第7章 慈愛

第14話 赦しの光

 がむしゃらに走った。

 鈴木には部屋で寝ているように言われたが、救急車を見送った後すぐに部屋を飛び出した。そうでなければ自分の中の何かが弾け飛ぶ気がした。

 走りたかった。

 思考を振り切りたかった。思考の渦をどこかへ置き去りにしてしまいたかった。

 そうでなければ自分はおかしくなってしまう。

 ――汝、姦淫するなかれ。

 佳也子は婚約者だ。しかし自分には結婚する気など微塵もなかった。隙を見ては抜け出して司祭になる夢を諦めていなかった。今も個人的な家庭を持つつもりはない。そうでなくとも佳也子に対しては如何なる種類の愛情も持ち合わせてはいない。

 暴力の手段の一つとしてのみ、自分はその行為を選択した。

 それができる自分を恐ろしいと思った。自分はいつからそんな化け物になってしまったのだろう。

 踏みにじられてきたからか。

 報復のためにあのような手段へ出たのか。

 報復しようという発想はいったいどこから出てきたのか。憎しみは連鎖するだけだと、敵をこそ愛せと主は仰せではないか。

 自分が制御できなくなった。

 化け物のせいで化け物になったのか。

 佳也子の折れそうだった身体を思い出す。

 佳也子は屋敷から出ない。一人では出られないためだ。気象や体調などいろんな条件が整った時にようやく車で下山する程度で、運動などもっての外である。

 手首も足首も棒のようだった。

 自分がその気になれば至極簡単に殺せる。

 佳也子は本来弱く脆い存在だ。出会った時から今の今までずっとそうだった。いつ何時発作を起こして倒れるか分からない、いつ何時帰らぬ人となってもおかしくない、とても儚い身体で生きている。

 佳也子と同じくらいだった目線はいつの間にか佳也子を見下ろすようになっていた。しかも風邪一つひかない強健な体質だ。その上日課として朝晩に走っている。

 自分は佳也子より圧倒的に強い。

 君臨され支配されているものは精神的な何かであって身体的な拘束ではない。むしろ、しようと思えば、自分の方がああして――

 自分はいったい何をしているのだろう。

 爪先に痛みが走った。直後視界が急転した。

 転んだ――そう認識する前に体が地面へ叩きつけられていた。受け身を取る間もなかった。走っていた勢いもあってか、顎や肩を強打し、腕や膝を大きく擦った。

 無様だった。

 地面に這いつくばったまま、足元の方に目をやった。木の根に爪先を引っ掛けたらしかった。そんなものにも気づけないほど夢中で走っていたらしい。

 息が上がっていることにも、ようやく気がついた。鈴木の言葉を思い出した。自分も体調が万全なわけではなかった。昨日退院してきたばかりだ。何日も横になっていたので体力は落ちているのだろう。全力疾走は無茶だったか。

 祐は知っていた。

 佳也子がいつも袖の長い服を着ているのは、棒のような腕を隠すためだけではない。何度も何度も注射し点滴した腕は青黒く変色していた。

 祐は、今回の入院で生まれて初めて点滴というものを打たれた。こんなにも鬱陶しく不自由で不快なものなのだと、初めて知った。

 佳也子はまた無数の管や線でつながれているのだろうか。

 自分のせいだ。

 その場で体躯を転がした。土で汚れるのも、石で傷つくのも、今は気にならなかった。ただ何となく呼吸が苦しくなったので、胸を上に向けようとした。

 仰向けになった。

 その途端だった。

 祐の目に、光が入ってきた。

 生い茂る緑の枝葉と枝葉の間から、目も眩む光が差し入る。幾筋も幾筋も緑を吸収し透明な色に変えながら降り注いできている。射抜くように大地を、大地に寝転がる祐の全身を照らしている。ある光は細く、ある光は太く、しかしいずれもまっすぐに輝いている。

 天から光が降り注ぐ。

 あまりの眩しさに祐は一度視界を両の手の平で覆った。

 眩しい。

 ずっと暗い山の中をひとりで走っているのだと思っていた。

 頭上では光がずっと輝いていた。そして今なお輝き続けている。

 見られている。

 祐は一度まぶたをきつく閉ざした。

 自分はどこにも逃げられない。光はずっと自分を見ている。

 天は自分を見つめている。

 天は自分がどんな行ないをしているのかずっと見つめている。

 怖い。

 罰が下ると、思った。

 自分はこれからどうなってしまうのだろう。

 しかし――

 風が抜ける。草が揺れる。梢がささめく。光が揺らぐ。空が覗く。熱が去る。

 息ができる。

 天から降り注ぐ光が、大地のすべてを包み込む。

 視界が歪んだ。目尻から生温い液体が零れ落ち、大地に滴って染み込んだ。

 神はそこにおわす。

 すべてをご覧じている。

 見られている――見つめられている。見てくださっている――見守ってくださっている。

 どんな裁きを受けてもいいと、祐は思った。

 両手を下ろした。

 まばゆい光にすべてを委ねる。

 大きく息を吸う。草の匂いがする。細く長く息を吐く。

 涼しい。快い。心地良い。

 恐れるものなど何もない。

 神はご覧じてくださっている。

「ごめんなさい」

 胸の上で両手を組み合わせた。

「俺は、罪を犯しました」

 それでもなお、光は降り注ぎ続ける。

 それでもなお、自分は息をしている。

 それでもなお、神がお望みだからこそ、自分は生き続けている。

 険しい道をひとりで歩み続けているのだと思い込んでいた。険しい道を越えてなお自分がここに在るのも神の思し召しだ。

 自分は生かされている。

 この道を行けば神の下での幸福が約束されている。その約束は自分が道に戻る限り違えられるものではない。

 道に戻ればいい。

 部屋に戻ろうと思った。ごみ箱に投げ込んだ十字架を拾って祈ろうと思った。

 光は葉を抜けて自分を優しく包み込んでいる。風が吹き抜け傷を癒していく。汗も涙も大地が受け止め土に染み込む。

 すべてのものが繋がっていく。

 繋がる。

 世界が神の御許で輪になる。

 赦そう、と思った。

 怒りに囚われて眼を曇らせたままでいるのは損だ。佳也子のすべてを赦そう。

 そして、赦されよう。

 自分たちに必要なのは赦し合うことだ。

 赦しを乞うて、そして、赦すのだ。

 今の自分がすべきことは、佳也子が無事に帰宅できることを祈ることなのだ。

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