お題「怪しい店」「幼女」「キス」

 連日の猛暑は何万人をも病院へと送っているが、ついに順番が回ってきたのだろうか、と思わずにはいられなかった。先ほどまで炎天下の大通りを歩んでいたはずの足はいつしか夜の小道を進んでいて、眼前にはきらびやかなネオン・アートで彩られた城郭がそびえ立っていたからだ。

 幻覚か、あるいは白昼夢の類いか。

 目頭を押さえていると、不意に服の裾を引かれる。


「のう、主よ。道に迷いでもしたか? さてはお困りか?」


 視線を下げれば、せいぜいが小学生程度と見える幼い少女が、シャツの端をちょんちょんと引いているのだった。

 背丈相応の、気持ち大きくふっくらとした輪郭の中には、幼いながらも美人の予感を漂わせる整ったパーツが並んでいる。だがひとつ明らかに異常なのは、顎の線の先に耳がなく、代わりに登頂部で、黄金色に尖った獣の耳が揺れていることだった。


「お困りであれば、このあれにおまかせあれ。くふふ」


 純朴な子供そのものの笑顔で、彼女はこちらの手を引いて走り出す。


「どこへ行くんだ──?」

「むろん、主が在るべき場所へ、だ。何故かと問えば、あれは心優しい狐ゆえ」


 く、ふふ、と、板を打つような済んだ笑い声が、眼前に屹立する城の中へと連れていく。


 城内には狐の症少女と同じような異形の少女が幾人か見える。その誰もが、和服と女中服を割り合わせて大胆にアレンジしたような、やたらひらひらとした服に身を包んでいる。

 二階へと進む階段の前までを走り抜けると、少女は急に歩行程度にその速度を落として、不意にくるり振り返った。


「珍しいか? あれたちは」


 ともすれば詰問に聞こえないこともないが、その表情は単純明快な興味好奇心をありありと写していたので、無為に返答に悩むこともなく告げた。


「珍しくは、ないね。フィクションの中限定だけど」

「そうか。そうだろうな。くふふ。折角の機会なのだ、目に焼き付けておくがよろし。なんなら、あれのであれば、触ってみても構わぬぞ?」


 ぐり、と手に押し付けてくるその感触は、なんというか……犬のそれに近いだろうか?


「む。なんじゃ微妙そうな顔をして。まあよい」


 彼女の頭部から手を──引こうとしたが、その前にまた手を繋がれてしまった。

 少し気恥ずかしいのだが。


 だがそのささやかな羞恥心は、階段の先に広がった空間に圧倒され、消え失せてしまった。

 二階は、暗い。随所に設置された行灯が幻想的に辺りを仄暗く照らしていた。光と光の間には、障子で細かく区画された、三畳程度の小部屋がいくつも連続している。だがその異質さを演出しているのは、そこかしこの障子の向こうから僅かに届く女の嬌声と、紫炎色に立ち込める甘ったるい香の匂いだった。


「これは──」

「驚いたかえ?」


 くつくつ、彼女はつい先程と同じように──けれど先程よりは明確に艶やかな笑みを漏らした。


「ここは、そうさな──遊郭、か。うむ。そのようなものぞ。厳密には少し、違うがの」

「……?」


 ふと思い至り、ぶしつけに訪ねる。返答は笑みと共にあった。


「一応、そうなるな」

「へえ」

「言っておくなら、あれは主よりずっと長く生きておるぞ。無論他の連中もだ。主が千年生きているというなら、話は別だが」

「そうなんだ」

「……反応が薄くはないか?」

「君が年下か年上かなんて、どうでもいいからね。敬えって言うなら敬うけど」


 一瞬きょとんとした表情を浮かべた彼女は、次の瞬間にはからからと哄笑していた。


「く、はは、そうか。いや、構わぬよ。優男に見えて、主は中々肝のすわった奴よの。主、名前は?」

「肝がないからだよ。名前は水原。水原彰(すいはらあきら)だ」

「ふふ。そうか」


 手を引かれて、薄明かりの中を歩き出す。

 香は何か薬でも混ぜているのか、血潮の熱がありありと感じられる。彼女もまた同じなのか、はたまた僕の手が熱いのか、繋がれた掌はじっとりと熱をもっていた。

 闇夜の中を歩むことしばし、再び階段を前にする。


「よいか。次の階では決して走るな。何があってもな」

「……? ああ」


 一階で無邪気に走っていたやつの台詞とは思えないが、その声音は真剣そのものである。なので怪訝ながらも首肯を返した。


「では、行くぞ」


 ゆっくりと、一段一段歩を進める。三階に入った途端──眼前に大きな牙が現れた。僕の背丈ほどあるその顔は、牛に近い。だが無論牛に牙などなく、さらに言えばその顔は蜘蛛のような八つの腕を持つ胴体と、膨らんだ腹に繋がっていた。

 思わずたたらを踏むが、こういうことか、と合点する。


「これは、夢かな?」

「くふふ。そうじゃな。それは夢よ」


 構わず一歩を進めると、牛鬼の姿は跡形もなく消えていく。背後で何かが走り寄ってくるような足音がしたが、これも無視して歩調を乱さず歩いていく。ついぞ何かが僕の背を叩くことはなかった。


「もうよいぞ。走れ。早(と)く抜けてしまおう」


 この小一時間ですっかり聞きなれた少女の声が、耳元で囁いた。僕はにっこり笑って彼女に告げた。


「そうかい? けど歩いていたい気分だな。折角可愛い女の子と手を繋いでいるのだし」

「……何を聞いたのかは察するが、別に、か、可愛いなどと言う必要はないじゃろ」


 ……案外、本当に可愛いところがあるのかもしれない。


 鉄球が後ろから迫ってきて、僕をすり抜けてそのままどこかに転がっていったりなどその後も有象無象があったが、僕たちの足はゆっくりと、四階へと続く階段へ進んでいった。


「分かっているとはいえ、なかなか神経をやられるね」

「嘘をつけ。せいぜい入ったところで少し焦っただけじゃろ、主。あれで焦っていたのなら、主の手は死人の手だ」

「どうかな。この冒険がどこまで続くのかによるね」

「5階だ。そこまでいけばよい」

「それはよかった。次の階は何かあるかい?」

「気にすることは特にないが、少し気分は良くないかも知れぬ。主なら大丈夫じゃて」


 現れた四階は、先程までとは一転、無骨な鉄に覆われていた。空間を埋め尽くすように牢獄が続いており、どこからか、肉を打つ音や、悲痛な叫びが聞こえてくる。


「……僕はもしかして、血も涙もない人間と思われてるのかい?」

「でも平気じゃろ?」

「まあね」


 先程の階ではないので、別に走ってしまってもいいのだろうが、走る必要もまたないので、手の温もりを感じながら、僕たちは鉄の床を叩いていく。


「ここはどういう場所なんだい?」

「見たままよ。罪人を捕らえる牢じゃ。下で代金を払えなかった者やあれら従業員に無礼を働いた輩がほとんどじゃが、中には先の場所で走ってしまい精神を病んだやつなどもいる」


 牢の中でぎらついた瞳をこちらへ向けている痩せ細った男は、身体中に鞭跡や切り傷が目立っていた。


「……えっと、私めはあなた様に礼を尽くせたでございましょうか?」

「今さらなんじゃ気持ち悪い。無礼といっても、軽く罵られたくらいなら流しておるよ。ここに居るのは暴行やら何やらを行った者だ」

「ところで、精神を病むって?」

「3階は、結界なのじゃ。ここから先は関係者以外立ち入り禁止、というな。破った者は、精神が崩壊し自我を保てなくなる」


 まあ、確かに牢(ここ)を一般には見せないだろうな。

 だがそれなら牢を地下に作ればいい。そのほうが色々合理的だ。要するに本当に隠したいのは5階のもので、ここはついでなのだろう。恐らくは、ここの権力者の何かがある。権力を持つと人を見下ろしたくなるものだ。地下にお偉いさんがいるというのは格好がつかないし。


「5階には、何がある?」

「今はなにもない。今はな」


 くくく、と彼女はいたずらっ子のように笑って、僕の手を引いた。


「さあ。もうすぐよ。知りたいのならその目で確かめろ」


 たた、と彼女は走り出す。必然僕の歩調も速くなる。

 彼女に導かれて、この不思議な城に入ったときのように。

 階段の先は、果たして。


 何もない空間が、広がっていた。

 本当に、何もない。ただの真っ白な部屋。

 だが、彼女が両足を揃えて跳躍し、再びその足が白に触れると──一転、そこには豪華絢爛を尽くした品々で調度された、たいそう広い寝室があった。ふわりと天蓋が包み込む、十人程度は余裕で並べそうなベッドに、彼女は僕を促した。

 彼女の横に腰かける。柔らかくも芯のある、包み込むような心地よい座り心地だ。


「5階──ここは、あれの寝室じゃ。驚いたかえ?」

「正直びっくりしたよ。魔法か何かかい?」

「ふふ。秘密じゃ。秘密」

「で、どうやったら僕は元の世界に帰れるんだい?」

「急ぐこともなかろうに。だがそう言うのであれば是非もなし。簡単なことよ、あれがひとつ願えばその通りじゃ。あれはこの世界の……うーむ、そうよの。神のようなものじゃからな」


 繋がれたままの手の上に、そっと、彼女のもう一方の手が重ねられた。


「だったら、ここまで来る必要なかったんじゃないか?」

「いいや。あれは愚かな男は好まぬ。好まぬ男に尽くす義理はなし。3階を越えるというのもひとつじゃが、何より共に話をして、迷い人たる主を見極めたかった」

「それで僕はどうだった?」


 もたれてきた彼女の頭から伸びた耳の先が、僕の肩をくすぐった。


「素直に言うぞ。心して聞け。よいか──好む好まぬでは収まらぬ。主を愛したい。真の強さを知る者よ。未知を恐れぬ傑物よ。寂しいことは言いなさるな。あれとここに居てはくれませぬか?」

「残念だけど、断る。君は好きだよ、愛そうと思えば愛せるくらいにはね。たとい僕が君にどんなに惚れていても、僕は帰るよ」

「何故? ここは桃源郷。二度と訪れることは叶いませぬ」

「自分の生活が一番だ。自分の生活があってこそ、愛は輝くのさ。少なくとも、僕はそう思ってる。だって、自分一人で幸せに生きられないのに、お前を幸せにしてやる、なんて、説得力ないじゃないか」

「──そうじゃろうな。主はそう言うと思っていた。だから主を好きになった」


 彼女はにっかりと歯を見せて笑った。気丈に、凛々しく、大胆に。

 だがその瞳は濡れていて、目尻から一筋涙が溢れていた。


「では、最後にお願いじゃ。あれのめを、食ろうてほしい」


 ぐるり、と彼女はもたれていた肩で寝返りを打つように僕の眼前にやってきた。互いの息が、相手の顔にかかるのが分かる。


「いや。愛さない人を愛することは好きじゃない。……君の城を否定するようで悪いけどね」

「……ふふ、はは、くははは! ……そうか。主らしい。だがこれくらいは、いいじゃろ?」


 初めて、繋がれた手はほどかれて。

 代わりにと首に回された手が、ぐいと引かれる。


 重なった唇は熱い。焼けついて離れなくなってしまいそう。

 それでも心地のよい熱さ。唇と言うよりも、互いの内の──生命の熱が表れたようだった。

 口内には小さな蛇のように動き回る舌が入ってきて、抱きつくみたいに僕の舌を絡めとった。淫靡な音が響く度に、彼女の瞳が潤んでいく。

 流れた時は永遠か、それとも一瞬か。


 唇を離した彼女はぱっと背を向けて立ち上がり、濡れた吐息のままに言った。


「主が好きじゃ。だから主と別れよう」

「……ああ。ありがとう」

「のう、願っていてくれるか? あれとまた会いたいと」

「……桃源郷は、願うほどに叶わなくなるんじゃないっけ?」

「かも知れぬ。だがそれでもよし。もとより、願っても叶わぬものだ。であればあれは主に想っていて貰いたい」

「約束するよ。僕も、君が──まあ、それなりに好きだよ」


「くふふ。馬鹿者め。そこは建前でも、愛していると言ってみよ」


世界が明滅し、万華鏡のように、かしゃりかしゃりと形を変える。幻想が壊れていく。束の間の桃源郷から、つまらない、けれど何より尊い現実へと。視界が暗転した刹那には、彼女の笑顔が写っていた。


 目を開くと、そこは病院だった。

 聞けば熱中症で倒れて病院に搬送されたらしい。名目無料の救急車代は馬鹿にならない金額になっていて、僕の財布は一気に軽くなってしまった。だが何より心が軽くなっていた。失ったのではなく得たことによる軽さだ。

 あれは夢だったのだろうか?

 分からない。分からないが、願うことは財布が空でもできる。


 また、願わくばこの現実に、彼女が現れてくれますよう。







 暑い、というのが、まず抱いた感想だった。照りつける太陽はじりじりと背をむしばみ、汗が身体中でべたついていた。

 なんとか、家にたどり着く。家といってもマンションの一室で、家主を表すのは、301号室の下に記された、水原という二文字だけだが。

 クーラーのよく効いた部屋が、火照った身体に心地よかった。

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