Int.21:Affection profonde.

「エマ」

 暇を持て余した一真が、独りヒュウガのあちこちを散歩していると。上部の空母めいた全通甲板の端で、独り立ち尽くし遠くの空を見つめる、そんな見知った彼女の――――どれだけのときが過ぎようが、決して見紛うことはないと誓える彼女の後ろ姿が。エマ・アジャーニの後ろ姿が見えたものだから、気付けば一真は彼女に声を掛けていた。

「……ん、カズマか」

 そうすれば、彼女はこちらに振り返り。潮風に吹かれる金糸のようなプラチナ・ブロンドの短い髪を片手で抑えながら、にっこりと朗らかな笑顔を向け返してくれる。

「どうしたのさ、こんな所で」

「散歩よ、散歩」エマの傍に並び立ちながら、一真が言う。

「それより、エマの方は?」

 続けて一真が訊けば、エマは「うーん」と、立てた人差し指の先を下唇の下に押し当て、思い悩むように唸る。

「ちょっと、一人っきりで風に当たりたかったんだと思う」

 そして、小さな苦笑いを織り交ぜながらで彼女は言った。分厚く天を覆う曇り空の下、吹き込んでくる潮風に一真の真っ黒な髪と、そして綺麗なプラチナ・ブロンドの色をしたエマの髪とが一緒になって撫でられ、揺れる。

 すぐ隣、互いの体温が伝わりそうな距離で隣り合い、立ち尽くす二人。その背後の全通甲板上では今もヒュウガの整備兵たちが忙しなく行き交い、開始の瞬間が刻一刻と迫る作戦の出撃準備に追われていた。甲板上に係留され駐機するヘリやTAMSの中には、見慣れた慧たちハンター2小隊のAH-1S"コブラ"対戦車ヘリの姿も混じっている。

 忙しなく、騒がしい甲板の上。しかし今にも泣き出しそうな空の色と、吹き込む潮風に乗って聞こえる微かな波音。そして何より、隣り合う彼女の……少しだけ憂いを孕んだような横顔のせいか、一真はこんな喧噪の中に在っても、何故だか穏やかな気持ちに包まれていた。とても、大規模な作戦を前にしているとは思えないほどに。

「…………この間ね、少し瀬那とお話したんだ」

 そうして、二人無言のまま隣り合い、暫くの間立ち尽くした後。ふとした折にそう、エマがポツリと細い声音で呟き始めた。

「瀬那と……?」

 彼女の横顔に向かって一真が訊き返せば、エマは敢えてなのか、彼の方を見ないままで「うん」と浅く頷く。

「まだ、瀬那自身も色々と決めかねてるみたい。……瀬那が何に悩んでいるのかは、敢えて僕の口からは言わないでおくけれど」

「…………」

 エマはそう言うが、瀬那が何に対してああも思い悩んでいるのか。彼女の口を介さずして、既に一真は何となくだが察しが付いていた。

 察しが付くのも、当然というものだ。これだけの長い間、寮の同室で暮らす間柄だというのにも関わらず、瀬那とはあれっきり殆ど言葉を交わした記憶がない。そんな風に露骨な……しかし決して自分を嫌っているワケではなさそうな、何とも云えない態度を取られてしまっていては。幾ら一真が敢えて積極的に触れてやらないようにしていても、どうしても分かってしまうというものだ。

 だからこそ、胸が痛い。だからこそ、どうにもやるせない気持ちが募る。今は心と心の距離があまりに遠く離れてしまったとしても、嘗ては確かに身を焦がすほどに愛していた彼女に……瀬那に対して何もしてやれない、無力な自分自身に苛立って、腹が立って。しかし自分にはどうすることも出来ないが故に、ただただ行き場のない、やるせない気持ちだけが胸中に募っていく。

「もう少し、待ってあげて」

 エマはそんな一真の内心を機敏に悟ったのか、言いながら自分のほっそりとした左手を、だらんとした一真の無骨な右手に絡ませた。長く華奢な真っ白い指が、力ない一真の指先に絡みつき。そんなエマの仕草に、心遣いに気付けば、一真もまた絡みついてきた彼女の指先を握り返していた。強く、強く。己の内にある不安にやるせなさを、堪えるようにして。

「やっぱり、これは瀬那自身が答えを導き出さなきゃいけないことみたいだから。……だから、僕たちの関係を整理するのも、区切りを付けるのも。やり直すのも全部、瀬那が決断した後にしよう」

 諭すような彼女の言葉に、一真は「……そう、だな」と、弱々しい語気で頷いた。頬を撫でる潮風が、そんなことはないはずなのに、何故だか少しだけしょっぱくも感じてしまう。

「……実は、ちょっとハッキリ言い過ぎちゃったかなって。もっと別の言い方を僕は出来たはずなのに、最後にあんな言い方をしちゃって。もしかしたら瀬那を変に傷付けてないかなって、今になって後悔してる部分もあるんだ、少しだけ」

 エマが独り言のように口にした、その言葉の意味を。何処か哀しげな表情で呟いた言葉の意味を、真意を。一真は理解出来なかった。あの場に居なかった彼が、理解出来るはずもなかった。

「……大丈夫だとは、思うけどな」

 それでも、一真はそんな言葉を返していた。彼女の言葉の真意が分からなくても、それでも彼女の浮かべる表情……その裏にある、ほんの少しの後悔だけは感じ取れたから。優しい心根が故に抱いた後悔に、自分もまた何となく共感できる節があったから。故に一真は、エマの抱く後悔を和らげてやるような、そんな言葉を敢えて口にする。

「ああ見えて……って、言い方は失礼だけどさ。瀬那はかなり聡明っていうか……頭の良いだ。芯が強いし、物事の真意を正しく見極められる、そんなだと俺は感じてる。

 だから……瀬那のことだ。君が言ったっていう言葉の意味も、きっと瀬那なら理解わかってくれてるんじゃないか?」

 まあ、君が何を言ったか知らねえから、無責任っちゃ無責任な言い方だけどさ――――。

 最後にわざとらしく、自虐っぽい言葉を付け加えると。するとエマはクスッと笑い、先程までの後悔に苛まれていた哀しい表情を崩し。おかしそうな、楽しそうな。そんな柔らかな微笑みを一真の方に向けてくれた。海よりも深い蒼をしたアイオライトの瞳からはもう、先程までの暗い感情は綺麗さっぱり消えている。

「カズマは本当によく見てたんだね、瀬那のこと」

 微笑み、エマが言うそんな言葉に。一真は彼女から小さく視線を逸らしながら「……まあな」と、微妙にバツの悪そうな顔で言い返す。するとエマはまたクスッと小さく笑って、

「でも……そんな風に、きっと誰よりも瀬那のことを見てた君が言うんだ。信じてみるよ、僕も」

 と、肩の荷が下りたみたいに安らかな表情で言った。

「カズマ、ありがとね。なんていうか、大分楽になったよ」

「別に、礼を言われるようなことは……」

「ううん、した。君にはそうでなくても、僕にはそうなの」

「……そういうモンか?」

「うんっ、そういうものなのっ♪」

 背後の喧噪は遠く、互いの微笑みはあまりにも近い。こんな泣き出しそうな、暗雲の覆う薄暗い空の下でも、しかし彼女の――――エマの微笑みだけは、太陽のように朗らかで。そして何処か暖かく、一種の安らぎすらをも一真に与えてくれている。一真にとってはそれが、何よりも嬉しくて、ありがたくて。それでいて、今の彼にとっての数少ない拠り所でもあった。彼女の向けてくれる微笑みと、アイオライトの双眸の奥から垣間見える、エマの向けてくれる想いは。

 だからこそ、失うわけにはいかないと一真に強く認識させる。瀬那だってそうだが、特にエマの場合はより一層強くそう感じてしまう。嘗ては瀬那にだって抱いていたはずの想いなのに、今は彼女に対するそれを失ってしまっていて。それが何処か物哀しいが……しかし、それでもこの気持ちは変わらない。

 過去の過ちは、繰り返さない。これ以上、失いたくない。そういう自分の……強迫観念にも似た想いが暴走し、そして彼女たちの想いとも重なり合い。結局は今の、互いに互いの優しさに甘えきってしまっているような、こんな曖昧な関係が生まれてしまった。

 でも、それももう終わらせなければならない。いつまでもこんな関係が続かないというのは、他でもない一真自身が強く認識していることだった。今までは分からなかった、しかし橘まどかの死を契機にし、気付かされたことだった。

 ――――……いつかは、誰かを選ばなきゃ。男として一発、ケジメを付けにゃならないんだ。今すぐってワケじゃないけど、それだけは肝に銘じとけ。

 いつだったか、白井にこんなことを言われたような気がする。A-311小隊として前線に駆り出される前の、今となっては遠い遠い、掠れた記憶の奥深くに見えるだけの言葉を。一真は何故だか今になって、それを思い出していた。

 本当に、遠くまで来てしまった。どうして自分は、自分たちはこんな所に居るのだろうと、ふと物哀しくなってくる。戦友を喪い、それでも進み続けなければならないと歩き続け、いつの間にかこんな遠くまでやって来てしまった。

 だからこそ、今だからこそ感じる。あの時の白井が言った言葉の意味を、きっと過去の自分は間違った形で認識していたのではないかと。彼の言葉の意味を曲解し、彼が自分に向けた真意に気付けぬまま、ここまで来てしまったのではないかと。今更になって一真は、そう思う。

「……気付くのが、遅すぎたよな」

 ひとりごちると、それを聞きつけたエマが「ん?」と首を傾げてくる。一真はそれに「何でもないよ、エマ」と微笑みで以て返し、そして更に想いを馳せた。

 ――――色々なことに、決着を付けなければならない。

 何となく、瀬那の考えていることが分かってきたような気がする。その末に彼女がどんな結論を導き出したとして、どんな言葉を告げてきたとしても。一真はそれを受け入れようと、今そう決意した。例えそれが、交わるはずだった二人の道を、再び分かつことになってしまっても、だ。

 それならそれで、結局のところ仕方のないことなのだ。自分は瀬那の心を繋ぎ止められなかった。瀬那もまた、自分の心を繋ぎ止められなかった。互いに互いを繋ぎ止められないまま、交わるはずの道は延々と平行線を描き。そして……分離する。それだけの、ある意味で自然の摂理のようなことなのだ。

 それに、一真は気付いてしまったのだ。自分が今まで、本心では誰を本当の拠り所としていたのかを。心の底から、自分でも気が付かなかった心の底から求めていたのが誰なのかを、今になって気付いてしまったのだ。長い戦いの日々の果てに、二度と味わうまいと思っていた深い哀しみの果てに。一真は漸く、それを導き出していたのだ。

 例え遅すぎることだとしても、気付いてしまった以上はどうしようもない。自分に嘘をつくような真似だけは、もうしたくない。自分にも他人にも、嘘ばかりついてきたからこそ。一真はこれ以上、自分を偽るような真似はしたくないのだ。

 だからこそ、今はエマの言う通り、瀬那が答えを導き出すのを待とうと思った。待った上で、決断を突き付けられた上で。その上で関係を整理し、一からやり直せばいい。幼すぎた自分たちの、浅はかすぎた関係性に。互いに甘えすぎていた、歪な関係性に終止符を打つのは、それからでも遅くはないのだ。

「……カズマ」

「ん?」

「もう、お互い考えすぎるのは止そう。今は君も僕を、目の前の戦いを生き残ること、それだけに集中するんだ」

「……かもな」

「全部を終わらせるのも、生きていなければ終わらせられない。僕もカズマも、それに瀬那も。皆、生きていなきゃ。

 ――――だから、カズマ。今度も生きよう、僕たちで戦い抜いて、生き抜こう」

 微笑みとともに告げられたその言葉は、あまりに重く。しかし、絶対に生き残れると……何の根拠だってないのに、一真もエマもそれを素直に信じ切れた。根拠なんて、ことここに至っては、もうそんなもの必要ないのだ。

「大丈夫だよ、心配しないでカズマ。僕と君なら、必ず生き残れる。僕と君の二人でなら、出来ないことなんてない。きっと……ううん、絶対に」

 彼女の言葉だからこそ。エマ・アジャーニの言葉だからこそ、弥勒寺一真はそれを何の疑いも無く信じられた。多くを語らずとも、今は互いに通じ合うものがあるのだから。言葉なんてモノは、最早無粋ですらあった。

「……ああ、分かってる」

 故に、一真は彼女の手を握り返す。強く、強く。握り返す彼女の手のひらを感じながら、もう二度と放すまいと。もう二度と手の中から零れ落ちさせまいと、彼女の何もかもを繋ぎ止めるかのように。

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