡単に言うなら給料だな。悪魔と契約を結ぶからには当然、それに見合う代償を支払わねばならん。おまえたちの世界でもそうだろう? 等価交換だ。……おまえ、ちゃんと本を読んだのか?」
ルシェルファウストは、クリスが抱えている本を指差した。
「代償……」
クリスは明らかに悩んでいる。どうやら、ルシェルファウストの指摘のとおり、肝心なところを読んでいなかったらしい。代償のことなど、端から頭になかったようだ。だから、いまになって考えている。
「しょうのない奴だな。悪魔との契約で支払われるものといえば、髪か、眼か、それとも魂か。この辺りが順当なところだな。しかし、男の髪なんぞにはなんの価値もない。ならば、眼か、魂だが……」
顎に手を添えて、ルシェルファウストはまずクリスの金髪に目をやり、すぐに首を振り、次に、宝石のようにきれいな碧眼と胸を見つめた。彼の真紅色の瞳には、クリスの胸の奥深くに輝く光が見えていた。穏やかだが、とても力強く揺らめく光……。
「え!? 眼と、魂ですか……?」
ルシェルファウストの言葉に、クリスはひどく動揺する。
「あの、この眼がなくなってしまうと、日課にしている聖書の拝読ができなくなってしまいます。それに、魂で支払ってしまうと、お師匠様の代わりに教会を守れません……」
クリスは、また、子犬のような弱々しくも澄んだ目でルシェルファウストを見上げる。たいていはこの目に見つめられると、胸がきゅんとしてしまうものなのだろうが、彼には逆効果で、イラッとしてしまう。こう、虐めたくてしょうがなくなるといったような、そんな感情が込み上げてきてしまうのだ。
「現物支給ではいけませんか?」
クリスは恐る恐る申し出る。
「現物支給……?」
ルシェルファウストは眉を顰めると、部屋の中に目をやった。ホコリまみれの古ぼけた家具に、同じくホコリをかぶった書物。後は、彼にとって忌々しいあの豆の缶が一ダースほど。どこを見ても、これといっためぼしいものは見当たらない。彼は、視線をクリスに戻し、いったい何を差し出すのやらと、訝しげな眼差しと共にその答えを待った。
するとクリスは、
「教会ですから、こんなものしかないのですが……以前、僕が神父になると決意した時、お師匠様から頂いた由緒正しき十字架と聖書です!」
と言いつつ懐を探り、その二つの品を堂々と取り出してみせた。
「いるかっ! 悪魔がそんなもんもらってどうする!」
ルシェルファウストは、クリスの差し出した品々を手でペンと叩き返すと、彼の前に仁王立ちになり、上から睨みつけた。
「ひぃっ、ごめんなさい……!」
また小さくなって謝るクリス。十字架と聖書を素早く懐に仕舞った。
「まったく……」
ルシェルファウストは額に手を当てた。今度は軽い頭痛を覚えたようだ。
「えっと、後はパンと、チーズと、畑の野菜ぐらいしか……」
クリスは一本ずつ指を折り、教会にいまあるものを真面目に数えていた。それがまた、頭痛を悪化させる要因となる。
「チィッ、仕方ない! 本来なら、よほどのことがなければ行わんのだが――」
物事がいっこうに前に進まないことに業を煮やし、ルシェルファウストは舌打ちしながら、おもむろにパチンと指を鳴らした。その途端、彼の足下にあった影の中から、黒いニョロニョロとしたものが現れた。それはまるで触手だ。それが一本だけニュッと伸びた。
「ひぃっ!」
クリスは驚き、身を仰け反らせた。
影より現れた触手は、再び、影の中へと入り、何かを取り出して、もう一度現れた。それは丸められた一枚の紙だった。いまでは珍しい羊皮紙である。ルシェルファウストにそれを手渡すと、触手はまた、しゅるしゅると影の中へと消えてしまった。
「ただの契約書だ。――おまえの魂を差し押さえる」
丸められた羊皮紙を指し棒のようにし、ルシェルファウストはクリスの胸を指した。
「差し押さえ……?」
「おまえが寿命を迎える。もしくは、事故などでその生涯を終える時に、その魂を俺様に差し出すという契約だ。これならば文句あるまい?」
ルシェルファウストは二度手間にならぬようにと、なるべくわかりやすく説明する。
「あ、はい、それなら!」
クリスは納得し、大きく頷いた。
「これはメリットがないうえに、リスクばかりが高くて、肝心の魂が手に入るまでに時間がかかるから、あまり好かんのだがなぁ……」
ルシェルファウストは不満そうにそう呟くと、また、パチンと指を鳴らした。影からまたしても触手が現れて、一本の羽根ペンを彼に手渡した。カラスの羽根のように黒々とした美しいものだ。
触手が影の中に戻ろうとすると、また別の触手が入れ替わるように現れた。その触手は小瓶を持っている。小瓶の中には、血のように赤々としたインクが入っていた。ルシェルファウストはその小瓶に羽根ペンの尖った先端を刺すようにして突き立てた。
「ここと、ここ。そして、ここに、おまえの名前を書け」
ルシェルファウストは丸められていた羊皮紙を広げた。すかさず触手が現れ、羊皮紙の上と下とを押さえる。羊皮紙には見たこともない文字による数行の文章や、不思議な形をした図形などが記されている。彼は羊皮紙のいくつかの箇所を指差した。すると、それに合わせるように、触手が、クリスに羽根ペンを差し出した。
「はい。……書きました」
羽根ペンを受け取り、クリスは、触手によって押さえられ、宙に浮かんでいる羊皮紙の指示された空欄の部分に自分の名前を書き記した。
「クリス=チェンヴァース、だな? よし、これで契約は受理されたぞ。――ところで、おまえなあ、もう少し相手を疑うということを学ぶべきではないか? 俺様はそんなくだらんことはしないが、悪魔の中には騙す輩もいるんだぞ。まあ、いきどきは人間もたいがいだがなぁ……」
契約書として認められた羊皮紙を手でくるくると丸めて、ルシェルファウストは、ぶつぶつとぼやきながら、ひょいと自分の影へと投げ捨てた。すると、影がひとりでに大きくなり、羊皮紙は吸い込まれるように影の中へ。水面に小石を落としたように小さな波紋が広がると、影はまた、元の大きさへと戻った。
(どのような原理になっているのだろう?)
クリスは不思議そうに影を見下ろしている。
「じゃあ、さっそく、その地上げ屋を説得しに行くか」
ルシェルファウストは一度だけ手をたたくと、踵を返そうとした。
「あの!」
クリスがルシェルファウストに歩み寄る。
「ああん?」
踵を返そうとしていたその足を止めて、ルシェルファウストは、視線をクリスに戻した。
「ルシェルさん!」
「りゃっ、略すな! 俺様の名はルシェルファウストだ!」
「すみませんっ。――あの、お願いですから、あまり手荒なことや乱暴なことは……」
「わかっている。契約上の条件だからな。手荒なことはせんさ。悪魔はな、契約にだけは忠実なんだよ」
ルシェルファウストの優しい口調と言葉に、クリスは安心した顔をする。
「じゃあな、行ってくる」
ルシェルファウストは改めて後ろを振り返り、窓のある後ろの壁に歩を進めた。窓から差し込んでいた夕陽も、いつの間にやら、本当の夜の空に浮かぶ月明かりに変わっていた。
青白い月光がルシェルファウストを照らす。
「……ククッ」
クリスに背を向けた途端、ルシェルファウストは、唇の端をニッと吊り上げた。
(悪魔はな、契約を完遂させるためなら手段は選ばんのだよ、クックックッ!)
ルシェルファウストは羽織っていた漆黒のマントを大きく翻した。すると、彼の前にある窓に小さな黒い点が現れ、それはあっという間に大きな穴となった。彼は、その穴に向かってさらに歩を進める。
ルシェルファウストの姿が、黒い穴の彼方へと消えていった。
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