第15話 忍耐の因果
野秋邸は、大きく分けて三つの建物から成っている。
母屋とも呼ばれる本邸が、大正に建てられた洋館だ。家政婦たちが毎日床を磨いているにもかかわらず、基本的には土足で過ごしていた。
離れとも呼ばれる別邸は、昭和に入ってから増築された部分で、赤い絨毯が敷かれており、中の部屋は和室になっている。本邸と別邸は一本の廊下で繋がっていて、雨露をしのいで往来することができた。
最後の一棟が、この蔵だ。
もっとも小さく人の出入りもない建物だが、もっとも古く、遡れば江戸時代に野秋家がこの地で屋敷を構えた頃まで辿れると聞いた。何度も大地震に晒されてきたのに、骨組みはあえて揺れては崩れず内蔵物を守っているらしい。漆喰は剥げるたびに塗り込められ、今日も白く厳かに建っていた。
祐は、蔵を開け、息を吐いた。その暗さと狭さが祐にいつかの納戸を想起させた。
しかし、頭上高くに設けられた天窓から光が細く差し入っている。祐が風を入れたために舞い上がった塵や埃を差し入る光が照らし出す。砕いた氷が空中に散って輝いているかのようだった。加えて、空調などないのに涼しく、湿度もさほど気にならない。
祐は知っていた。
ここに鉈がある。
かつて野秋家がこの辺りで領主として君臨していた頃には、専属の庭師がこういった道具で館の周辺を手入れしていたらしい。戦後公的には権力を失った野秋家では、時折専門の造園業者に整備を依頼するだけで、実際にこれらの道具を使って作業をする人間はいなくなってしまった。
壁を見る。鉈だけでなく、斧や鋤、鍬なども並べられ、吊るされている。これだけで畑を開墾できそうだった。
それもいい、と祐は思った。屋敷で退屈してきたら、生い茂る、を通り越して荒れてしまっている近くの山林を切り開いて、農業に手を出すのもいいかもしれない。ものをつくる、ということは良いことだ。自分の手で何かを生み出す――そういった労働を、祐は愛していた。
神の恵みを感じられることだろう。
神の息吹はどこにいても感じられることだろう。
ずっと勘違いしていた。祈る場所などどこでもいい。必要なのは祈る心であって、場所や道具はただの指標に過ぎない。
鉈とともに、古い縄を手に取った。
光の降り注ぐあの場所に、自分で十字架を立てるのだ。朽ちて落ちた太い枝を上手く切って組み合わせ、自分だけの祈りの場を作るのだ。
部屋に戻って回収してきた、今は胸の上で揺れる十字架のペンダントを思う。
本当は、これだけでもいいのだ。否、もしかしたら、これさえも必要ないのかもしれない。必要なのは心に十字架を思い浮かべられること、ただそれだけかもしれない。
けれど、一人ただ無心に祈れる場所は欲しい。部屋にいればいつ何時誰が邪魔をしに訪れるか分からないという環境に変わりはない。あの山の中であれば誰にも見つからないだろう。自分にとっては、少し走り込みに行けばいつでも行けるところだ。
蔵は薄暗かった。
長居をする場所ではない――そう思い、踵を返した。
次の時、名前を呼ばれて硬直した。
「祐」
そこに、車の鍵を握り締めている聡一が立っていた。
慌てて鉈を蔵の壁に立てかけた。縄を放り出す。
聡一が顔をしかめた。
「何をする気だ」
答えていいものか悩んだ。
机の上に十字架を置いていったのは間違いなく聡一だ。けれど、信仰を許したのかまでは分からない。単に祐の私物の存在を認めてくれただけかもしれない。聡一からすれば、自分が司祭を目指して所帯を持たずにいることは期待外れの大損だろう。
「危ないだろう」
「別に、危ないことをするつもりじゃ……」
聡一からしたら、危ないことかもしれない。自分が祈る場所を確保しようとすることは、聡一にとっては、危険なことなのかもしれない。常に目の届く範囲で飼っていたいのかもしれない。
「ちょっとぐらい……、一人になれる場所、を、作っても、いい……だろ……?」
こわごわと尋ねる。自分が上目遣いで誰かを見る日が来るとは思ってもみなかった。薫が見たら気持ちが悪いと大騒ぎをすることだろう。
聡一はしばらく、祐の顔を眺めていた。祐は聡一の言葉を待ち、大人しく背中で両手を組んでいた。捕虜になった気分だ。
ややして、聡一が溜息をついた。
「佳也子の方を、部屋から出さないことにする」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。なぜこの場で佳也子の名前が出てくるのか、祐には分からなかったのだ。
「かやこ?」
「佳也子と何があったんだ」
肋骨の間から心臓が飛び出るかと思った。
聡一は、今、病院からの帰りなのだ。佳也子の容態を見て帰宅したところなのだ。
自分がしたことを思い出す。
本来ならけして赦されることではない。佳也子がその気になれば婦女暴行未遂で訴えられても仕方のないことだ。鈴木という証人もいる。それを佳也子の父親である聡一を前にして言うのか。
祐が逡巡しているうちに、聡一が「いい」と言った。その言葉がどこの何にかかっているのか分からず、祐は顔を上げ、呆けた顔で聡一を見上げた。
「お前を責めているわけではない」
知っている。聡一はすべて気づいているのだ。
当然だろう、佳也子のブラウスは裂けて二度と着られない状態になっていた。聡一もそれを見ているに違いない。
だが、
「佳也子がお前を怒らせるようなことをしたのだろう」
祐は、絶句した。
「我慢強いお前が、耐え切れなくなるような。何か、また、佳也子がしでかした。そうだろう」
確かに、酷いことを言われたような気はしている。しかし、何かをされたのか、と言われると、何かが違う気もする。水をかけられたわけでもない。本を捨てられたわけでもない。佳也子は、今回、何かしただろうか。
聡一は眉間の皺を深くしていた。
「いい加減佳也子の捻じ曲がったところの方をどうにかしなければならない。お前が犠牲になる一方だ。お前がこの屋敷でこれ以上不愉快な思いをするのだったら、佳也子の方を部屋から出さないようにする」
「ブラウスの件」と言われて、また大きく脈打ったのを覚えたが、
「鈴木も、他の二人も。何も言わなかった」
誰もが、自分の味方なのだ。
「皆、お前を庇っているのだろう。だが、それでいい。お前はもう充分耐えた、それを皆が評価しているということだ」
裏返せば、
「だから、安心していい」
佳也子の味方は、
「因果応報だ」
誰一人としていない、ということだ。
この屋敷から出られない佳也子に、この屋敷の中に味方がいないということは、もはや、世界中の誰もが、佳也子の味方をしていない、ということと、同義だ。
佳也子は今頃どうしているのだろう、と思った。またベッドから動けずにいるのだろうか。
佳也子は弱くて脆くて儚い。
そんな佳也子を、誰も庇わない。
「……自分の娘だろ」
祐は両目を見開いたまま、聡一に訴えかけた。
「なんで佳也子の味方をしないんだよ。あんたぐらいは佳也子の味方をしろよ。俺のことを怒れよ、なんで俺の味方みたいな顔をしてるんだよ」
「お前の味方だ」
聡一は即答した。
聡一が、一歩、歩み寄ってきた。祐は思わず一歩後退した。背中に蔵の戸が触れた。
「はっきり言おう」
聡一は冗談を言う男ではない。今も、冗談を言っている目つきではない。
「私も佳也子よりお前の方が大事だ。お前がこの家を住みにくいと感じているのならば佳也子を排除してでもお前のために環境を整えてやる」
「佳也子はつなぎに過ぎない」と、聡一が断言する。
「お前は形だけ佳也子と籍を入れて私の遺産を堂々と相続できる立場になるだけでいい。佳也子はどうせ長生きしない。佳也子がいなくなればお前はこの屋敷をどうにでもできる。後は法律がお前を守るようになる」
血の気が引いていくのを感じた。
「ゆくゆくは、お前が、野秋家のすべてを手に入れる。私が望んでいるのは、それだけだ」
誰一人として、佳也子の味方をしない。
佳也子は誰にも愛されていない。
佳也子はこの屋敷で果てしない孤独の中にいる。
存在しない両親を思って泣いた幼い頃の夜を思い出した。
佳也子には、あの時の自分と同じ孤独が課せられている。否、今ここに血縁がいるにもかかわらず同じ孤独が広がっているということは、よりいっそう苛酷かもしれない。
「……俺が……」
この暗い館の中に閉じ込められ、孤独を吸い上げて育った化け物は、
「俺が、佳也子の味方になる」
孤独を吸い出してやることで、人間に戻れるかもしれない。
「俺が佳也子の味方をする。みんなが佳也子のことをそんな風に言うんなら、俺が佳也子の肩を持つ」
神の前では皆兄弟だ。きっと愛せる。自分は佳也子が弱い生き物であることを知った。今なら守ろうと思える。
佳也子を独りにはしない。
聡一が、深く、息を吐いた。
「祐」
そして、腕を伸ばしてきた。
逃げられなかった。
強い力で抱き締められ、呼吸すらままならなくなった。
「お前がひとりでつらい思いをすることはないんだぞ」
耳元で低い声が囁く。その声には深い悲哀が滲んでいるように聞こえる。
後頭部を支える大きな手が、震えている。
「お前がひとりですべてを背負う必要はないんだぞ。お前が苦しんでいるのなら私がお前を守るから」
祐はそれでも、首を横に振った。
この人もまた、孤独なのだろう――自分に縋ることでしか生きられないのだろう、と、直感的に悟った。自分がこの人の下を去れば、この人には何も残らないのかもしれない。
本来はそこを佳也子が埋めるべきなのに、佳也子と聡一の間には、そんな繋がりはない。
そうであるなら、自分が繋がなければならない。
世界はすべて、繋がっている。
「大丈夫だ」
祐は、確かな声で告げた。
「俺も、もう、次で十七だし。今度からは、ちゃんと、自分で自分の身を守るから。だから、親父が、そんなに心配することは、ない」
聡一が、「そうか」と呟いた。
体が離れた。
逆光になっていて聡一の表情を見ることは叶わなかったが、
「そうか」
聡一はそう繰り返すと、祐の頭を一撫でして、その場を後にした。
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