星柄寝間着

 今日は平凡な一日だった。

 だが、別に今日が終わったわけではない。現在時刻は九時をすこし回ったところで、僕にはこの時間に一日を終えるような健康性もない。要するに、平凡な、という部分が瓦解したということだ。ならばどんな非凡があったのかというと、だ。

 月明かりと明滅する寿命の切れた街灯の手元に、たおやかな手足を揺らす少女が歩いてきた。身に纏うはまるで夜空のような黒の下地に白の星々が輝いている寝間着だ。もう一度いうと、寝間着だ。パジャマ。そう、この、微妙に田舎か都会かわからないせいで時代に少しだけ置いていかれた曖昧な町に。暴走族やら何やらが出始めるこの時刻に、かよわく可愛らしい少女がパジャマで歩いているのである。

 声をかけようかどうか逡巡したが、やめた。

 だって僕はお世辞にも人当たりのよさそうな顔をしていないし、背丈だって無駄に高い。話しかけたところで逃げられるのがオチだ。だいたい、これが幼なじみで仲のよい女の子、とかだったら背負って家まで送ってあげるのもいいが、相手は赤の他人なのだ。そういう幻想を見ている時点で僕は紛れもなく変態だろう。

 なのに少女は、僕とすれ違うかと思ったその一瞬──ぴたりと、立ち止まった。

 そして僕を見詰め──いや、違う。

 焦点の合っていない目が僕の脊髄を射抜いた。金縛りみたいに僕の足が硬直し、その闇夜の瞳に釘付けになる。

 ふっ──と、少女が目を閉ざして膝を落とし、ぐらりとバランスを崩し横に横にと倒れていく。

 思わず僕は彼女に抱きつくようにしてその転倒を回避させたものだから、少女特有のふわっとした花のような芳しい匂いが僕に倒れ込んできた形になり、インスタントフードの臭いが染み付いた鼻腔を塗り替えられて少し動揺した。

 これは交番に送り届けるべきなのか、あるいはライトノベルか18禁同人誌よろしくお持ち帰りするべきなのかという二択を考えはしたが、迷いはしなかった。

 少女を背中に担ぎ、うろ覚えの交番を目指して歩き出す。

 だってそうだろう。

 僕は、毎月生きていけて少しは趣味に費やせる程度の金さえあれば充分な一般人なのだ。お持ち帰りが通用するのはAPP18かR18だけで、実際にそれをやったらただの誘拐犯なのだ。せっかく明日も生きていける世界を、わざわざ壊す必用はない。

 もしかしたらこの少女は親の虐待から逃げてきた、だとか、そういう不幸な子供なのかもしれない。交番に届けたら、またその地獄に連れ戻されるのかもしれない。だが、そんなのは僕の知ったことじゃない。そもそも知ることもできないのだから、気に病む必要どころか理由さえないのだ。

 なのに。


「どこに向かっているの?」


 耳元に甘い声がした。少女の華奢で、闇の中でも真っ白に見える病的に白い腕が、僕の首を捕まえて、顎の下辺りで交差する。


「交番さ。君は倒れてたんだ」


 前を向いて歩き続けながら、機械みたいに冷たく返した。


「倒れ、た……そうなんだ」


 一呼吸おいて、少女が言葉を続けた。呼気が耳をなぶって蕩けてしまいそうになるが、少女の告白で一気に固形化した。


「わたし、いきたく、ない」


 どうとでも取れる抑揚の付け方だった。

 交番に行きたくない、家に帰りたくない──あるいは、もう生きていたくない。

 そして、運命は狙ったかのように、その中で最高にすてきな解釈を是とした。


「わたしは、死ぬために、外に出てきた」

「……どうして?」


 とりあえず言っておいた。それが普通な反応という気がしたから。まあ、交番に行くまでの暇つぶしにはなるだろう。


「わたしは、もう、疲れたの」

「なぜ?」

「いろんなことで。親も、友達も、見知らぬ人も──ううん、親であるはずの人と、友達だと思っていた人たちと、私は知らないのに私のことを知っている人」


 それは幼稚園とかが情報を売ってる通信教材会社のことかい、と言おうかと思ったが、やめておいた。まあ、さすがにね。


「へえ」

「みんなわたしをバケモノだと言うの」

「ふむ」


 人間なんてそんなものだし、ましてや日本人なんて横並び意識の強い人種は、出過ぎても引っ込みすぎてもダメ、制裁だ、とかいうクソみたいな考えを平気で実践し何とも思っていないようなものなのだから、早めにお前らには着いていけないって天秤を降りればいいものだが、少女にはそれもつらかったのだろう。少女も日本人なのだから。

 その点、僕は実は日本人ではない説が濃厚である。


「わたし、どこか、違うのかな……ううん、違うのよ。人間じゃないのに、人間の身体に間違って生まれたんだ」


 随分と哲学に片足を突っ込んでいるが、所詮哲学だって奴隷に全ての仕事を任せて毎日毎日ぐだぐだ話していただけの奴らが始めたんだよと諭してみようか。

 そんなことを考えていたから、生返事どころか皮肉みたいな相づちを打ってしまう。


「それは凄い」

「わたしの話、きいてる?」

「もちろん」

「じゃあ、わたし、どこか、違う?」

「さあ」

「本当に、きいてた?」

「本当って、難しい言葉だと思わない?」


 この言葉は、本当だ。本当が何なのか僕は知らない。じゃあなんでこの言葉が本当なのか。


「うそじゃない、ただそれだけ」

「それじゃあ、そうだな、僕は嘘つきだよ」

「うそ」


 少女は食いつくようにそう言った。


「ほら、嘘つきじゃないか」

「……きらい」


 食いついたはいいが不味かったらしい。


「うん。よく言われる。で、そろそろ降りてくれないかい?」

「力はあるでしょ」

「そりゃ、男だからね。でも可能不可能じゃあなくて、僕が可愛らしい少女を背負っているということが少し問題なんだ」

「ふーん」

「降りてよ」

「へえ」

「僕の話聞いてるかい?」

「あなたのまね」


 なんだそりゃ。というか──。


「僕ってかなり嫌なやつだな」

「そうかもね」


 一向に降りる気配がないので、軽い脅迫をしてみた。


「降りないと交番に着いてしまうけど」

「交番は反対方向よ」

「まじかい。その返しは予想外だった」


 もちろん交番は現在の進行方向で合っている。はずだ。


「ほら」


 仕方がないから立ち止まって、首を傾げるような形で少女の額を見た。なるほど、次の目的地は決まった。が、はぐらかすために少女には適当な選択を与えておく。


「了解、姫様。次の目的地は警察署か病院か」

「あなたの家」

「この世の中、迷子に声をかけただけで警察に逮捕されて、迷子が女の子なら手を繋いだだけで罰金確定、ましてや家まで連れていったら間違いなく僕の人生はおしまいだ」

「世知辛い世の中」


 その通りだけれど、中学生か、下手しなくても小学生に見える少女の唇からでは違和感しか出てこない。


「きみ、その言葉似合ってないよ」

「どうするの?」

「じゃあ、きみをここに置いていくっていうのは?」

「そうしたらわたし、必死に泣いている演技をしてあなたの特徴を警察に言いにいく」


 即死確定の禁止コンボだ、それは。


「鬼かい君は。僕はどうしたらいいのかね、難しいな」

「安心して。わたし、独りだもの。捜索願いとかはない、たぶん」

「ほう。学校とかはどうなんだい? というか、親は?」

「行ってない、すこし前に殺した」

「よく生きてるね」

「今日死のうとしてたけどね」

「いや、素直に驚きだ。きみ、学校行ってないのかい?」

「殺した、には驚かないの?」

「だって君、殺してないだろう。殺した人間は、こういう目になる」


 人殺しの目を見せてみた。


「本当?」

「本当って、難しいよね。僕が殺したはずだけど、僕は悪くないらしい」


 未だに分からないのだ。僕は間違いなく悪かった。だがどうしてか、間違いないはずなのに、世間や警察は間違えたらしい。


「なにをしたの?」

「寝てた。ただ寝てただけだ。お湯沸かそうとしたのをすっかり忘れて、ガスの火をつけっぱなしにしてね」

「換気扇は」

「回さずに。当たり前だけど、僕はガスでやられかけてね、そこで起きた。そしたら、父が僕を助けに来た」

「すてき」

「そうだね。でも肺をやられて死んだ。長くガスを吸ってたはずの僕は二週間で退院だ」

「すてき」

「そういうのけっこう好きだよ。……母は外出先だったけど、父が死んだと聞いて自殺したらしい。なにしろ僕は病院で、これまた寝てたからね、翌々日まで知らなかった」

「すてき」

「僕って」

「嘘つき」

「おや。きみ、けっこうセンスあるよ」


 あれ、そういえば──このことを誰かにまともに話したことってあったっけ。それに答えが出ぬ内に、今度は少女が語りだした。


「わたしは、母さんも父さんも自殺させた」

「すてきだね」

「わたしがバケモノだから」

「僕は鬼っ娘大好きだけど」

「なにそれ?」


 純粋無垢な率直疑問である。言い換えれば、頭の上にクエスチョンマーク。


「素で返されるといたたまれなくなる。で、どうしてきみがバケモノなんだい?」

「わたし、人の気持ちが見えるの」

「……ほう」


 どこかで聞いたような話だった。


「楽しそうに話しながら相手のことを殺したいほど憎んでたり、愛してるって言いながら他の人のことを考えてたりするのが、分かる」

「きみの周りにそんな人たちがいたことにまず驚きだね」


 ずいぶんとドロドロである。最近の小学生はませているのレベルを吹き飛んでいやしないか。


「わたし、14歳」

「これは失礼。せいぜい12歳だと思ってた」

「よく言われる」


 そりゃ、この背丈だったらね。


「だろうね。で、奇遇だねとも言っておこう」

「何が?」

「僕も14歳なんだ」

「へえ」

「だからね、ボケはツッコミがないと空しいんだ。ちなみに17歳」

「もっと上だと思ってた」

「高いのは身長だけさ」

「で、何が奇遇なの」


 これを誰かに言うのが初めてかは、迷う間もなく答えが分かる。


「僕もバケモノだということさ」

「──どういう、」

「人の考えが見える」

「……本当?」

「本当って、難しいよね」


 少女は言いかけた言葉を引っ込めて、小さな同意の声を返した。


「そう、ね」


 少女はうつむいているようだった。だから気づかなかったのかもしれない。僕は目的地に到着したことの確認を少女にする。


「──きみの家、ここかい?」

「どうして?」

「言ったろ。人の考えが見えるのさ」


 ここには帰りたくない。帰りたくなかった。でも──まあ、いっか。

 そういう風な考えが少女の額から溢れていた。どういうことさ。


「そうなの。ふうん」

「そろそろ疲れたしね」

「明日はずっと家にいるから」


 少女が、ふいにそんなことを言った。


「ほう。そりゃまたどうして」

「あなたを待ってる」

「……僕らって、初対面だろう?」

「そうね。でも、私にはもう一人だけの話せる人よ」


 僕もだよとは言わない。それは主人公の台詞だ。僕は主人公じゃない。


「そりゃ嬉しい」

「それじゃ、ね」

「おやすみ、またいつか」

「また明日、のまちがい」

「……ふむ」


 どうしてか、何だか妙な気分になった。

 本当に、どうしてだろう?

 本当って、難しい。

 でも、僕はきっと嬉しいのだと、下げても下げてもいつの間にか上がっている口角から察した。


 空には、少し曇っているせいで、少女のパジャマよりは少ないけれど、確かに輝く星々があった。

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