第15話

 気持ちのよい風が吹いていた。真冬の空気はぴりりとして、シモンの肌に緊張感を与えたが、それでも故郷の風は馴染んだ。

 外套を羽織り、我が家の前に佇んでいる。ほんの少し、外の風を感じてみたい気分だったのだ。しかし目を閉じて、より深くそれを感じようとするシモンの思考を、騒がしい声が邪魔していく。

 破裂したように響いているのは、遅れて到着したグールドの泣き声であろう。都から帰り着き、イサクの顔を見た途端に大声で号泣しだした彼は先程から、リブカに叱られ、一度泣き止み、また大声で泣き始めるということを、延々繰り返しているのだ。

 それを諌めるリブカとて、はじめに横たわるイサクを見た時は、負けず劣らず大声で泣いていたのだが。

「シモン。お前、本当に帰ってきてたんだな」

 通りの向こうからかけられた声に、ふと顔を上げる。団長のシュムリに、演出家のヒレル、それから、ガリラヤ劇団で共に舞台を作ってきた人々が、みな微笑んでそこにいた。

「帰ってきました。ちょっと、ホームシックになっちゃって」

 苦笑しながら言うシモンの髪を、ヒレルがわしわしと撫で付ける。「そりゃあ丁度いい」と続けたのはシュムリだ。

「次の舞台、配役が一つ空いててな。どうせ帰ってきたんなら、お前が演じてみるか? 今までとは少し、勝手が違う役なんだが」

 「いいんですか?」穏やかな声音でそう問えば、シュムリがにやりと笑ってみせた。その一方で、ヒレルがいささか首を傾げ、「お前、声が」と小さく問う。

「そうそう。ホームシックの間に泣き明かしたからか、なんだか低くなっちゃって。あっ、でもこれ、声変わりかな? 人よりちょっと遅いけど、これから成長期が来るのかも。背なんかぐんぐん延びちゃったりしてさ。これはそろそろ、俺も男役に転身する時期が来たのかもしれないなぁ。散々女役を極めた俺が、これからは、男役も極めちゃう? まずいなあ、そんなの、向かうところ敵なしじゃないか」

 滔々と流れるようにシモンが言うのを聞いて、団員のうち、何人かが吹き出した。シュムリはちらとも笑わなかった。しかし大真面目な顔で、「安心しろ」とそう続ける。

「今回空いてる役ってのは、丁度、男役だ」

「――あら! ガリラヤ劇団の皆さん、来てらしたのね。お寒いでしょう。そんなところにいないで、中に入ってくださいよ。狭い家ですけども。ね、いいわよね? シモン」

 自分の家というわけでもないのに、リブカが明るくそう言った。「イサクに聞いてよ」とシモンが言えば、「それもそうね」と彼女が返す。

「イサク、ねえ、もう大丈夫よね? お客様がたくさん見えているわよ」

 答えは聞こえてこなかった。まだ大声で話せるほど、回復してはいないのだ。「イサクのこと、良かったな」とヒレルに言われ、シモンは小さく頬を掻いた。

「あんまり静かになったから、朝は、死んだのかと思って、少し焦ったけどね」

「ああ、それで声変わりするほど泣いたわけだ」

「違う。俺がそんな、うっかりしてるわけないだろ」

「はいはい、ホームシックで泣いたんでしたっけね」

 そうして上がり込んだ客人たちは、一言ずつイサクと会話して、しかし彼の容態を気遣うように、すぐに去っていった。また感極まって泣きだしそうになるグールドを、ヒレルが引っ張っていき、リブカが隣の自宅に帰ると、家の中はうって変わって、しんと静まり返ってしまった。

「シモン、……」

 寝台に横たわったままのイサクが呼ぶのを聞き、シモンは無言のまま、その近くに椅子を置いた。そうしてそこに座り込み、「なんだよ」と問えば、イサクは気まずげに目を伏せる。

「こんなことを言ってはいけないかもしれないけど、……おまえが帰ってきてくれて、ほっとした。ありがとう。でも一言言わせてくれ。大切なオーディションだったのに、俺のせいで、それに、その前も、……」

「なあイサク。俺、イサクが眠ってる間に、またあいつらと話をしたんだ」

 遮るようにそう言えば、イサクが虚を疲れたように、「あいつら?」と問い返す。

「そう。もう随分疎遠になってたから、向こうも俺のことなんか忘れたかと思ってたけど、案外気さくに話しかけてきたよ。イサクのことを助けてくれって言ったらさ、『任せとけ!』なんて安請け合いして。……まあ、実際助かったから、いいんだけど」

 シモンが笑ってそう言っても、イサクははじめ、何も答えはしなかった。やはり、怒っているのだろうか。しかしそう問う勇気もなく、イサクの表情も伺うことができないままでしばらく居ると、唐突に、吹き出すような声が聞こえた。

「そうだね、彼らは優しいから」

 優しい兄は、そう言った。

「……、謝らないからな」

「いいよ、それでも。俺も謝らない」

「でもイサク、一応これだけは言わせてくれ」

「丁度いい。俺もシモンに、言いたいことがあったんだ」

 小さな窓から、一陣の風が吹き込んだ。きっとこれは、不器用な兄弟を見守る神々が、彼らを等しく赦すために、吹かせた風であるのだろう。そんなことを考えて、シモンは小さく息を吐く。

「ありがとう」

 二人の声が、重なった。



おしまい

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る