Int.17:蒼の気配、まどろみの中に孤独な影ひとつ

 空軍小松基地、そして陸軍京都士官学校のどちらからも遠く離れた、福井の国道305号線。すぐ傍に日本海の荒波を望みながら、夜明け前のまどろむ空と空気をマーシャル製のヘッドライトで切り裂いて、古めかしいキャブレター・サウンドを響かせながら走る一台の蒼いクーペの姿があった。

 トヨタ・セリカ1600GTリフトバック。1973年式の、宇宙そらから異形の化け物たちが降りてくる寸前に産み落とされた、そんな古式めいた名機の名だった。

 長く長く伸びたノーズから、当時のフォード・マスタングを意識した、何処かマッスルカー・ライクな、テールへと緩やかに流れ落ちる後部のリフトバック・ハッチまでを描く流線型のボディ・ラインは流麗の一言で。ボンネットの下で今も唸り続けるヤマハ製の名機・2T-Gエンジンの奏でるサウンドも、その美しい外見に見合う甘美で、上品ながらも何処か獰猛さを隠しきれないものだった。

 ツインカムのエンジンが唸り、ソレックス・ツインキャブレターの独特な音色が自然と胸を躍らせてくる。美しい外見をキープする程度に下げられた車高と、打ち付けられたオーヴァー・フェンダーの下で跳ねる肉厚のタイヤ。その全てに調和が取れている1600GTはとても年代物のオールド・カーには見えず、まるで'70年代からタイムスリップしてきたような錯覚すら、見る者全てに植え付けてしまうほどだった。

「夜明け前の海岸線、何度来ても飽きないものですね」

 そんな、異様なまでの高コンディションを保つ1600GTのコクピット・シートに身体を預け、ヴィンテージじみたマシーンを手足のように自在に操るのは、意外にも若々しい青年だった。

 ボディカラーと同じような深い蒼をしている、首の付け根より長いぐらいの襟足の髪。それを開いた窓から吹き込む潮風に靡かせ、風の向くまま気の向くまま、マシーンのノーズが赴くままに1600GTを走らせながら。その青年は、掛けたフレームレスの眼鏡越しに、マーシャルのヘッドライトで照らす夜明け前の路面を、何処か遠い眼で見渡していた。

 青年が持っていたであろう実の名は、きっと知る者はもう少なくなってしまっただろう。時折、彼自身でさえ忘れかけてしまうことが多々ある。それほどまでに長い間、彼は己が実の名を誰かに呼ばれる機会というものに巡り逢っていなかった。

 しかし、青年には別の名があった。とある筋から呼ばれている、マスター・エイジという名が。今では寧ろ、そちらの名の方が本名の方に思えてきてしまうほどだった。

「久方振りに、我を忘れて小さな旅に出ましたが……。いやはや、こういうのも存外悪くないものです」

 独り言を呟きながら、マスター・エイジは小さくはにかみ。そうしながら、ゆっくりとした速度で海沿いの国道に1600GTを走らせる。どうせ、前にも後ろにも他車の姿なんてこれっぽっちもありはしない。夜明け前のこの時間、夜闇と朝焼けの境界線が曖昧になり、溶け合うまどろみの下。こうして独り海岸線を流していれば、自然と彼の心も安らかになってくる。まるで、この世界に居るのは自分一人だけみたいな、そんな錯覚さえをも覚えさせて。

 だからか、マスター・エイジの浮かべる笑顔は、普段の何処か薄ら笑いじみたというか、不気味にも見える計算高い笑顔ではなく。心の底から今という僅かなひとときを楽しんでいるかのような、そんな純粋な笑みだった。

 カーステレオから流れる、古ぼけたフォーク・ソングを背景に、響くのは胸を揺さぶるようなソレックス・ツインキャブの甘美な音色。それは電子制御全盛で、電制インジェクション燃料噴射や、ワイヤーを介さないCAN通信の無線式アクセル・ペダルが当たり前の今の時代に於いては、何処か不適でもあるような音色だ。

 だが、それがいいとマスター・エイジは感じていた。機械と人間、究極の対話の形がここにあるとも考えていた。単純ながらも考えに考え抜かれた機械部品の集合体であるマシーンと、人間との対話。こちら側から歩み寄り、またマシーンの側からも歩み寄る。高度なコンピュータ制御を間に介してでは、決して得られない、辿り着けない領域。それが今、自分の手の中に収まっていると思えば、マスター・エイジは湧き上がってくる純粋な笑みを零さずにはいられない。

 結局、彼もまた偏屈者の一人なのだ。マスター・エイジもまたそれを自覚しているし、だからどうしたと思うところもある。これは楽園エデン派も彼らの思想とも関係ない、単なる個人的な趣味の一つなのだから。個人の趣味に、外野がどうこう文句を付ける筋合いはないのだ。

「……とはいえ、少しばかり疲れても来ました」

 当然だった。旧式のマニュアル式トランスミッションを操る身体の方は、普段はオートマチックどころか、大抵が他人ヒトの後部座席に乗っているようなものなのだ。幾ら鍛えているといっても、普段やり慣れないことを長時間やっていては、疲れの一つや二つ出てきてもおかしくはない。

「この辺りで、少し休憩でも入れておきましょうか」

 そんな独り言を呟くと、マスター・エイジはハザード・ランプを炊き。国道の路肩に1600GTを止めた。

 丁度、歩道の向こう側に日本海が望めるような良いポジションだ。ギアをニュートラルに戻し、サイドブレーキを引き。敢えてエンジンは切らずに車の外へ降りれば、マスター・エイジは小さく伸びをした。座りっぱなしで凝った身体が、ポキポキと小さな音を立てる。

 吹き付ける潮風の中、アイドリング状態で響くアンティークなソレックス・サウンドを聴きながら。マスター・エイジは蒼い車体のフェンダー辺りに小さく腰掛け、遠くの日本海を眺めてみたりなんかしてみる。

 小休止と言わんばかりに路肩へと佇む、そんな1600GTの蒼いボディは。吹き付ける潮風に揺れる彼の髪色と同じように深い蒼をしていて、明らかに当時のトヨタ純正には無い色だった。後から彼の趣味で全塗装をし直したのが一目で分かるほど目立つ色のマシーンは、しかし今は夜明け前のまどろみの中へと、己に寄りかかるあるじたる彼、マスター・エイジとともに紛れていた。

「ふぅ……」

 煙草なんか吹かしながら、マスター・エイジは暫くの間、休憩がてらにすぐ傍の日本海を眺めていた。藍色をしたロングコートの裾が揺れれば、彼の口元から漂う副流煙が、夜明け前の潮風に吹かれ。マールボロ・ライトの香りが掻き消え、紛れ霧散していく。折ったロングコートの袖口から覗く白い素肌に当たる風は、少しだけ肌寒かった。

「……おや?」

 そうして愛車に寄りかかり、煙草を吹かしながらぼうっと遠くの水平線を眺めていれば。しかしマスター・エイジは懐で震える何かの存在に気付き、それをポケットから引っ張り出した。

 出てきたのはスライド式の、携帯電話という奴だった。文字通り携帯できる電話で、民間向けにはここ最近になってやっと普及が始まるかどうかという、そんな先進的な代物だ。技術的にはもっと前、今から二十年かそこら前に爆発的に普及していてもおかしくない代物ではあるのだが、しかし戦争の長期化の影響か、まだまだ携帯電話の普及は進んでいなかった。

 マスター・エイジはその、今の世ではとてつもなく貴重ともいえる携帯電話を、仕事用として持ち歩いていた。勿論、楽園エデン派の一人、"マスター"の高位を与えられた者としての仕事用だ。

 バックライトもない液晶画面は見づらいが、何とか相手が判別出来た。やはりそれが仕事関係――楽園エデン派の組織からの連絡だと知ると、マスター・エイジはその着信に応じる。

「――――私だ、どうかしましたか?」

 左耳に当てた携帯電話のスピーカーから、幾らかの端的な報告が聞こえてくる。勿論、相手は陸軍の倉本少将ではなかった。そもそも、倉本はこの携帯の電話番号を知らないのだから、最初から掛かってくるワケもないのだが。

「……そうですか、A-311と202特機が、デストロイヤー相手の陽動・殲滅作戦に駆り出されると」

 マスター・エイジが告げられたのは、数日後に迫る淡路島奪還作戦に際し、A-311小隊と≪ライトニング・ブレイズ≫が参加する例の任務――対・デストロイヤー種相手の、無茶とも思える陽動・殲滅作戦の概要だった。

「ええ、承知しました。では、私の馬の方の準備も、スクライブたちには達しておいてください。

 ……意外ですか? 私もそう思いますよ」

 驚く電話口の相手に、マスター・エイジは煙草を咥える口で小さく苦笑いをしながら応じる。それから「ですが」と続けて、

「今ここで、綾崎の巫女――瀬那に死なれるのは困るのです。このタイミングで死なれてしまっては、折角私が練りに練った計画もご破算になってしまう。それだけは、避けねばならないのです。

 ……ええ、ですから私が。百パーセントには出来ませんが、百に限りなく近づけることは出来ますから。他人に任せるぐらいなら、自分で全部やってしまった方が早い。そう考えてしまう性質タチなのですよ、私は」

 ニヤリと笑うと、その後を更に数言、事務的な口調で言葉を交わし。最後に「では、その件はよしなに」と告げると、そこで会話は途切れ。マスター・エイジは携帯電話を左耳から話せば、通話終了ボタンを押したソイツを再び懐に収め直した。

「さてさて、予想通りといえば予想通り。しかし、少しばかり厄介な事態にもなってきましたね……」

 そして、再び遠くの日本海を眺めながら。随分と短くなったマールボロ・ライトの煙草を咥えた口で紫煙を燻らせつつ、マスター・エイジは虚空に向かってひとりごちる。

「……ですが、まあ私が出れば問題はないでしょう。他はどうあれ、瀬那が死ぬ確率は極限まで下げられる。それに……」

 ――――あの少佐が。伝説の白い死神が、この状況下でむざむざ指を咥えて見ているだけとは、とても思えない。

 彼女と繋がりが深い技研から何かしらを引っ張ってくるか、それとも追加の戦力でも調達するか。或いは、彼女自身が再び戦場に舞い戻る可能性だって無きしも非ずだ。特に最後の可能性に関しては、マスター・エイジ自身が直接見てみたいという欲望もある。伝説に名高い白い死神、その戦いぶりを再び間近で見られるのならば、これほど嬉しいことはないだろう。

「何にせよ、賽は投げられました。後は投げられたダイスが何処まで転がるか、どのような目を出してくるか。

 ……博打は趣味ではありませんが、しかしことこの局面に至った以上、やはり最後はどうしても、博打になってしまいますね」

 独り言を呟いた後、マスター・エイジはフッと微かに不敵な笑みを浮かべ。完全に短くなったマールボロ・ライトの吸い殻を足元に落とすと、靴底で火種を揉み消した。

「どちらにしろ、私がやるべきことは決まっています。私は私の役目を、為すべきことを為すだけですから」

 そして、また車の右側に回り込み。思えばそこそこ長いこと羽を休めていたセリカ1600GTのコクピット・シートへと、マスター・エイジは再びその身を滑り込ませた。

 バタン、と扉が閉じられる。ほんの少しだけアクセルを煽り、空吹かしをすれば。ボンネットの下で唸るツインカムのヤマハ2T-Gエンジンは、まだまだやれると言わんばかりに闘志の溢れた唸り声を上げた。

「……では、帰るとしましょう。出来ればもう少し、アテの無い独り旅と洒落込みたかったのですが」

 ほんの少しの後ろ髪引かれる思いを残しつつ、走り出した1600GTは派手にサイドブレーキ・ターンをカマす。滑る後輪タイヤが煙を上げ、甲高いスキール音を上げれば1600GTのノーズは一八〇度回転し。進むべき方向を元来た方角へと反転させれば、今度は弾丸のような物凄い勢いで走り出した。

「瀬那、今更になって君を死なせるようなことはしません。私の計画を、ご破算にしない為にも」

 冷えたアスファルトの路面をタイヤが切り裂き、マーシャルのヘッドライトから照らされる光が朝もやを突き抜けて。凄まじい加速度と、それに似合う強烈なソレックス・サウンドを響かせながら、深蒼の1600GTは海岸線を猛スピードで走り抜けていく。

「――――それでは、A-311の諸君。近い内に、再び相まみえるとしましょう」

 突き抜けた後に残るのは、真っ赤なテールライトの紅い光跡と、仄かに漂う排気の匂い。そして、加速度的に遠ざかっていく、ソレックス・ツインキャブレターの甘美な音色だけだった………。

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