第3章 始まりのメモリア

彼女の名前

「すいませーん」


……どこからか女性の呼ぶ声が聞こえる。

昌幸は辺りを軽く見回したがすぐに歩き始める。

彼は今、長かった冬休みの最後を明日からの仕事の為に費やしていた。


ーー資料も買えた事だし、そろそろ帰るか。

用事を済ませた本屋を後に、足早やに歩き始める


ーー少し遅くなったかな、早く帰ってあげないと。


「すいません…すみません。」


今度ははっきり聞こえたが、大勢の客で賑わうショッピングモールを歩いているので、別に気にもとめなかった。


ーー今日は日曜日だし、これだけの人がいるんだから別の誰かを呼んでいるんだろ。


「ねェ、ちょとそこのお兄さん、すみません!」


ーーん、なんかすぐ後ろで呼ばれた気が…

昌幸は立ち止まり後ろを振り向いた。


「きゃ、」

可愛いらしい声と共に彼の胸の中に柔らかく弾力のあるものが飛びこんできた。

あまりにも突然の出来事だった……。


「ママ、お兄ちゃんとお姉ちゃん何やってるの?」

「だめよ、見たら」

「あんな若くて綺麗な子を」

「今の若い人は大胆ねー」

などの冷ややかな声が周りから聞こえてくる

周りの客の冷たい眼差しが昌幸を襲う。


……単純に昌幸が真っ直ぐ突っ込んできた彼女を受け止めただけなのだが……、

今のこの状況は誰がどう見ても昌幸が彼女を強く抱きしめている格好にしか見えない…。


ーーはぁ、確かにみんなそう思うよなこの姿……。


昌幸は顔を下におろす。そこには亜麻色をした髪の女の子がいた。

いまだに顔を昌幸の胸に埋めたままの彼女は、周りの目が恥ずかしいのか顔をあげようとしない。


ーーどうしよう…。


悩んでいると、彼女が顔を真っ赤にしてこちらを見上げた。


「手を下ろしてもらえませんか」


慌てて下ろした俺の手を握った彼女は近くにあったエレベーターに乗り込んだ。

幸いな事に、エレベーターに乗っている人はいない。


「……なんですか、急に抱きつくなんて!」


「あんなに大勢の前であんな大胆な痴漢をする人、私は始めてです」


彼女は握っていた手を慌てて離し、氷の様に冷たい眼差しを昌幸にむけてきた。


「いや、それは君が、」

これから弁解をしようとした時にエレベーターの扉が開く。

彼女はまた手を握り今度は昌幸をモールの外に連れ出した。


1月の夕方5時過ぎの外はすでに暗く寒い。

モール内と自販機の明かりに照らされた場所で昌幸は解放された。

彼女からまた罵声を浴びせられる。


「突然立ち止まって振り向くなんて卑怯です」


「だから、それは君が後ろから呼んだからだろ!」

一方的にこちらが悪者にされそうだったので言い返したが…これがいけなかった、、、


「はぁー?逆ギレですか。」

「あれだけ私の体を触っておいて」

「恥ずかしくて声もあげられなかったじゃないですか」

「だいたい痴漢をする人って、いつも言い訳して逆ギレしますよね」

「自分はやってないと、触ったにも関わらず認めようとしない」

「あーもうムカつく」


ーーなんかこの子、他の私情も混ざってないか?

ーーこれ以上は長引いてほしくないな…。俺だけが悪い訳でも無いがとりあえず誤るか。

ーーそれに多少はいい思いもできたしな。

ーーそれにしても…彼女、ものすごく美人だ。すぐにでも、女優やモデルとしてやっていけそうだな、歳は大学生ぐらいだろうか?


目の前の彼女、外見は雪肌で亜麻色の髪は彼女の豊かな胸までかかり、少しきつく見える目元はぱっちりとしてまつ毛も天然そして胸の割りにはキャシャな体をしている。


「ちょっと、今度はなんですか。人の体をじろじろ見て」


ーーあ、しまった気づかれた。


「さっきからずっと無言なんですけど、何、考えてるんですか!」


彼女の罵声にモールを行き交う人達が横目で見てくるが、声をかけてくる人はいなかった。

カップルの痴話喧嘩とでも思ってくれてるのだろう。


ーー誰も声をかけてこないのは助かる


…正直、誰かが俺達に声をかけて彼女にこの人痴漢ですと言われる方がよっぽど辛い。

悪気があった訳でもないが、見知らぬ女性に抱きついたのは事実だから…。


ーーさて、そろそろ謝らなければ。


「あの、抱きついた事は素直に謝るよ。すいません」

「でも、あそこで受け止めてなかったら、俺も君も床に倒れてたよ」

「倒れた勢いで、君みの様な綺麗な子に怪我をさせたら、それこそ申し訳ない」

目の前の彼女はまだ不満そうな顔している。


「ごめんな不愉快な思いをさせて…本当に悪気はなかったから」

「それでも君が納得いかないのならモールの警備員にでも突き出して構わないから」

黙ってこちらを見ている彼女


「……そこまでは、ただ謝って欲しかっただけなんで…」

先ほどの罵声とは違い、少しトーンをさげた口調で彼女が話す。


ーー良かった。ようやく少し落ち着いてくれた

ほっと胸をなでおろす昌幸。


実の所、彼女を納得させる為に勢いよく話してしまったが、もかしたら本当に突き出されるのではないか?と心配していたのだった。


「どうかしましたか?」

タイミングが悪い時は何をやっても悪い。

…とてもいいタイミングで女性警備員が声をかけてきた。

はぁー、とため息をつく俺。

すると、横にいる彼女が警備員に語りだした。


「すいません、少し喧嘩してたもので」

「彼ったら、私がいるのに他の女性ばかり見てるから、怒ってたんです」

「でも、もう大丈夫ですよ。今仲直りしたんで、心配させてしまって申し訳ありませんでした」

彼女は大丈夫ですアピールの為か昌幸に腕を組んできた。

ーーあの、発育のいい胸が当たってますが、後からまた怒りませんよね…


「そうでしたか。彼氏さんもこんなに可愛い彼女さんがいるのに、浮気は駄目ですよ」

年配の女性警備員が昌幸に注意する。


「………はい。」

何故か謝る羽目になった。


「じゃあ、お大事に。もう喧嘩はしないでくださいね」


「ありがとうございます」

女性警備員が立ち去り、彼女が御礼を言う。


正直、以外だった…。

俺が謝りはしたものの彼女がここまで演技をしてくれるとは思っていなかったから。


「…ありがとう。演技してくれて」

俺は彼女に素直に感謝の言葉を述べた。


「…別に、感謝しなくても。」

「ただ私のせいで貴方の人生を棒に振る様な事はしたくなかったから、私の後味が悪いので。」


ーーああ、そう言う事ですか。感謝して損した。


「それに、貴方の言うとおり。あそこでよけられたり、倒れたりしたら私も怪我してたかもしれないから」

「抱きしめ……受け止めてくれた方が良かったのかもしれません」


雪肌の顔がほんのりピンクに変わっている。さっきの事を思い出したらしい。


ーー冷めた表情の子が照れると破壊力が半端ないな、可愛いすぎる。


今だに照れたまま、腕を組んだままの彼女。


ーーすっかり忘れていたが彼女なんで俺を呼んでたんだ?


「ところで、俺を呼んでいた用事って何?」

俺の顔を見上げる彼女。ぱっちりとした目が何かを思い出そうとしていた。


「ああ、そうだわ」

慌てて組んだままの手を離し、持っていた小さな手提げカバンからスマホを取り出した。


「はい、これ。」

…俺のスマホだった。

「あなたこれ、さっきの本屋に忘れてましたよ。」

そう言うと彼女は俺にスマホを渡した。


ーー…あー思いだした。さっき、立ち読みしていて電話がかかってきて…それで話し終えた後。読む事に集中しすぎて、スマホをしまった覚えがない。

ーー彼女はわざわざこれを渡す為に俺を追いかけてたのか。


「ありがとう。お礼に何か奢るよ」

「……新手のナンパですか?それ。」

「いや、」

俺は慌てて否定しようとする


「冗談ですよ、今のはお兄さん完全に巣でしたから。でも、お礼なんていらないですよ本当に。その気持ちだけもらっておきますね。」


彼女は笑顔で俺に返事を返す。表情の変化がとても可愛い。


「でも、珍しいですね。あのコーナーに人がいるなんて、私もたまに立ち寄るけど今まであのコーナーに人がいる事なかったから」

不思議そうなにこちらを見る彼女


「そうなんだ、俺は学校の資料を探してただけだけどね」

彼女の疑問に素直に応えてあげる昌幸。すると彼女、今度は驚いた顔する


「えー、高校の先生なんですか?」


「そうだよ。…あれ、俺高校の教師なんて言ったか?」


ーーこの子は超能力者かなんかか?

俺が怪訝な顔していると


「だって、あのコーナー古典文学しかおいてないじゃないですか」


「だから…?」

俺は巣で彼女に聞き返す。


「だからって…、あの?小、中学校で古典って習いましたか先生?」

彼女の言葉で気づいた…。


「あ、そっか。そうだよな」

普通にボケてしまった。彼女は笑ってる


「面白いですね、先生。何処の高校ですか?」


「嫌、教えない。」


「ケチ、教えてよ先生。教えてくれないと、さっき私にした事言っちゃうから」


「分かった、分かったから。言わないで下さい」

昌幸な仕方なく彼女に教えてあげる…。


「もともと俺は東京都内の高校で12月まで古典教師をしてたんだけど事情があって地元の岐阜に戻って来たんだ。」


「事情?もしかして。女子生徒に抱きついて免職になった?」

「で、またこっちに戻って同じ様な事をしようと」

冗談なのか本気なのか分からない顔で聞いてくる彼女


「違うから、免職にもなってないから。」

「それで、たまたま知り合いの紹介で、突然教師が辞めてしまって一人募集をかけていた私立高校に明日から行く事になったんだよ」


「コネですかー?」


ーー痛いところついてくるなこの子


「まあ、それは別にどうでもいいですけどね。」


ーーどうでもいいならわざわざ聞かないで。一応気にしてるから


「それで、どこの高校ですか?」

悪戯っぽく微笑んで聞き返す彼女。昌幸の話しを聞く前から何かを確信している顔になっている。


「私立桜川学園だよ」


俺が高校名を言うのと同時に彼女のスマホが鳴った。

彼女は慌てて、自分の腕時計を見てスマホを取り出す。


「ごめんなさい。お母さん今すぐそちらに向かいます。……はい、ごめんなさい」


そこには少し前に昌幸に見せていた可愛らしい笑顔はなかった。


ーー多分、相手は母親だと思うけど話し方がぎこちないな


そんな印象を受けた昌幸に対し、彼女は母親からの電話を切るとすぐに


「ごめんなさい。私、母親と映画を観る約束をしてたのでもう行きますね。」

「今日は本当にすいませんでした。迷惑をかけてしまって。」


「いや、俺の方こそ」


「でも、楽しかったですよ先生。では、……また。」

彼女はそう言い最高の笑顔を振りまいて走り去っていった。


立ち去った彼女が見えなくなり自分の車へと向かう。

途中、昌幸は彼女の名前ぐらい聞いておくべきだったと後悔したが、

彼は忘れていた。さっきの彼女が「……また。」と最後につけ加えた事を。


時刻は夕方の6時過ぎ、山おろしの風に飛ばされた雪が夜空を舞い昌幸にも冷たい風が当たっていた。

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