Int.17:Astraea;
「ふぅ……」
窓際にある机の上に腰を落とし、エマが深く息をつく。そんな彼女を遠目に見ながら後ろ手に教室の戸を閉めた一真は、勝手知ったる教室の中を戸惑いながら歩く。
そうすればエマが「おいでよ、カズマも」と手招きするものだから、一真はそんな彼女が座る机の傍、不作法にも引かれっぱなしだった椅子へ横向きになってドカッと腰を落とした。
「で、ここが君の来たかった所――――なのか?」
壁から突き出る柱に背中を預けながら、脚を組み椅子の背もたれに右腕を掛けながら、すぐ傍の少し高い位置に座るエマの方を見上げて一真が言う。するとエマはクスッと笑い、「まあね」と、一真の方を見下ろしながら言った。
「さっきも言ったけれど、夜のここが好きでさ。最近はたまにこうして、暇を見ては散歩してるんだ」
ま、教官たちに見つかったら、何を言われるか分かんないんだけれどね――――。
また小さく笑いながら、エマはわざとらしく手振りを交えさせながら続けてそう呟いた。
「言えてる」
それに一真も、同じように肩を竦めながら言葉を返してやる。そうすればエマもまた笑みを浮かべ、
「でも、今日は見つかっても、いいかなって思えてるんだ」
なんてことを口走るもんだから、一真は「えっ?」と思わず訊き返してしまう。
「だって、今日は僕一人じゃないし。カズマも一緒なら、良いかなって」
するとエマは、小さく微笑みながら一真の顔を机の上から見下ろし、彼の問いにそう答えてみせた。
「おいおい……」
呆れた風な顔を浮かべる一真。「勘弁してくれ。見つかるなんて、御免なんだけどな」
「ふふっ、別にわざと見つかろうってワケじゃないさ。ただ――――」
「……? ただ、なんだ?」
何故か軽く言い淀んだエマに一真が言えば、彼女は無言のままに軽く頷いて、
「――――ただ、カズマが一緒に居てくれるなら、それも悪くないかなって。ただ、それだけのことだよ」
と、視線を俯かせながらそう言った。
「……あはは、何言ってんだろうね僕。暑さで頭、やられちゃったかな?」
そうすれば、途端にエマは視線を泳がせながら何故か笑い始め、明後日の方向に顔を逸らしてしまう。
「ヘッ……」
なんて具合のエマの反応に、一真は小さく頬を緩ませた。
「にしても、ホントに熱いね、今日は……」
エマはそんなことを口走れば、その羽織っていたデニム地の半袖シャツを何気なく、唐突に。さも当然のような仕草でそれを脱ぎ始めてしまう。余程
「っと……」
ともすれば、一真は反射的に軽く視線を逸らしてしまう。何せ半袖のシャツを脱いだ今のエマは、上は肩の部分がぽっかりと開いた、それこそ肩紐だけで吊しているような薄手のオフショルダー・キャミソール一枚だけ。しかも妙に主張の激しい胸元のせいで、一真に対しては些か刺激的すぎる格好といったぐらいなのだ。
故に、一真は半分無意識の内に視線を逸らしてしまっていた。本心から言えば全力で拝みに行きたいのが正直なところだが、しかしまあ、そういうワケにもいかないのが辛いところだ。
「あー、涼しい……」
「…………」
ぱたぱたと手で仰ぎながら、しみじみとエマがひとりごちる。そんな彼女の方をチラリと横目で見れば、やはりというべきか広がる景色は眼福そのもの。窓から差し込む、僅かな月明かりと士官学校の街灯の明かりが混ざる柔い色のせいで、この薄暗い中でエマの輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。
だからか、一真の眼には余計に今のエマの格好が扇情的に映ってしまう。お互い……かどうかは知らないが、とにかく一真の方には言うほどその気は無いのに、視界に入れているだけでその気にさせられてしまいそうな、そんな錯覚を覚えそうになるぐらいだ。
「ねぇ、カズマ」
「なっ、なんだ!?」
とまあそんな
するとエマはまたクスッと笑い、「変なカズマ」なんておかしそうに呟いてから、
「――――窓、開けてもいいかな?」
と、そんなことを訊いてきた。
「窓? ……まあ、良いんじゃないか? 好きにしたって」
そんなエマに、一真が戸惑いながらも即答する。するとエマは「じゃあ、遠慮なく」と言い、机の上に座ったままで、少し身体を
「よっと――――」
そうして窓の鍵に手を伸ばしたエマが、施錠を解いたその途端。ガタッとバランスを崩したエマがそのまま前のめりに倒れそうになった。
「っと!」
それを一真は、とっさに左腕を伸ばすことで何とか支えてやる。ゴンッと一真の左肘が音を立てて机と激突すると、倒れかけていたエマの上半身がそこで静止した。
「ギリギリセーフ、か……。エマ、怪我は?」
「あ、うん。僕は大丈夫」
一真の左腕に支えられた格好のまま、「あはは」と苦笑いしながらエマがそう返す。
「なら、良かった……。気を付けてくれよ? エマに怪我でもされちゃ、たまったもんじゃない」
「そうだね、気を付けるよ。――――あの、カズマ?」
「ん?」
「その……そろそろ腕、離してくれるかな? もう自分で起きれるから、さ。その……当たってるし…………」
――――あ。
なんでかエマが頬を赤く染めているのが不思議で仕方なかった一真がそれに気付くのは、随分と遅すぎた。
今まではエマが落ちないようにと必死だったから、気付かなかったが――――彼女の上半身を抱え込むようにして支える自分の腕は、いや正確に言えば前腕の裏側か。とにかくそこがジャストフィットというぐらいに触れているのは、丁度エマの胸辺りで。だからか妙に柔らかいような気はしていたが――――。
「わ、悪い。咄嗟で、つい……な」
エマの身体を起こしながらスッと腕を放せば、どうにも居づらい一真は顔をそっぽに向けながら、何処かバツが悪そうにそう呟きかける。するとエマも「う、ううん」と明後日の方向へ視線を流しながら言い、
「別に、気にしてないからさ……。他でもない、カズマだし」
と、囁くような声色でそう呟いた。
「あ、窓開けるね?」
「いいよ、危ないし俺が開ける」
エマを制しながら、一真はスッと手を伸ばしてすぐ傍の窓をガラッと引いた。
「うおっ」
とすれば、一気に吹き込んでくるのは夏の夜風。昼間よりも断然涼しく、しかし何処かに蒸されるような熱気の残滓を孕む夜風が一気に吹き込んでくると、驚いた一真は視線を逸らしながら思わずそんな声を上げる。
そして、戻した視線に映ったのは――――。
「ふふっ…………」
机に腰掛け、風に揺られる髪を片手で撫でるエマの、少しばかり楽しげな横顔だった。
「――――ヘッ」
そんなエマの横顔が、本当に楽しそうで。だからか一真も、思わず頬を緩めてしまう。こんな彼女を見られただけで、ここに来た甲斐があったというものだ。
「僕、夜風って好きなんだ」
ともすれば、窓の外へ視線を投げたままで。一真に横顔を見せたままで、彼の方を見ないままでエマがそんなことを口走り始める。
「子供の頃、パリに住んでた時からずっと、夜の風が好きだった」
「……だから、今日もこうしてここに?」
「うん」小さく、大切な何かを思い返すように瞼を閉じながら、エマは深く頷く。
「こうしていると、あの頃を思い出せてね。だから、今でも夜風は好きなんだ。楽しかったあの頃を、思い出せるみたいで……」
少し、僕の昔話に付き合ってくれるかな――――?
エマにそう言われた一真は、「ああ」と頷いた。
――――あれは、まだ僕が歳も二桁。……いや、記憶違いだ。まだ一桁、本当に小さかった頃だったかな?
僕の家系は、優秀な軍人を沢山出してきた、まあ由緒ある……といったら変だけど、とにかく軍人の家系なんだ。僕のお爺ちゃんはフランス軍の将官で、父さんは優秀なTAMS乗りだったって聞いてる。所謂エース・パイロットって奴だね。
子供の頃、パリで過ごしていた頃は、本当に幸せな毎日だった。欧州全体が長い戦争の中にあるなんて、嘘みたいに平和な日々だったな。花の都なんてよく言われるけれど、正にその通り。毎日が華やかで、賑やかで、楽しくて。戦争なんて、遠い遠い、それこそ地球の裏側の話だと、その頃の僕らは思ってた。テレビの向こうの、新聞記事の向こう側の、遠い国の話だって。
「…………でも、それは幻だったんだ。泡沫の、本当に儚い幻想」
――――2004年の夏、7月14日。この日を僕は、今でも忘れちゃいない。
活性化した幻魔たちの大軍勢が欧州に侵攻してきた、2004年・夏期の大攻勢。北アフリカのG03幻基巣から湧き出てきた大量の幻魔がモロッコに集結し、ジブラルタル海峡の防衛線を越えてスペインに乗り込んできた。
勿論、欧州連合軍は必死に戦った。でも幻魔の勢いが想像を遙かに超えていて、スペインは簡単に蹂躙されちゃったんだ。
「その後は……分かるよね?」
――――そう、フランス本土決戦さ。
母なる祖国の大地を踏み荒らされ、それでも必死に戦った。でも、戦っても幻魔の勢いは止まらなかった。
結局、欧州連合軍は敗走に敗走を重ね、首都のパリまでもが戦火に焼かれる羽目になっちゃったんだ。僕の
「今でも、こうして瞼を閉じれば思い出すんだ」
「そんなのが、まるで昨日のことみたいに思い出せちゃうんだよ」
結局、その戦いで欧州連合軍はパリを護り切ることは出来たらしいんだ。といっても、英軍やアメリカ海軍の大西洋艦隊が救援に駆けつけてくれたお陰で、本当にギリギリの所でなんとかなった、っていったぐらいだけどね。アレだけの惨状なら、正直、あんなのは負けも同然さ。
「僕の
戦いが終わり、夜が明けると雨が降ってきたんだ。泣き出しそうに暗い雲に覆われた空から、ざあっと雨が降ってきて。まるで死んでいった人たちの代わりみたいに、悲しい雨が延々と降り続いてた。
「その時――――僕は決心したんだ。軍人になって、パイロットになるって。死んだ父さんの分も、僕が戦わなきゃ、誰かを護らなきゃ……って」
まあ、どのみちそういう家系だったから、その前から決めてはいたんだけれどね――――。
そうやって、僕はパイロットになったんだ。あの日のことを思えば、厳しい速成訓練も耐えることが出来た。欧州連合はこっちより切迫した状況だから、カズマたちみたいに良い環境で訓練は出来ないんだ。
――――っと、話が逸れたね。とにかく、僕はそうしてTAMSのパイロットになった。同期の仲間や先輩たちを沢山失って、けれど僕はまだこうして生きている。
「僕が生きているのは――――意味があって、生かされてるんだと。僕は今でも、そう思ってるよ」
だから、僕は戦うんだ。いつか死ぬって分かっていても、それは構わない。そんなことは、最初から分かってることだから。
それよりも、嫌なんだ。あの日の僕のような思いをする人間が、これ以上増えるのは。僕たちの次の世代にまで、あんな思いをさせるのは――――どうしたって僕は、嫌なんだ。
「――――っと、話が長くなりすぎたね」
エマが語り始めた、そんな昔話。それを一真は彼女の横で、黙ったまま耳を傾けていた。
「カズマ、ごめんね? 変な話に付き合わせちゃって」
「いや……」
短くそう言い返し、一真は瞼を閉じる。そして数秒の間を沈黙してから瞼を今一度開くと、
「…………なんで、その話を俺に?」
と、エマの方に横目を流しながらそう、問いかけた。
「うーん……」
それに、エマは唇に手を当てて少しの間思い悩む。
「――――強いて言うなら、カズマだからかな」
「俺、だから?」
うん、とエマが頷く。
「カズマには、知っていて欲しかったのかもね。僕も、なんでまた突然こんな話をし始めちゃったのか、分かんないけれど……。
でも、カズマにはいずれ話すつもりだったから、結果オーライかな?」
そう言って、一真の方に振り向いたエマは笑う。こんな話をした後だというのに、彼女は微笑んで。夜風に吹かれるプラチナ・ブロンドの前髪の下に微笑みを浮かべながら、しかしそのアイオライトめいた蒼い瞳には、何処か潤んだ色が垣間見えていた。
「ありがとね、カズマ。こんな話に、付き合ってくれて」
そう言いながら、エマはひょいと机の上から飛び降りた。軽い足取りで着地すると、くるんと回って一真の方を向く。
「――――エマは」
すると、黙っていた一真はその重い口を開き、
「エマは、もう実戦を……?」
と、胸の奥でくすぶっていたその疑問を、思い切って彼女に投げ掛けてみた。
「…………うん」
すると、エマは少し黙ってから低く頷いた。
「もう、何十回と。数え切れない程の敵を殺して、そして――――数え切れない程、仲間を失ってしまった」
「そうか…………」
一真が重く瞼を閉じれば、エマは「ねぇ、カズマ?」と逆に問いかけてくるような口調で呼びかけてくる。
「君はさ、僕みたいな過去の重い女の子は、嫌いかな?」
「――――いいや」
首を横に振る一真。するとエマはクスッと小さく笑い、
「僕はさ、やっぱり諦めきれないよ、君を。やっぱり僕って女は、君みたいな男が好きで好きで、どうしようもないみたいだ」
「…………」
それに、一真は答えない。いや――――答えられない。
すると、そんなことは初めから分かっていたようにエマはまた小さく笑い、一歩だけ一真の方に近寄ってくる。
「でも、今の君は答えられないんだろうね。――――分かってる。でも、それでいいんだ」
「……えっ?」
意外すぎる言葉に一真が視線を上げると、いつの間にかエマは座る一真のすぐ傍まで近づいていて。
「だから、今は僕の気持ちに応えなくていい。でも、ひとつだけお願いしても、いいかな?」
「…………今の俺に、出来ることなら」
そう一真が承諾すると、エマは「うん」と小さく頷き、
「っ…………」
――――そんな一真の胸に、飛び込んで来た。
「え、エマ……?」
混乱する一真が自分の胸元を見下ろすと、しかしそこに顔を埋めたままのエマは「……待って」と、潤んだ声色で呟く。
「ひとつだけ、僕からのお願い。――――今だけ。今だけは、こうしていさせて、くれないかな…………?」
顔を埋められたままでも、その声色は何処か潤み。そして服越しに伝わる、小さな湿り気の気配を感じ取れば、一真が取るべき行動は、言うべき一言はただひとつ。
「――――ああ」
そう、頷いてやることだけだ。
「ごめんね、カズマ……。少しだけ、だからさ……」
「…………気にするな」
己が胸に顔を埋めるエマの頭に、片手を乗せながら。明後日の方向を、開いた窓の外を眺めながら、一真はもう一度、小さく頷いた。
左手に絡まる、プラチナ・ブロンドの細い髪。柔らかく、細すぎるその髪の感触は、まるで彼女の内面を暗に物語っているかのようで。触れるその髪の感触が弱々しく、今にも折れてしまいそうなものだから、一真はそれ以上の余計な言葉を紡ぎ出すことはしなかった。
「――――"恋は先手必勝、一撃必殺"、か…………」
確かに、その通りなのかもな――――。
嘗て、彼女が言ったその言葉を思い返しながら、一真がひとりごちる。
しかし、その想いに応えることは、今の彼には出来ぬことだった。一真はそれ以上に、背負いすぎていた。彼女の、エマ・アジャーニの想いまで、背負いきれないほどに…………。
遠い夜空の彼方に、星空に彩られながら半月が浮かんでいた。淡い月明かりだけが傍観する中、二人がいつまでそうしていたのか――――。それは、この二人しか知らぬ、知り得ぬことでしかなかった。
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